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 全体集会記念講演

 

 

「私が歩んできた道」

つたえたい! つなげたい! ひろげたい!

 

報告者 宮崎茂(部落解放同盟西三条支部)

              野口英代(部落解放同盟木崎支部)

 

宮崎:それぞれが35分、歩んできた道をお話しし、その後対談にうつっていきます。野口さんは90才ということで、ちょうど、亡くなられた娘さんと私がちょうど同じ年くらいで、親子で共演するようになりました。

 まず、私から、歩んできた道を報告します。私は1953年(昭和28年)に京都市の西三条に生まれました。資料には当時の西三条地域の様子を載せています。大きく4つの区切りでお話しします。

まず、幼少から小学校までの生い立ちで、母親が失業対策事業に従事していまして、地域には壬生保育所というのがあるんですが、保育料金が高いので、ちょうど、5歳ごろでしたが、今の京都御所の西南角に閑院宮邸のところに失対(失業対策事業従事者)の託児所として弟と僕と、市電に乗って通っていました。その時の記憶としては、自分の持っている切符の色が赤かったこと。これは失対に行く人の切符で、勤労者の人は青切符の10円の切符ということで、自分自身が赤切符を持って母親の手をつなぎながら毎日託児所に行きました。弟は託児所に預かってもらうんですが、僕はもともと壬生保育所に籍がありましたので母親のリアカーに乗せてもらって、京都御所にある野球場、それからテニスコートが中にあるんですが、そのローラー引き、草刈、いわゆる失対の現場に連れて行ってもらって、そしてそこで、自分はそこで遊んでいるというのが、日ごろの行動でした。特に、京都御所の思い出というのはセミがたくさんいて小さい小川で水遊びをしている。ずっと一人で遊んでいるということが多くありました。コロナ禍で、この2~3年前から御所を散歩して、昔ながらの情景を見たときに、ふと思い出すことがけっこうありました。

それから小学校に行くんですが、波乱万丈の小学校時代でした。特に入学して5月か6月頃だったと思いますが、給食が支給されるので、茶碗をもって並んでいたら、後ろから押されて、今も痕があるんですが、左手を給食の熱湯の入れ物につっこんで大やけどをするという体験をしました。痛かったということと、変な薬を付けられたという思い出があります。それで、学校をしばらく休んで、一番の思い出は校長先生と担任の先生が家に来られた時です。まだその時はバナナは高級でしたし、缶詰のパイナップルというのは食べたことも見たこともなかったので、先生が持ってきてくれたときには、それだけが、うれしい自分の記憶でした。そんな中で、学校を休みがちになってくるんですが、何とか1年生を終わって、2年生になろうとする3月。実は地元で大きな火災がおきたんです。私の家からの出火ではないんですが、近所から、原因はアイロンの消し忘れで、壬生の大火というのがおこったわけです。その後消防局から資料を取り寄せたところ、1417所帯61人の罹災ということで、私の家は、そのうちの1所帯、6人家族でした。親父とお袋と4人兄弟です。この4人兄弟が家がないので、僕と姉は親せきの家に預けられ、うちの弟と妹はまた違うところに預けられるということで、親子が会うということはほぼ家が建つまではないという状態でした。それでなくても、それまでの家というのは、本当にあばら家の家でしたが、出来上がった家も、表向きには形はいいのですが、トタン屋根で、ベニヤ板で壁があるという、本当に粗末な家でした。それで、毎日、違うところから学校に通っていく、それが、自分の2年生のときの思い出でしたし、みんなと一緒に会ってしゃべるというのはなかったです。学校が終わったらすぐに帰らなければならないので、そういう意味では1年、2年の小学校で定着する時期というのは自分の中では、いい思い出が実はありませんでした。それと先生が家庭に来てくれたという記憶が僕の中ではほとんどないんですね。その時は、来てもらわない方がいいかなと思っていたんですが、解放運動をしていく中で、なんで先生はきてくれなかったのかと、疑問に思うのがそのあとも、残ってました。

ちょうどこの火災で西三条の改良事業がはじまって、上花田地域に、住宅が建っていくという流れになっていきます。その火事のことで鮮明に覚えているのは、確か夕方、昼過ぎだったんですがすごい勢いで煙が出ているのを、茫然と僕は見ていたら、近所のおばちゃんが、「そんなところにいたら危ないさかい、見たらあかん」と言って、別のところに避難させられた。それで、うちは、親せきが地元にありませんでしたから、隣近所のおばちゃんが、「うちでごはん食べ」ということで、そうしている間に両親が帰ってきたり、火災のおきた家の人が帰ってきたり、当時は連絡する術がないもので、帰ってきて、自分の家の変わり果てた姿見て茫然としていたことを僕の記憶の中では鮮明に覚えているんです。で、僕はちょうど小学校2年で姉は4年になるときで、妹は生まれてまだ2歳くらいだったと思うんです。妹は昭和34年に生まれてますから。とりあえず、うちの姉が妹を抱っこして逃げるというのが当時の自分の中の記憶でした。それで、帰ってきてから、隣保館の職員さんだと思うんですが、今後どうするという相談をしていました。ちなみにうちの家は24平米で、坪で言うと、7.2坪、畳で言うと14枚で、6錠と4畳半の部屋のところに6人が生活していたというのが当時の状況です。ちょうど冊子に写真があるのは建て替えたあとの写真で。この前は改良事業で隣が立ち退いた後です。私の家と隣の家の軒下にあるのは、55年前の様子です。

