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第56回人権交流京都市研究集会
●基調講演●
上杉 聡 (元大阪市立大学 教授/じんけんSCHOLA 共同代表)
司会進行:北村 要(京都市協)
責任者 :西條 裕二(京都市協)
記 録 :筒井 絋平(京都市協)
【講演要旨】
研究を忖度しないで行ってきたが、ハレーションを起こすことがあった。一頃は、どういうことがターゲットになったのかというと部落の起源が江戸時代の初めかそれ以前に遡るのかということであった。私は、江戸時代以前に遡るということを1990年くらいから話していたが異端であるという評価もされていた。その評価が変わる出来事のきっかけが、教科書に「部落の始まりが中世である」という記述がされたのが2001年のこと。それまで解放運動のなかで「権力者が部落差別をつくった」だから「権力に対して闘うのだ」と責任追及していた路線の人たちは、はしごを外されるような感じにもなったと思うが、多くの研究者によって今ではある意味常識になっている。
今日は最も不問にされてきた「慣習」ということについて話をしたい。差別はどのようにして始まったのか。権力が法律や制度をつくり、部落差別も法制化されたに違いないというのが、多くの方の考えであると思う。しかし、差別の始まりについては、まず民衆が差別をしたのではないか、それを権力が絡め取って大きな力を正当化して差別がここまで来たのではないかいう考えもありえる。「制度や法律の重要性」と「慣習の重要性」をどのように組み合わせて考えるのかが今日のテーマになる。
かつて「中世起源説」を言ったときに権力の問題をどう考えるのかと言われた。その時に私は、中世においても天皇制という権力があった。室町幕府という権力もあり中世に遡ることが権力起源説を否定することにはならないと反論した。一方で「慣習」というのは差別を民衆が平場で行うもので、慣習が法律や政策の先にあったということを捉え直す必要がある。差別の始まりは権力か民衆かということを考えていきたい。結論から言うと、民衆の中から差別が始まったとしても権力に責任があるということはいえる。権力から始まらなくても権力の力でもって整理し解決しなければならないこともあると思う。そういう点で差別はどうやって克服できるのかということを皆さんと一緒に考えたい。
私は権力が差別の解消のために絶大な努力を払うべきであるという原則を維持しながら、どのように部落差別が始まり今に至っているのかということを考えたいと思う。
どのように部落問題がはじまったのか学校での歴史教育から話を始めたい。かつて「士農工商エタ非人」という言葉を耳にタコができるくらいに聞かれていたと思う。「士農工商」という言い方は戦前からあった。しかし、「士農工商エタ非人」という言い方が始まるのは1970年以降である。1969年までは部落差別というのはどこにも書いていなかった。ところがその年に同和対策事業特別措置法が動き出した。1965年に同対審答申が出て、解放運動として答申の完全実施を求めた国民大行進が1966年にはじまります。1969年に特別措置法により何兆円という単位の国家予算が部落に投入されるようになります。その動きに敏感であった教科書会社の東京書籍と大阪書籍の2社が動き始めた。1970年に文部省に検定申請を行い1972年から部落問題が教科書に登場しだした。しかし、士農工商より低い身分が置かれたという表現であり、エタ非人という言葉が教科書に登場したのは、1975年のことであった。ところが部落問題についてより詳しいことはなかなか書けなかった。当時は研究者が部落問題を書けないというような事態が続いていた。それを克服したのは、各学校の先生方であると言ってもいいかもしれない。資料が図書館にないと、子ども会の爺ちゃん、婆ちゃんに話を聞いて家に資料があるという話がでてきた。江戸時代に部落の人たちが文字で書いているはずがないと思っていたが資料があった。しかし、江戸時代の書き崩した文字を読むのは大変だから村にいる地方史を勉強している年寄りと崩し字の辞典を読みながら直してガリ版で印刷して学校で配ることをした。そこに大学の研究者が歴史の話をしだすというようなことから研究がはじまっていった。
私はちょうどその頃、大阪に来たばっかりで解放研究所の図書資料室で資料を読み始めた。そうすると教科書に書いてあることがおかしいと思い始めた。「士農工商エタ非人」と「士農工商」と「エタ非人」をつづける表現は江戸時代に見つかっていない。昔から言われていることがこれでいいのかというように考えるようになる。同対審答申を受けた運動のなかで関心が高まり資料が集まりだした。多くの研究者がこのとき初めて部落の資料を見始めるということになった。研究の裾野をつくったのは資料である。
