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 全体集会記念講演

 

 

 「日本国憲法と部落差別」

 

講師:上杉 聡 さん(大阪市立大学元教授)

 

 

 

 

日本国憲法と部落差別ということでお話したいと思います。

憲法には、人権条項がたくさんあります。分類すると平等権、自由権、社会権、参政権などとなりますが、これらを全部足すと34条にもなります。日本国憲法は、全体で103条ありますので、そのうち34条というと、ほぼ3分の1です。憲法の3分の1は、人権条項なのです。

日本社会が「人権」という言葉を非常に大きな課題として受けとめたのは、「基本的人権」という言葉においてだと思います。それが初めて示されたのは、「ポツダム宣言」でした。日本の首相である安倍さんは、このポツダム宣言を読んだことがないそうです。これは大問題。というのは、玉音放送が1945815日になされます。戦争が終わったという天皇の放送です。あれで彼が何を言っていたのかというと、このポツダム宣言を受諾した、という放送でした。戦争が終わったというのは、その結論なのです。

そのポ宣言によると、「日本国政府は直ちに無条件降伏を宣言」するよう要求し、それ以外の選択は「迅速かつ完全なる壊滅あるのみ」としていました。では、日本国を滅亡させようとしていたのかというと、その前の条項で、反対に「滅亡させる意図はない」、降伏したら「戦争犯罪人に対しての処罰、言論、宗教及び思想の自由ならびに基本的人権の尊重は、確立せらるべし」と、基本的人権をここで謳っていたのです。

 日本はポツダム宣言を受諾しました。ということは、そこに書かれている内容を含む憲法を作らなければならなかったわけです。しかし日本政府は、人権をほとんど認めていない明治憲法と同じようなものを作ろうとしていることが発覚し、アメリカはびっくり、「じゃあまずこちらで作って日本に提示しよう」ということになりました。アメリカは最初から憲法案を作ろうとしたわけではないのです。

 この「基本的人権」、「人間が人間らしく生きるため、生まれながら約束されている権利」とでも言ってよいと思いますが、これらの持つ意味を今の状況の中で考え直したいと思います。

 私たちの関心としては、部落問題がどの条項に入っているかということもありますが、とりあえず、基本的な問題として第98条に、「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない」というところが大切です。例えば一般の法律は、憲法に従って作られたり解釈されるものだということです。憲法に反した法律の場合、憲法の下位にありますので、その法律は無効だということになります。あるいは、憲法が示す内容を持つ法律が存在しない場合は、そこに新たに法律を作っていく必要が生まれる、ということでもあります。これがまず、憲法をめぐる基本的な考え方だということを確認したうえで、部落問題へ入っていきたいと思います。

 その14条には「すべて国民は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分、又は門地により、政治的、経済的、又は社会的関係において、差別されない」とあります。まず、「法の下の平等」とはどういうことか、考えましょう。江戸時代末期の有名な事件に「渋染一揆」というのがありますが、衣服などを定める命令を身分によって違えて、部落の人々は渋色、藍色以外を着てはならないとしたのです。つまりここで書いているのは、そのように、身分によって法律の内容を変えるということはありえない、ということです。全員に同じ法律が適用されるということ、これが、まず14条の冒頭の規定です。

一般的にもっと知られているのは「切り捨てご免」という法律です。江戸時代、武士は、自分に侮辱を与えた町民、百姓を斬り殺してもよかった。ただし武士は、事後に、書面で経過報告する義務はありました。しかし、町人やお百姓が、武士に対して切り捨てご免する権利はもちろん、異議を唱える権利もありませんでした。このように、身分によって法律の内容が違うことはない、と言い切っているのです。

では、部落はどこに入っているか。これは、「門地」に入っていると多くの方が誤解しておられるかもしれません。資料にありますように、1946年第90帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会で牧野英一議員が、「社会的身分というのは、どういうことをお指しになるのか伺いたい」と質問します。これに対し、金森徳次郎国務大臣が答えています。その当時、憲法担当の国務大臣がつくられていて、彼はそれに任命されていたのです。ですから、彼の国会での発言が、成立していく日本国憲法についての公式見解だったのです。彼自身、たいへん力のある法学者で、次のように答弁しています。

「門地は貴族を指します」

と。これは日本語の用例としても、正しいのです。「門地門閥」という表現があります。つまり「門地」も「門閥」も、権力を持ったお金持ち集団のことです。「門地貴族」という言い方さえありました。そうした「門地」に、部落に入るということは、まずありえないんです。