そこで、地域の様子ですが、自分の記憶では、朝起きたら、近所のおっちゃんは、自転車にツルハシとスコップを担いで、弁当を持って土方仕事に行く。そういう光景と、普通の職人、それから日雇いに行く人。そういう人たちしか、自分の見える範囲ではいませんでした。あとは、昼間仕事がないから、若い人たちがうろうろしているという記憶があります。サラリーマンの人。ネクタイしてスーツ着て出かける人というのは私の記憶ではほぼありませんでしたし、私の年代の子どもたちはそうだと思います。

特に、夜中雨が降ると、雨漏りがするんです。バケツをあちこちに置いて、夜中寝られませんから翌日学校に行くのが非常につらい。そのまま、目をこすって学校に行くという状況でありました。もちろん、トイレは共同便所、それから共同水道、水道のないところは井戸水か生活用水です。それで、くみ取りとか水道料金の集金日というのは必ず子どもが学校を休まなきゃだめでした。中でも女の子は、とりあえず読み書きだけ、「自分の住所と名前だけ書けたらいずれ嫁にいくんだから、勉強みたいなことせんでいい」ということで、女の子はそういう労働力で使われてきたというのは、僕の記憶にあります。

日常生活では、小学校に入ると、親が5円か10円をお膳の上に、兄弟分の小遣いということで置いておいてくれるんですね。だけど、だんだん、小学校45年になってくると、けっこうお腹がすくんです。5円で何か買ってもすぐお腹がすくので、どうするかというと、家には磁石があって、その磁石をひもでくくって毎日、地道を歩くんです。そして、釘や鉄が磁石につくと、箱に集めて、すぐにはお金になりませんから、いっぱいになるまで、家の縁の下。ぼくらすまきと言ったんですが、縁の下に隠して、そこそこ箱がいっぱいになってきたら、古鉄屋に持って行って、それが自分の小遣いにしたりしていました。それから、手っ取り早いのは、島津製作所の前に嵐電の駅がありまして、島津製作所は結構羽振りがいいので、電車に乗るまでの間、夕方仕事終わりの会社員の人がタバコを吸うんです。電車が来たらそのまま乗っていくので、その後、ちょうど西大路三条に屑やさんがあったので、屑屋さんにならんでモク拾い、モク拾いというのはタバコを吸われてほかす。そのほかしたタバコの吸殻を拾いに行くんです。それを集めて日中に新聞紙を広げてそこでタバコの紙を破って。当時、近所のおっちゃんはキセルを使っていたので、そのキセルのたばこ代として、小遣いをもらう。これが、一番手っ取り早くて金になる仕事でした。そして、一番金になったのは、学校に行く道中に酒屋が何軒かありまして、酒の一升瓶に鉛があったので、ピース缶の上で鉛を溶かす。そこそこ溶かしたら公園の水道でそれを冷やして、鉛を売りに行くというのが、一番お金になる方法としてやりました。小さい時から生活する知恵ではないけど、生きていく術は自分の中では友達とやら一緒に考えてやってきたというのはありました。

学校の生活は、実は私は小学校の4年まで教科書というのを新しく、もらっていない。4年生から教科書無償化が始まってみんなにあたるんですが、1年、2年、3年は、先輩から母親が入学する前から、あそこの家は上にあがるからと「もらいあい」をするんです。だから必ず名前を書いたらあかんのです。名前を書いたら次の人が使えない。そういう教科書を小学校の3年生まで持ってました。特に難儀したのは、算数の教科書でした。先生が何ページの3たす5はいくらやでというこの問題をやりなさい、というときに、僕のページ数と、先生のページ数があわないんです。で、友達のを見ながらすると、あ、次のページやったんやな。と、それを探すので、いっぱいいっぱいの授業をしてきました。それから、そろばんの授業では、みんな僕の隣に座るのを嫌がるんですが、そろばんを買ってもらっていないから、机のはしっこをくっつけて、はしっこで球をはじくという、そんなことをやってきたという記憶があります。

よく覚えているのは、うちの姉は今日もこの会場に来てるんですが、二つ上なんです。で、妹を背中におぶって、学校に行くんですね。僕は、小学校の2年でしたが、どっちかというと背が低いので、普通なら前に座るんですが、僕はいつも、後ろに。妹が泣いたら姉が僕を呼びにくるんです。そしておむつとミルクを持って給食室に行って、そして湯をもらって、お乳を与える、そうした姉の後姿をずっと見てきました。絶対に貧乏はいやだなというのをつくづくここで、感じたのが本当に小学校の低学年です。先生は必ず、何か忘れたら黒板に書いて、そして持ってきたら黒板の名前を消してもらえるんですが、ずっと僕は自分の宮崎というのは、消されることがなかった。常習者だということで友達から言われてたというのを本当に鮮明に覚えています。くやしかったというのが僕の記憶でした。

また、姉がトイレの汲み取り、水道の集金に子どもがその世話をしないと、汲み取りを飛ばしたら、近所の人が本当に困るんです。次のくみ取りまで1週間か10日くらい来ないので、必ず汲み取りの時は料金を渡さないといけないから、子どもの仕事として、それをさせられる。で、うちの姉がいつもその当番になっているんですが、近所の姉の同級生が、学校から帰ってくると、「姉ちゃんいるか」。「なんかあったんか」というと、「先生が学校にこなあかんで」と言って、給食のパンとプリントを持って帰ってくれた。私は、何回か姉に、学校行かへんのか、と聞いたら、今日はトイレの集金日やし行けへん、あずかってんねん。今日は、電気の支払いがあるさかい、滞ったら電機が止まるから皆困るし、行けへん。今日は妹が熱出して、誰も見るもんがいないから行けへん、ずっとそういうことが続いていました。そうか、ということで、僕もそれは理解していたんです。そんな中で、ある日、姉の通知簿を見ました。もちろん、良くないのは決まっていますが、その出席簿を見たら出席よりも欠席日数の方がむちゃくちゃ多いんです。それで僕は正直言って、こんなに多いんだなと、びっくりしました。姉自身も小学校の3年生で、妹の世話や、家の世話、そういうのをしながら、また、親が帰ってくるまでの間に、当時は子供の仕事として、七輪に火を起こして、おくどさんに火を焚いて、ご飯を炊いておく、それが子供の仕事だったんで、教科書で勉強するとかいうことはほとんどありませんでした。私は、少しずるい弟だったので、姉は火が怖いからたまに駄賃もらって、火をつけてあげたりして、兄弟で家庭の助けをしてきたのが自分のこれまでの生い立ちです。