研究をすすめて方向を出さないといけない。明治4(1871)年に解放令が出たが、解放令以前の制度として、江戸幕府が成立した頃に部落ができたに違いないという資料を探した。しかし、そういう資料は出てこなかった。そこで、中世に戻ろうという考えのなかで有名な「一向一揆起源説」、一向一揆で戦った人が部落民に落とされたという説も出てきた。名古屋あたりで信長に一向一揆の人が10万人、15万人という人が名手桐で殺され部落が出来たという説もあったが、そうした資料も出てこない。名古屋や青森、鹿児島から資料が出てくるかもしれないから読めばいいが全国の研究がなされていない。
差別の始まりが法律制度か慣習からはじまったのかというのは、結論があったから江戸時代から始めることができた。もしかしたら慣習から始まっているかもしれない。慣習は、日本で言うと古事記や日本書紀まで遡る必要も出てくる。それが仏典です。仏典のなかに部落差別が実は書かれている。「大正新脩大蔵経」という仏典を集めた100巻ある資料集を10年前から読み始めています。デジタルデータになっているので、エタや非人に該当する旃陀羅をインプットすると該当箇所が出てくる。これを毎日2時間行うと重要な研究が出来なくなる。半ばノイローゼになりながらまとまり片を付けた。
なぜ「士農工商エタ非人」という言い方が一人歩きしたのかというと、学会で部落問題についてとりあげてこなかったことと、明治の研究がされていないこと。明治の初めから水平社が始まるまでの研究があまりなされていない。それは明治元年から20年くらいは江戸時代と文字の崩し方が変わっているためこれを読める研究者は日本の歴史家で一握りしかいなかったためで、そのため明治の初めから水平社が始まる40年間は空白であるという村の歴史がたくさんある。部落問題というのはみんなが軽視してきて研究をしていなかった背景があり時期が短くない。中世の白文から江戸時代の崩し字を含め大阪弁や京都弁、江戸弁まで含めた日本語に堪能でなければならない。膨大な量を読まなければならない。だから、AIだったら出来るかもしれないが法蓮華経の原文はサンスクリット語である。仏典はサンスクリット語で書かれていたからこれを読めないと本当の意味でのインドでの差別は分からない。部落差別はインド、日本だけではなく、韓国、チベット、ネパール、インドにもある。ヨーロッパにもアフリカにもあり世界中にある。そうすると世界の言葉を理解しないと部落差別の解決の全容は解明できない可能性がある。
後半では、部落差別がどの程度の普遍性があるのかについて考えていく。私は大きく見て2つの差別があると思っている。ひとつは「奴隷的な差別」です。人を持ち物にして売り買いをし、命も主人の持ち物です。ところが今は「除け者にする差別」である。日本でも紀元前から奴隷的な差別があった。「魏志倭人伝」に卑弥呼の話として卑弥呼が死に大きな墓をつくった時に奴婢百余人とあります。命まで主人の持ち物であるという奴婢のあり方が出てくる。奴婢の制度化というのは大宝律令の時にされていて奴隷に対する制度化がされている。そうすると奴隷に対する差別は制度から始まったのではないかと思うが、「後漢書東夷伝」に奴隷的な記述が見られ「生口百六十人」を日本列島にある小国が中国の皇帝に会いたいという記述が紀元50年に書かれている。ここに書かれている「生口」とはなにか。それは、捕虜として生け捕りになった人たちは生口と呼ばれて献上されている。卑弥呼も239年に魏に対して生口を10人与えている。卑弥呼も最初は生口と呼び、その後、奴婢と呼ぶようになったのが分かる。ここで差別は「制度」からはじまるのか「慣習」からはじまるのか。可能性として捕虜が奴隷になることの方が先にありそれが奴婢と呼ばれるようになったのではないか。中国の別の文献をみると卑弥呼が生口を10人献上したという記録も出てくるため、奴婢は生口と呼ばれていたものが変わった。奴婢は法律制度にもなっている。そうすると最初は奴婢も生口という奴隷の慣習です。法律制度をつくらなくても奴隷が発生した可能性があるというのが中国の当時の文献から出てくる結論である。奴隷的な差別については慣習から始まった可能性があるというのがひとつの結論である。