では、「社会的身分」について金森氏はどのように言ったか。ここで彼は奥歯に物が挟まったような言い方をします。つまり「貴族の反対側にいる人々の集団があるではないか、それが社会的身分に当たる」と言っています。

ただ、これは松本治一郎が戦前から国会で貴族(華族)制度反対の質問をしてきたことと関係します。そこで彼は必ず、「貴族の反対側に賤族(部落)がある」と言ってきました。「貴あれば賤あり」です。だから金森答弁を聞けば、「社会的身分は部落を表している」ということが、多くの国会議員にはわかりました。

ただそのことを、文言で明確にしていませんでしたので、どちらに入るか、曖昧になっている面がありました。ところが、これは重要なことなのですが、当時まだ「帝国議会」と呼んでいたのですが、その帝国議会憲法改正案委員会で憲法論議を深めようと、超党派14人の国会議員からなる小委員会を作りました。非公開の秘密会とし、1人が反対しても成り立たない全員一致方式で、アメリカから渡された憲法案をチェックしていきました。憲法案を、日本の国会議員として責任を持って検討する、そういう小委員会を作ったのです。

これは皆さんあまりご存知ないと思います。というのは、この議事録が1996年まで密封されていて、その後やっと公開されます。そこでは、憲法9条をはじめとして、たくさんの貴重な議論がされています。「社会的身分」という言葉についても、1946年7月29日、吉田安議員(日本進歩党)が、憲法の「草案で社会的身分とあるところを社会的地位としてはどうか」と発言します。それについて、佐藤達夫法政局次長――彼は憲法に関する役人側のトップでした――が、「これはソーシャル・ステータスという言葉に当たると思いますが、社会的地位とすれば、村長や議員なども社会的地位にあたる。そうすると差別の幅が少し広いような感じがする。13条(のち14条)としては、生まれながらのと申しますか、何か容易に変えられない事柄に依って『ディスクリミネーション』(差別)をやらない、ということにしたい」、だから「地位」ではなく「身分」の方が適切です、と答えます。

ここで佐藤達夫が「身分」という言葉で明確にしたのは、「生まれによる差別」のことです。生まれながらの差別というのが何かといえば、すぐ出てくるのが部落差別です。「民族的差別も入るのではないか」と言われるかもしれませんが、それは14条の社会的身分の3つ前に「人種」差別と書かれています。厳密に言うと「民族」と「人種」には違いがあるかもしれませんが、ほとんどダブっています。ですから、民族的差別は、この社会的身分からは除かれると考えられます。そうすると何が出てくるか。出生による差別としては今、もう一つ「婚外子」への差別が含まれるように今なっています。しかし当時、まだ「婚外子」差別が入るということまでは、考えていませんでした。最近、最高裁の判決でそう解釈されたにすぎないのです。憲法制定時には含まれていませんでした。

したがって「社会的身分」の中心は部落なのです。今、ほとんどの憲法学者も、そのように理解しています。では、どうして当時アメリカがこの言葉を入れたのか。解放運動の影響もあったのではないかという指摘もありますが、この当時アメリカは、憲法案を完全に秘密にして作っていました。日本人のトップもまったくわからなかったのです。だから、GHQへそのような要望を出す者が日本社会にいる筈がなかったのです。ということは、この言葉はアメリカ人の中から出てきたということです。そのあと、国会審議の過程で、この条項は解放運動の影響もあって、よりよく良く改定されます。まずその過程を、DVDで観てみたいと思います。

 

DVD「日本国憲法と部落差別」の上映

(『シリーズ映像でみる人権の歴史』第6巻、東映2017年)

 

「ソーシャル・ステータス」という耳慣れない言葉がなぜGHQ内で使われたかについて、国立国会図書館で、同館がアメリカから持ち帰った膨大な資料を調べてみましたが、議論として残っていませんでした。しかし、英語で部落問題を考えていたわけですから、推測はできます。ロウストという、あるGHQ民政局員は学者で、インドで教鞭もとったことのある研究者がいて、今も「アンタッチャブル」(不可触賤民)「アウト・カースト」などと呼ばれる人々のことを知っていました。インドでは、日本の被差別部落と同じような人々を、「アンダー(低位)カースト」とは呼ばず、「アウト(外部)カースト」というふうに呼んでいたのです。