ちょっと、時間の関係で飛ばしますが、実は小学校5年のときに、友達の家に遊びに行くんですが、北小路町から来たんだと言ったときに、友達のお母さんが口に3本指をぱっとさされて、奥にだれかいたんだと思うんですが、「あ、そうか」ということで、「あっこの子らしいで」といういことで、僕の見ている玄関口で、奥でそういう仕草をされたことを鮮明に覚えていたんですが、意味が実はわからなかったんです。後に中学校に入ってから、そのことがわかるんです。前後しますが、中学校2年生の時に、当時同和主任の先生が、いよいよ社会科で身分制の問題が出てくるというとき、町内の子を全部集めて、「わしの話をしっかり聞けよと」いうことで話はじめました。あの時の先生の眼差しと、手が震えながら先生が3本指をさして「おまえらこんな仕草されたことないか」ということを言われたんです。そのとき僕は、先生によう言わなかった。先生は非常に怖い顔をしていて、「先生僕、それあったんや」と、よう言わなかった。「それは、先生、なんや?」と聞いたら、先生はまた一呼吸おいてから、「それはな、三条口のエッタの子や」と、そういうことを先生が教えてくれた。その時僕は非常に悔しくて、悲しかったのは、「え?僕は小学校5年生の時に、友達の親からそういうことを思われていたし、そういうことをされていたんだ」というのが中学校2年の時に僕はショッキングで悩みました。その悩みは何かというと、隠すことを自分は覚えてしまったんですね。それがずっと、解放運動に入って、これはダメだということを目覚めていくんですが、小学校の10才の僕に、3本指をさして三条口のエッタの子だと言われたときは、本当に、僕はくやしかったという思いがありました。

また、話は飛ぶんですが、小学校5年生を終えていよいよ最高学年になっていきますので、町内のいわゆる集団登校があるんですが、先輩から町別の旗というのを送られる。竹竿に町内名が書いてある。どの町内が一番早いか遅いかというのを先生が学校の玄関口でチェックするんです。集合時間にみんながなかなか集まらないと6年生はとりあえず走ってその町の旗をたてに行くというのが仕事なんです。だから、1番先に旗を立てる。だけど、子供は全然来てないので、先生によく怒られましたけど、先生はそれで、子供たちが来てるのか来てないのかはかっていたので、今のように集団登校が同和教育の一環としてはありませんでした。

それから、小学校の6年生のちょうど今、2月くらいから、新聞配達に行くんです。それは、親の金のために行くんですが、なぜ、小学校の6年で行くかというと、3年生の先輩が進路指導で就職が決まると、3年生の2学期で決まるので、そこから、申し込んでいかないと中学校に入ってからでは新聞配達ができひんのです。だから、小学校の2学期の終わりか3学期の2月くらいから、新聞配達に行きました。僕は小さい体でしたが、中学に入ったら、掃除もせんとずっと新聞配達に行って、一人前の稼ぎではないけど、ほぼほぼの稼ぎをしながら家族の足しに入れました。その時は僕だけじゃなくて、西大路三条を東に行くと、千本三条の界隈は、材木屋さんが多いので、そこには昔、柴を割って火を焚いたりする柴のアルバイトや、牛乳配達とか新聞配達、多くの先輩がやっているのを自分は見てきました。

中学3年生になるといよいよ進路指導がはじまります。試験は、私学と公立があって、私学は2月の上旬に試験を受けて、中旬に発表されたら何日以内に入学金を納めなさいとなっている。で、それで3月に入ると公立学校の試験が始まるんですが、僕はずっと悩んできました。そして先生とも相談したんですが、先生は私学をとりあえず受けろと言ったけど、「先生、僕は入試で家の負担をかけられない。それから、弟も妹もいる、僕が行ったら、みんないけないから、先生僕はもう無理だ」と言ったんです。だけど、先生は公立1本ですべったときに、就職もままならないからということで私学の受験も進められ、ずっと進路指導に悩みました。その悩んだ原因の一番は貧乏で、自分が行ったらその後が続かないというのが、自分でわかってましたから。親が日雇いの父親と失対の母親で、とてもじゃないが私学には行かせてもらえない。その時は奨学金が定額制で、私学はいくら、公立はいくらということでした。僕はずっと悩みながら、「先生、それだったら僕は働きながら定時制高校行くわ。できるだけ勉強はしたいし、高校だけは出たい。」ということで当時の西京高校に入って、で、島津製作所に幸い受かっていきました。島津製作所では工業系の仕事でしたので、もう一回洛陽高校に入り直し、5年かけて定時制高校を卒業してきました。