障害者差別というのは制度から始まったのか。蛭子(ヒルコ)という体が不自由であるために葦の船に乗せられて捨てられるという古事記の記述はある。日本書紀にも女性が先に声をあげたので男性優位の考えに反するために蛭子を産んだという女性差別で女性に対するものすごい牽制が書かれている。この頃の律令には障害者に対する差別法律があったかというとないどころか差別の度合いに対して国が保護する内容が書かれている。「令集解 巻九 戸令」には、白癩というハンセン病者に対する記述が出てくる。白癩に対して介助者をつけないことがあるとしても親族を付けなさい。でも親族が嫌なら仕方がないという記述がある。その親族が介助を嫌がるのは法律ではなく嫌だからという慣習がかっている。このように考えると差別は法律制度からという話ではないというのが分かる。
それでは、部落差別はどうなのか。旃陀羅という人たちがインドで差別を受けていた。旃陀羅が動物を殺すだけではなく人間を殺す恐ろしい人たちだということが仏典の中に出てくる。この旃陀羅がやがてやがてエタ非人になる。日本の部落差別を語るときに資料の最初に出てくるのが屠者です。インドから仏典を通じて部落差別が輸入されている。これは宗教であるため、慣習である。法律や制度というのであれば最初に日本に来ているのは慣習である。737年に「殺生禁断令」、741年に「牛馬殺生禁断令」などの法律が決まっていく。動物を殺すのは残酷でしてはいけないというのが仏教的な教えとして日本に伝わり明確になる。それを殺している部落の人たちは殺生禁断という仏教的な慣習が浸透するなかで差別を受けるようになった流れであったと分かる。つまり法律に先行している。それだけで部落差別が生まれたのかというと私はそう思っていない。927年の「延喜式」には下鴨神社の境内の外にあるといえども濫僧・屠者等は住んではいけないといって追放される。これは、国家が出した規則であり権力が行っている。部落差別と権力が結びついているというのがはっきりする。そのことがはっきりする記述が1015年の「小右記」の「京都の清掃を検非違使に命じた」という記述と1016年に「左経記」に「検非違使が河原人に死牛を処理させる」という記述である。権力によって河原人が清掃をやりはじめる。ここで権力に転化する。
最初に仏教から始まった慣習的なものであったが権力が動きだすとたくさんの人が集まるようになる。その結果、京都周辺の部落住民の人口密度が圧倒的に高い。京都が中心となり部落差別をつくったというのはこういう事実からはっきりしている。
今日の話の結論として、「権力」が主か「慣習」が主であるかは、簡単に解決が出来ない。その場合、私はお金を持っている権力が一番積極的にやらないといけないと思っている。仏教がなぜ差別を仏典に持ち込んだかというと仏教がヒンドゥー教が最も強いインドで生き残るためであった。しかし仏典のなかにも素晴らしい仏典がある。仏様の色は金色になっている。部落差別で穢れているという差別も人間が徳を積むと同じように金色になるというのは大変ありがたい教えだと思っている。そういう仏典から日本に影響を与えたのが親鸞、日蓮、法然などである。慣習の中から部落差別が始まりそこに仏教の影響が大きいと言ったがそれを仏教の立場から超えていく人たちがいた。そういう人の協力を得れば部落問題の解決が不可能だとは思わない。多くの差別は慣習から始まり制度化されていった。権力だけではなく宗教も含めて私達も偏見も含めて変えていくという方向性を提案させていただきたい。そして差別の制度化として江戸時代の初めに差別が法律になる。武田信玄の下での差別が定められ、安政7年には徳川幕府が差別法令を出した。これが幕府が出した最初で最後の法令であるが各藩に非常に大きな影響を与えた。
かなり長い間、差別が続くという例として明治5年につくられた「壬申戸籍」がある。そこには父が元エタであるとか江戸時代から部落の人だけを檀家にしてきたお寺の名前とか部落差別に関連する神社を記載しないといけない規則になっていたために色々な形で分かるようになっていた。この「壬申戸籍」が法務省に閉じ込められて見られなくなったのは1968年からです。それまでの明治維新から100年の間、日本人は人の戸籍を見て生活をしてきた。これで差別はなくなりますか。そのような形で深刻な慣習が戸籍では少なくとも100年続いてきた。そういう意味では、差別の制度が問題で権力が問題であるというのは簡単ではあるけれどこれだけ我々の差別というのはがんじがらめに私達を縛り付けるようになっていてそれを全部解決しない限り差別はなくならないということを知っていただきたいと思います。
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