インドの言葉ではこれを「チャンダ−ラ」などと呼び、日本へも漢字で「旃陀羅」と書いて、古く奈良時代から伝わってきていました。これが一つの背景にあります。ロウストは最初、「カースト」による差別と書き込んだのですが、そうすると部落問題がそこに入らないことになります。なにしろ「アウト・カースト」ですからね。そこで「アウト・カースト」と書き込むことも考えたと思いますが、それはインドの固有の「チャンダ−ラ」などを指す言葉でもありましたから、それは使えないとすぐ判断し、「ソーシャル・ステータス」の言葉を選んだのだと思います。ただ、意味ははっきりしています。佐藤達夫が報告したように、「生まれにより差別される人」ということです。したがって、これが主に部落差別を当時指したことは、次のように、戦後の判決でもはっきりしています。

 

(資料)197343日 大阪地方裁判所は部落出身とする報告を憲法違反と判決

「憲法14条によれば、(略)人の生まれながらにして、すなわち人の出生という事実だけによって決定される社会的な地位または身分によっては、人の社会生活において均等でない取り扱いをうけることがないことを意味するから、身元調査を営業目的とする法人が結婚に関する身元調査の報告をする場合において、部落出身を理由として他の者と区別した報告をすることは社会的身分による差別であり、これを是認することは、法適用の一場面である裁判においては法を不平等に適用することになり、許されないものと解すべきである。」

(資料)1988329日 大阪高等裁判所は八鹿高校での糾弾を、憲法14条を実行あ

らしめる自救行為と認定。

「差別事象に対する法的規制もしくは救済の制度は、現行法上必ずしも十分であるとはいいがたい。そのため、従来から、差別事象があった場合に、被差別者が法的手段に訴えることなく、糾弾ということで、自ら直接あるいは集団の支援のもとに、差別者にその見解の説明と自己批判とを求めるという方法が、かなり一般的に行われてきたところである。この糾弾は、もとより実定法上認められた権利ではないが、憲法14条の平等の原理を実質的に実行あらしめる一種の自救行為として是認できる余地があるし、また、それは、差別に対する人間として堪えがたい情念から発するものであるだけに、かなりの厳しさを帯有することも許されるものと考える。」

 

 こういうことで、「部落問題は、憲法第14条にある社会的身分の中に含まれる」ということを、本日の一つ結論としたいと思います。

 また、アメリカから渡された憲法改正案では「差別を受けない」とあったものが、国会の審議を経て「差別されない」へと変えられました。これは、「されない」とすることで、差別禁止の意味を含むものとする議論が、1946729日の小委員会で行われたからです。そこには、憲法に部落差別の撤廃を盛り込んでほしいという運動からの強い申し入れがあったとする発言もあり、部落解放委員会の働きかけのあったことがわかります。

 こうして作られていった日本国憲法の立法趣旨について、憲法担当大臣の金森氏は部落問題について、次のような名言を残しています。

 

(資料)第90帝国議会衆議院帝国憲法改正案委員会議事録 第14回(1946716日)

金森徳治郎「部落差別が行われます場合には、国法(憲法)は固より眠って居てはいけないのでありまして、これ等に対して十分の措置を講じて、斯様なことの起こらないようにすべき旨の原則が第13(14)条に掲げられて居るのであります。具体的の方法は、また個々の他の法規を利用して具体的に実行せらるべきものと思うのであります」

 

 重要なことは、「部落差別が行われます場合には、国法(憲法)はもとより眠っていてはいけない」という部分です。憲法は、部落差別がある限り、起きて目を光らせ、監視し、違反があれば、その下にある法律法を発動しなければならない、これが日本のあり方だと明言しているわけです。憲法は差別に対し、起きて、覚め、見張っていると。もし法律がないなら、すぐに下位の法律を作る必要もあります。部落差別解消推進法が生まれてきたのもそういうことです。つまり、この憲法14条が存在していることによって、すべての法律がそのように作られるか、運用されるように監視するということでもあります。ですから、そのことをこの憲法に戻って考えていく必要があるのです。

 金森大臣の発言を承けて田原春次議員が、戦前の高松差別事件について、検事局が部落差別をしたのではないかと質問し、新憲法制定させるにあたって、今後、どう対処すると考えるか、質問しています。これに対し木村篤太郎国務大臣が、憲法が変わった以上、今後、部落差別には、たとえば侮辱罪を適用できると言います。