だから、自分が解放運動に入って、思ったのはまず、二つでした。青年部長を持った時に、公立高校の同和奨学金の定額制を廃止して実額制に変えるべきだということで、変えてきた記憶があります。それはどの私学でも私学はいくら、公立はいくら、公立はちょっとだけおいしいんです。お金が浮くんです。私学は親の足し前が多いんです。ですからこれを実額に切り替えるという運動をしました。もう一つは、解放運動で、青年部が集まった会合のときに、差別体験を話す機会があったんです。「俺は頭が固くもないのに、レンガって言われる、友達から」。それから、「俺は山田なのにミツコシって言われる。」そういう話があって。僕も三本指さされて三条口のエッタといわれたんだということで議論をしたんです。それって、みんな差別の隠語だったんです。ミツコシというのは、百貨店でもなんでもないんです。三つ越したら四つなんですね。だから、ヨツの代名詞としてあれはミツコシやで、ということはあれはヨツやでということを言う。また、野口さんの話を聞かせてもらったときには、エタやとかヨツやとか、ズバリ言うんですが、僕の年代ではそういうズバリでなく、すり替えた言葉で言う。レンガというのはコーナンでもどこでも店の売り場では、四つ一束縄でくくってで売ってるんですよね。これを四つという代名詞にして、青年部の僕らの会合で言われた。それが、口惜しい、悔しいという思いが自分の解放運動、そして自分が差別体験をしたということで絶対に僕は変えなあかんというのが、僕が四十数年間運動してきた原点なんです。

時間の関係でこれ以上は話せませんが、本当に自分が貧乏だったという体験、そして差別された体験というのは子供の時にはわからなかったんだけど、後からそれを感じたときに、その悔しさというのは、本当にずっと残ります。そういう思いを皆さんに伝えて、訴えさせていただいて、ぼくが解放運動に今日まで一緒に参画させていただいたということで、私の話を終えていきたいと思います。

 

(拍手)

 

宮崎:それでは、次に野口さんの方にバトンタッチします。野口さんも、自分でしゃべったら2時間3時間しゃべりたいということだったんですが、時間の関係で、少し私の方がリードしながら進めたいと思います。野口さん、では、生い立ちから簡単にお願いします。

 

野口:野口英代でございます。簡単に生い立ちをお話しします。私はお手元にある資料にありますが、昭和5年に滋賀県の方の部落で生まれたんですが、自分が寺の子として生まれましたので、こんなこと、この場で本当に恥ずかしい話で、言いにくいことですけど、小さいころは「自分は違うんだ」と、寺の娘だと、お嬢、お嬢とずっと村に人から言われていいましたので、あんたらと私は違うんだという、そういう頭の中で、差別というか優越感というか、そんな育ち方をしておりました。後のことは、宮崎さんのお力をお借りしてお話ししたいと思いますけど、そういう意識の中で、園部の方へ嫁いできました。

ある一つのきっかけがありまして、部落解放の組織に入り、松本治一郎委員長のはじめての講演を聞かせてもらい、テーマは「部落に生まれたものの使命は何か」。その言葉に、私の眠っていた差別意識がポッと立ち止まって、これはやらなあかん。やはり、自分の使命はこれやということで、解放運動への意識が出発した。後のことは、この年まで生きてきましたので、もう随分とたくさんの、いろいろな経験、いろんな苦しみ、悲しみ、いろんなことがありますけど、先ほど申したように、宮崎さんのご質問の言葉に答えながら、自分の今までの人生をお伝えできたらいいかなということで、よろしくお願いします。

 

宮崎:資料の39ページに野口さんの書かれた自分史が掲載されています。この中に、どのように生きてきたかが書かれていますが、何点か私の方から聞きたいと思います。まず、野口さんは寺の子として生まれ、育ちました。「寺の子」というのは部落の中で「ええしの子」。服もいい服を着せてもらって、勉強もできるし、というのが部落の中のええしの子。野口さんも自分のことを寺の子と自覚し、学級委員もされて優秀だったということです。そして教師を志すきっかけというのが子供の時の、分教場と本校の子の出会いにあったということですが、分教場というのは、分校なのでしょうか、そのへんを皆さんにお聞かせください。

 

野口:滋賀県の私の生まれた村は、ものすごおごっつうて、300戸ほどあったと思います。だから、お寺が二つありまして、真宗ですが、西光寺と東光寺と二つありまして、西光寺の方は大きなお寺で門徒も多かったんですけど、私の生まれたのは東光寺で、門徒の方も少なくて、本当に貧乏というか、寺というだけで内容はなかなか苦しい。九人の子どもがありまして、両親は大変苦労しました。

村の中に学校がありまして、それが分教場でした。その時私は知りませんでしたが、こちらへ嫁いできてから、私の姉が学校の教師をして自分の村の歴史を還暦祝いとして発刊し、それを私たち兄弟に一冊ずつ送ってくださったので、それを読んで初めて、その分教場が差別の産物だったということがわかったんです。ということは、部落と言ってもいろいろ日本の国、たくさんありますが、その場所ごとにすごく差別の頻度や格差があると思うんですが、私の生まれた滋賀県はものすごく差別が厳しくて、なぜ分教場が部落の中にあったかというと、やはり本校へ行くと部落の、今は部落という言葉はよく聞きますが、私が子供で小さいときは、もう、エッタ、ヨツ、しへい、それがもう、たくさん村の中で私の耳に入った言葉なんですけど、しいへい、エッタが本校に来たら、本校の通っている親たちは、その学校へようやらんと、そういうような差別がきつかった時代だったので、村の中に分教場という学校ができたので、そこへ私は1年と2年と通ったんです。で、3年生になって本校にいくわけですが、今宮崎さんがおっしゃったように、先生になりたいと思ったのは、3年生になって本校に言ったとき、その時に、私の胸の中には、自分は、ちょっと部落かなあ、エッタかな、どうやろな、というちょっとおかしいな、という感じが出てたときなんですが、村の中の分教場にいるときは、差別とかそういう言葉は全然耳に入るわけもなかったですが、本校に行くと、やはり、緊張感。大きな学校、違う仲間、それと一緒に勉強するということで、ものすごい緊張感を持って、3年生の本校に行ったわけですが、その最初の時に、学校の先生が出欠を取るときに、本校へずっと1年2年、3年になった生徒には、「清子ちゃん、山本ふみこちゃん」とかいう、チャン付けで、今は男女共学になっていますが、私の子どもの時には、女は女、男は男と別れていた時代でしたので、皆、私が3年で行ったときには、友達はみんな女の子でしたので、ちゃん付けで呼ばはって、そして、私ら分教場から行ったものには、私は今、野口ですけど、滋賀県では徳島英代さんとか、そういうさん付けで呼ばれたんです。で、やっぱり女の子やったら、〇〇ちゃんと、かわいく呼んでもらえたらうれしいもの。同じ名前でも、清子さん、というのと、清子ちゃんというのでは、誰かて清子ちゃんと呼んでもらった方がうれしいもんです。そんな中で、そういう言い方を先生がされたので、これはなんでやろな、おかしいな、と感じたのと。あと一つは、4年生になったときに、今、家庭科と言いますが、あの時は裁縫といいました。裁縫の時間がきました。その時に、一般の生徒のところへは、先生が、こうやで、ああやでと教えに行くんですけど、私たち、分教場から行った生徒には、一つも教えに来てくれなかったです。その時に、私がクラスの級長をしておりまして、昔は、小使いさんが鐘を鳴らして時間の終わりを告げるんですね。鐘がなったんです。もちろん、普通やったら、級長の私が「起立」と言うと、クラスのもんが立つわけですけど、私はもう、むらむらーっと、なんでやねん、なんで私らの方へも先生が来てくれたらいいのに、なんで来てくれないんや、おかしい、腹が煮えくり返って。普通やったら、起立と言ったらみんなが立つんですけど、私が起立と言わないものだから、やはりみんなもいつまでも座っているわけなんです。で、先生はちょっとこわばった顔をしながら、しばらく教壇に立っておられましたけどもすっと出ていきました。で、私はすっとしましたんです。ああ、っと思って、けども4年生といったら、まだ小さい子供ですので、後から、教員室から、ちょっと来なさい、さっきの態度はどうでしたか、ということで呼ばれるかと思いまして、この胸がドンドンしました。まだ小さい子供ですので。けども先生に呼ばれたら、なんで私らは裁縫の先生が教えにこちらの方にみんなと同じようにしてくれなかったんですかと、私は言ったらいいのやと覚悟を決めていたことを今でも覚えています。けども、何も教員室の方から何もなかったので、よかったなと胸をなでおろしたのも事実なんです。その時に、あ、私は勉強を一生懸命して先生になって、みんなと同じようにちゃんと教える時も平等にしてあげたい。そのためには先生になりたいと、そういう気持ちでした。

 

宮崎:そうですね、分教場には部落の子が行っていた。本校に来てもらったら困るということで二部制になっていた。3年生になって合流したら先生からそういう仕打ちに合う。それが野口さんを奮い立たせた一番の気持ちだったということですね。差別に対する怒りが、教師になって自分は平等でやろうと思ったということです。

 

野口:そうして、一生懸命に先生になるという希望でやってたんですけど、小学校4年生、昭和16年に大東亜戦争がはじまって、それから5年、6年と行って、滋賀県立の女学校に入学したわけなんですが、もうその時に大東亜戦争は本当に負け戦という感じ、後からそれはわかったことですけど、その時は私らの耳には情報は入らずに、私らは日本は勝つ、勝つまでは負けません、ぜいたくはしません、とかいう標語に踊らされてずっと暮らしてたわけですが、いよいよ女学校の1年生2年生になったときに、学徒動員の命令が政府から出されて、私たちは滋賀県彦根の軍需工場に動員されました。そういうわけで、食料もものすごく、9人の子どもとお父さん、お母さん11人の所帯の中で、本当にうすいおかゆさんを食べるのがせいいっぱいの事情でした。その中で、学徒動員という一つの国策に応じて働きに行きました。私が小学校5年生のときに、ちょうど兄は高等科2年生で、その時に満蒙開拓義勇軍という国策に従って出征してしまって、戦争がすんだのが、昭和20年の815日ですけど兄はその4月に戦死したわけなんです。その中で、ちょうど兄の戦死は母にとっては、19の子どもを亡くしたわけなんですが、やはりその時の国策で軍国の母は涙を見せてはならんという風潮が社会一般に伝わっていましたので、絶対人の前では涙を出せなかった母でも、毎日本堂に入っては涙を流している姿を私は見ていました。そんな中で、もう、母は栄養不良、それと精神的な、子供を失った悲しみ、そんなことでやせ衰えていくのが、私は子供ながらによくわかっていたし、先に子供がご飯をすませてからは母一人でこっそりと残ったおかゆさんを食べている姿、それが毎日の状態でした。そんななんやかやで、母はとうとう風邪をひいてしまって、その風邪も今やったら病院に行って治療したらなおるんですが、あの時分はもう、戦争では、病院に行くこともなかったし、薬もなかったし、食べるものはおかゆさんやし栄養はとれず、どんどん悪くなって、肺炎になってしまったんです。その時に私は、もう長女は学校の先生をしておりましたので、やはり給料が入るということは、貧しい私の家では宝ですわ。だから姉は先生をやめるわけにはいかず、次の女の子というと私が、看病しなければ、私がしなければだれがするんや、という気持ちで先生になりたいという気持ちはふっとんでしまって、そして私はお父さんに内緒で退学届けを出したんです。その日、担任の先生が私のところにこられて「徳島さん、お母さんを思う気持ちは先生にもよくわかるよ、けども、今退学したら今までのお母さんの苦労は水の泡になる。だからもう退学届けを破りますよ、休校届にして、お母さんが体が治るまで、しっかり学校を休んで、看病してあげなさいよ」と言って、退学届けは破られ先生は帰られました。それから私はお母さんの看病をしながら、お寺の坊守としての役目、それから、下の兄弟、4人おりましたので、お弁当入れとかいろんなことをしながら、本当にがんばってきましたが、母は昭和20年の118日、みんなの慟哭の中で母はなくなって、私は教師の夢を捨てたんです。

 

宮崎:そういう苦労の中で、先生が休学にしておきなさいといわれ、兄弟さんのめんどうをみながらその後、23才で木崎の部落に嫁いでいかれるんですが、その時に、まだ寺の子の意識というのは頭にありつつ、自分の連れ合いさんのかっこを見たら、地元の近所の人の格好と一緒だと、土方姿で、えらいところの来たなということで、悩んでおられたということで、木崎の村に来た時の状況を教えていただいて、そこから野口さんが部落解放運動に、茶の間の会から行かれるという、その辺を結婚生活を含めてお願いしたいです。

 

野口:ええ、23才で結婚しました。私はやはり自分の父や母が同じ滋賀県のそこで生まれていたら、なんぼお寺でも部落です。でも私の母は兵庫県の篠山の方から来ていました。お父さんは、丹波町の水戸というところから来ておりまして、それも知っておりましたので、だから、常識一般でいうと部落の中のお寺の住職はみんなと同じように部落だという環境ですが、私の父と母は違うところから来ているので、私の頭の中には違うんやと、その意識があったので、先ほども申したように、本当に恥ずかしいんですけど、部落の人に差別的な心が自分の中にあったということなんです。そこで自分が何者か、私はいったい何者やろという、それがもうずっと、戦争中も、園部へ嫁いで来るまでも、ずっと頭から離れなかった。その中で、園部に来るまでの間に、私は何者か、私は何者か、同じ日本で、同じ戸籍がちゃんとあるのに、なんで私らはエタとか、そういう言葉で差別されるのか、それがわからなくて私は図書館へずっと、毎日ほど夏休みになったら通ったんです。その中で、当時の横光利一とか、大佛次郎とか、いろんな小説家の本ばかりが、たくさんあったので、それを借りてきてはエタとか部落とかヨツとかそういう話が出てこないかなと、それが浅はかな子どもですが、どの本を借りて読んでもエタのエも、シヘイのしも、部落のぶも出てなかって、なんでやろ、なんでやろ。今こそ、同和教育の本なり、部落の本なり、どこの図書館でも、どこの公民館でもありますけれども、あの当時はそういうものは一切なかったので、だから長い間苦しんでやっと見つけたのが「破戒」。島崎藤村の「破戒」だったんです。初めから読みだして、どうなるんやろう、どうなるんやろうと言いながら、一冊の本を読めば読むほど、読み進めるほど、胸ががっかりして最終的にやはり、その時の時代の流れと言いますか、丑松が、この学校にしーへいの先生がいることが知れたら、一般の家庭から、そんな学校へうちの子はようやらんと、そういう風潮の中で、だんだんと学校の先生の仲間の中で追い詰められていって丑松は生徒に跪いて先生が今まで隠して悪かった、僕は部落だったんですということで、今まで黙っていたことを許してくださいと、跪いてそして、学校をやめてアメリカのテキサスへ逃げていったというところでその本は終わっていたんです。だから、この本こそはと思っていたものが、かえって読まなければよかったのに、読んだがために丑松と同じ、私はどこまで行っても私の一生はこれで部落、エタ、ヨツその世界で終わるのかなと思ったときの、あのショックはもう本当に、この年になるまで、本当に泣きました。けども、それを母には言えず、父にも言ったことがないし、兄や姉にも言ったことはないし、向こうからはお父さん、お母さんからも家の中ではなかったので、私は本当に自分は何者やろという、そのことを抱えたまま、園部にきました。

 

宮崎:そこで、「私に夜明けが来た」というタイトルが出てくるんですが、木崎の村の中で、茶の間の会というのがありまして、京都市の同和教育の始まりというのは先生方が今日も机にあの子がいない、それを何とかしなければと、先生の手弁当から始まっていくんですが、園部町の木崎の部落は、やっと高校に行った子が、後輩に勉強を教えたいということで、お寺さんを会場に、当時隣保館が昭和43年まではなかったので、それまでは集会所がなかったので、お寺さんがみんなが集まれる場所だった。そこで茶の間の会というので高校生の専売が後輩に勉強を教える、それで、近所のお母さん方が、お茶を出していこうと、暖を取ってあげようと、何人かかかわっていくんですが、この茶の間の会で、自分が何者かがわかって、解放運動をしていこうというきっかけが生まれてくる。そこをお願いします。

 

野口:ちょうど、私の子どもはまだ2歳だったと思いますが、その時に、教育長が園部に赴任してきて、学校のPTAの中で、「子供と教育」というテーマでお話しされることがあったんです。けれどもその当時の部落のお母さん方はやっぱり、自分は部落だという観念が頭の中にあって、一般のお母さんと一緒の中に入るということ自体が、やはり、なんというか、丑松的な気持ちで、そういう参観日とかいろいろありましたけど、出ていく人があんまりなかったですね。一般のお母さんの中に入っていくこと。何か言われないだろうか、部落やということが、わからへんやろか、その気持ち。それともう一つは一番大事なことですが、部落の生活の貧しさがあって、そういう学校へ子どものためにいかんならんということがわかっていても、その時間が惜しくて、やはり家の労働、田んぼの仕事、そういうので時間を取られるのがもったいないというような、いろんな要素があって、行く人がなかったそうです。けれども村の中で育友会の役員をしておられる方がいまして、その方は役職上その講演会を聞きにきたわけで、すごくためになる話だった。この話をうちらの、村のお母さん方に聞かせてほしい、ということでその先生に交渉したんです。その先生も、やはり、同和教育にものすごく関心を持たれて、子供の教育はやはり、部落問題がかかわってくる。学力やそういうことにも部落問題をのけては通れない課題ですので、いつかは、部落の中へ自分が入って部落の人からいろんな話を聞いて、という気持ちを常々持っておられたので、おっと幸いということで、快く引き受けてくださって、私たちの、当時は隣保館なんかありませんわね。お寺の会議所、そこでみなさん、村のお母さんに呼びかけて、先生がお話をされました。それで、村の人もお母さん方も、ものすごく子供の教育について関心が、ちょうどその当時高まってきた。6,3,3制が発足して、まもなくの時だったので、ぜひとも子供の教育について親たちの関心が高まりつつある中だったので、これは、1回だけの先生の話ではなく、毎月そういう話を親がまず聞いて、それから、自分たちが今受けている部落差別、そういうところから勉強をし直そうということでできたのが、茶の間の会。それで、私は子供はまだ3つくらいでしたので、茶の間の会というのは小学校へ入学した保護者の会でしたので、私は本当は入る資格はなかったわけですが、私が結婚した家は今の〇〇というのは、またまた私の家と同じ境遇で、お母さんが、お母さんというのは私の叔母ですけど父親の妹の家に嫁いできたのでいとこになるわけですが、そこのお母さんが44才で亡くなって、子供もまたたくさんの子どもで、私が行ったときには、小学校に2人中学校に1人と、3人の子どもが学校へ行っておりましたので、学校の行事で親が行くようなときは、私は母親代わりとして行ってましたし、学校から帰ってきても宿題とかそういうことには、弟たちを見ておりましたので、私は役員さんに頼んで茶の間の会に入らせてもらいました。そして、はじめて、結婚してその会議所へ行ったときの話。その中で、本当に私の人生の中で、一番「ああ、これか」「私も同じ人間だったんや」「これから私は何をすることが」ということが感じられた内容だったんです。その時はもちろん昔ですので、明治生まれの人もたくさんおられました。そして、大正生まれの人、そういった人たちがたくさんいて、当時は、まあ、一日の苦しい労働で、酒を飲んで癒して、あくる日はまた土方とかそういう労働のきつい仕事で。お酒は本当に男にとって、大事で。お酒を飲んで来ておられる方がたくさんいました。その中でこれからの一つの出発点というか、そういう話がでたんです。米寿の人は「お前らなに言ってんねん。お前らそういうこと言うさかい、余計、部落やなんやと言われる。風を美しいして、言葉遣いを美しいしたらそんな差別はもうなくなっていくんや」そういう意見がものすごく出ました。また、新しく解放委員会。今の解放同盟の先の組織ですね。その解放委員会で活動している方の言い分は、「何を言っているんや。赤ちゃんでも生まれたら目をあくやないか。目があいたら、今度は這うやないか。這ったら今度は立って歩くやないかと。お前らな、なんぼ風、美しくしたらいいんや。言葉遣いをきれいにしたら、差別はなくなる。そんなことでは差別はなくならん。それやったら、明治の解放令出てから何年になるか。いまだにこの部落差別は残っているやないかと。今こそ、みんな目を開いて、部落の歴史をしっかりと正しい部落の歴史を学んで立ち上がらなかったら、この部落差別は何年たっても消えへん、と。お前たちがここで頑張って、目を開いて立とう、という意見が出ました、もう、本当に、この私もまだ若かったので、胸が熱くなって、そんなこと一晩で終わるはずがありませんでした。二晩三晩行きました。子ども寝かしては行って、どっちがどうなんか。やっぱり、今言ったように、立ち上がって、正しい部落の歴史を学んで、自分たちが目を覚ましていかなければ、立ち上がらなければあかんと、その強い熱のあるその言葉にわたしの今まで眠っていた「私は何者やったやろ」「私はなんで」その謎が、その方たちの言葉がぐんと胸に来て、ああ、そうなんや、この人たちのいうことなんやということで、私は解放運動に心が動き始めました。それから今現在にいたるまで、この年になっても、遠い全国女性集会とかには、体の都合で行けませんが、町内の集会、地元の集会くらいはやはり行きたい、そういう気持ちが残っているんです。

 

宮崎:それはやはり、寺の子として違うんだと思いながらも、子供ながらに

 

野口:そして宮崎さんの質問にまだ答えてませんので。それからね

 

宮崎:ええ

 

野口:それから、茶の間の会までにちょうどさっきも言ったように、6.3.3制ができた時分なので村のお母さんも、何とかして子供をここ入れたいという気持ちが高まっていた中で、村の中で3人でしたが、高校へ入れたんです。その方たちが、「僕らは苦労した」と、やっぱり、自分の後輩の子どもにも勉強を教えてあげたいということで、お寺で教えるようになったんです。お寺は広いし、けれど、ちょっと暗かったので、会議所へ場所を移したんですが、高校生たちも2年、3年となってきたらだんだん勉強も難しくなるし、後輩へ教える時間もなくなってきたんで、困ったなという話になり、お母さんが、こういう子供の意見があるんだけどどないしたらいいか、と相談されたんです。そうしたら、茶の間の会のお母さんが、それやったら小学校、中学校から来ている先生方に相談しようということになって。そうしたら学校の先生方も部落の子どもたちの学力の低さ、それをものすごく頭にあったので、「よし、わしらでひとつ、私塾をやろう」ということで、先生方がこぞって、月1回の茶の間の会の声を取り上げてくださって、会議所で補修学習をはじめました。で、国の制度として2年あとからできて。それをあくまで私たちは、村の中の親たちの声の盛り上がりによって、補修学習がなされたんです。

 

宮崎:このへんが、京都市の同和教育のはじまりと少しちがうところです。時間が押してきたので、結びに入っていきますが、最後、野口さんが「私の懺悔」ということで書かれた部分。それは、子供のころから、「私は一体何者か」。新平民といわれ、寺の子だから自分は違うと思ったが一緒だった。本を読んでもわからず、読んだ本が破戒であった。丑松がアメリカに逃げていく結末にぞっとしたこと。結婚して園部にこられて、それから運動とのかかわりで、その後に懺悔ということがあります。屠場、地元の人々の姿。故郷のあたたかさ。部落問題がやっと自分のものになった。このへんの心境も含めて、野口さんの言葉でお願いしたい。

 

野口:さきほど、ちょっと言えませんでしたが、私の村の中に肉屋さんが3件あったんです。そして子供の文房具、鉛筆やノートを売る文房具屋さん、あるいはまた米屋さんや、醤油酒、調味料関係、もう、一切村の中でできたんです。村の外へ出なくても、村の中にうどん屋さんもあれば、かき氷屋さん、散髪屋さんある、何もかも外へ出なくてもよかった。でもそれは、よかったのではなくて、出られなかった。村の外へ出ようと思うと、履いてた草履も脱がされて、「エタエタエタ」というようなことで石を投げつけられたり、そういうようなことがあったそうです。だから、自分たちの村の中で、外に出なくても生活ができるように、いろんな商店があったんです。生活ができたんです。それと、一番私の印象に残っているのが、屠場、屠殺、牛を殺すのが屠殺ですわね、その屠殺場があったんです。お母さんから、「今日はお寺の門徒さんが仕事に来てくれてるんで、お茶を持っていきや」と言われて、行って、行ったところが、ちょうど村のところに道があってそのどん詰まりです。そこから道はありません。どん詰まりで、そこで、ふっと見たのが、屠殺の様子でした。牛が括り付けられて、村の男の人たちが斧で、ものすごく牛が悲鳴をあげたとたんに、血がざっと流れて、もう、その様を見て、もう私はびっくりして、足が震えて、あわてて家に帰ったんですが、けども、私はまだ寺の娘の意識があったんですね。「あんなことするさかいに、言われるんや、そやさかいに嫌われるんや」というようなことで、村の人の、職業、仕事、それで食べている、それすらも私は頭の中になかった。先ほど言いましたように、解放への道、あるいは正しい、部落史を読むようになってから。みなさん、水平社宣言ご存じですか。やはり水平社宣言が言うとおり、私は屠殺があるから、エタや部落やと言われるんだと、字を書けない人もたくさんおられました。よくおばさんやおじさんが、手紙を息子のところにやりたいんやけど、字が書けへんさかい奥さん書いてな、という方もたくさんおられましたし、自分の友達の中にも雨が降ったら休み、滋賀県は雪が深くて、雪が降ったら長靴がない。また休み、そんな中で、いろんな村の人のそういう貧乏な姿、そんな中で自分は高いところでさげすんでいたことが、勉強したり、茶の間の会でいろんなことを学ぶうちに、私は何という、同じ部落に生まれた私が、なんで、同じ仲間の部落の人を蔑んでいたんやな、すまんなって、本当にそういう気持ちで、村の人への償いを私はやっぱり、部落差別をなくしていくということで、村の人の償い、自分が抱いてきた差別意識、優越感、それらすべてを、やはり自分は懺悔して、解放運動に邁進して、差別をなくす、これこそが、自分が子供のころにさげすんでいた村の人への償いだということで、懺悔という項目をさしていただきました。

 

宮崎:ありがとうございます。野口さんの生い立ちをこれで理解していただけたかと思いますが、自分史をつくられたということで、全部読んでいただければ、今日の内容と一致しますので、読んでいただければと思います。最後にまとめに入りますが、「伝えたい!つなげたい!広げたい!」という3つのテーマを書きました。私はまず、差別体験は消えることのない心の傷だけど、人の痛みや苦しみを体験して、そこから逃げるんじゃなくて解放運動に出会って、私自身の今日があるということで、それは野口さんと同じようにやはり、解放運動が自分を変えてきた。なかなか人を変えることは難しいけど、自分は解放運動で変わってきたという共通の思いをしっかり伝えたい、ということで、後輩に、解放運動はやっぱりやっていかなあかん、それは、松本治一郎さんが、部落に生まれた使命というのは、自らが立ち上がって、差別をなくしていかなかったら、誰もしてくれないということを伝えたい。つなげたいというのは、差別をした自分、野口さんの場合では寺の子として、立ち位置を上に見て、見下した。私の場合であれば、差別を隠そうとした自分がいた。自分自身と向き合い、弱い自分を吐き出すことによって、運動につなげていくということで、今回は、差別をした自分、差別を隠した自分というのを今日は、被差別当事者二人が出すことによって、私はみなさんに、真の問題解決のための協力を訴えたいと思うんです。「広げたい」というのは、特に差別する側される側という固定的なものはありません。それは、部落差別であれば部落に生まれたということで、部落の我々は、差別を受ける側にいる。しかしそれは結婚とかいろいろな問題、障害者の問題となったときに、立場は変わるかもしれないから、する側される側ではなくて、両側を超えてこの問題をやっていかないと、これはあの人たちの問題、障害者の問題は障害者の問題、女性の問題は女性の問題ではなくて、女性を差別するのは男性でありますから、やはりそれは自分の問題として立場を超えて、運動を進めていきたいし、人権交流集会はそうであってほしいなということを最後にまとめて、今日の記念講演をおわらせていただきたいと思います。長い間ご清聴ありがとうございました。

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