侮辱罪は、刑法に入っています。日本の今使われている刑法は、いつ頃できたかというと、戦後ではありません。実は明治40年(1907)につくられたもので、表現だけ平易に変えたのが現在の刑法なのです。ところが、その上位法の明治憲法が、部落差別を禁止していませんでした。だから、侮辱罪が部落差別に適用されることはありませんでした。ところが憲法が変わったんです。第14条によって、人は法の下に平等である。部落差別されない、差別を禁止する、としたわけです。とすれば、この侮辱罪の中に当然部落差別が入ります。上位法がかわったのだから、下位法の解釈もかわります。ただ、当時も今も、刑法の侮辱罪は、誰かを名指ししないと成立しません。ですから、「朝鮮人を殺せ」「部落民を殺せ」と一般的に言っても、誰かを名指ししなければ何の咎めもありません。しかし、それではだめだということも、木村大臣は当時の答弁でにおわせています。

日本はその後、人種差別撤廃条約に加わりました(1995年)。これも大切なことですが、そこに「世系」という言葉(中国語)が、なぜか入っています。これに関し外務省は部落問題とは関係ない言葉というふうに言っています。しかし「世系」とは、中国語では生まれによる差別(「世」は「世代」の「世」)のことです。だから部落差別も入るのだということを人種差別撤廃委員会は2度も日本へ勧告しています。世系というのは、「世代による系列」つまり、血筋です。すると、むしろ日本の法律用語でいえば、憲法にある「社会的身分」と訳すべきだったのですね。人種差別撤廃条約にある「descent」の語を、外務省が翻訳の時、わざと日本人にわかりにくい中国語の「世系」を持ってきてはぐらかし、今も部落問題は入らないというふうに言っているのです。憲法にまで直結するからです。しかし、国際的にはこれは成り立たないんですね。人種差別撤廃条約には、人種・民族だけでなく、部落差別も入るということなのです。

 ところで、刑法の侮辱罪にのっとって部落問題を考えていくとき、個人が特定できない場合は適用できないので、まだ不十分だということを、木村篤太郎大臣は知っていました。ですから彼は当時、「将来、十二分の措置を執りたい」と語っています。この議論は1946年の716日ででした。戦後直後に、もうここまで議論は進んでいたのです。人種差別撤廃条約も、個人を名指ししない差別扇動を禁止していますので、国会で木村大臣が答えていることを指摘すれば、今は部落差別解消推進法ができていますので、次に差別の禁止法を作るべきということを国会質問すれば、「はいこれで成立」というところまで来ているのです。そうした事実を、もう一度復活させるべきだと思います。

 そうすると、同対審答申とは何だったか、憲法でなく、むしろそれが出発点ではなかったか、とお考えの方もいらっしゃると思います。そこまで行かなくても、憲法に息を吹き込んだのは、同対審答申だという人もおられます。

 ところが、同対審答申を読むと、これは日本国憲法を受けて成立したと書いています。また答申は閣議決定です。国会で議決した法律でさえないのです。とすると、私たちが依って立つべきものは憲法ではないでしょうか。それが一番強いのです。法律や閣議決定はその下にあります。もともと憲法のレベルで部落差別が禁止されているのだということ、それを受けて、法律、答申、条例などがあるという大原則に立ち戻って、この問題を考えていく必要があるということです。

 私は今、新しい時代、新しい局面に入りつつあると思うので、あらためて憲法に基づいて部落問題を考えていくことが必要だと思います。

 

(会場から)

 最後におっしゃった、「新しい局面」というのは、どういった状況なのか、もう少しお話していただけますか。

 

 「新しい局面」と申し上げたのは、日本のこれまでの解放運動というのは、国際的な流れと全く無関係ではなかった。例えば、1965年に出たのが先ほどの同対審答申ですが、この時、世界に何が起こっていたかというと、人種差別撤廃条約の成立です。そしてアメリカで、アファーマティヴ・アクションがおこった。日本が人種差別撤廃条約を批准したのは1995年、世界からは30年ほど遅れ、20年ほど前のことです。このため、世界と日本の運動にずれが生じてきました。

たとえば、アファーマティヴ・アクションと比較して日本でのやり方はずいぶん違いました。アメリカでは黒人に対する差別を禁止し、彼らの社会参加を積極的に進めることに力を注ぎました。例えば、オバマ大統領の妻は、アファーマティヴ・アクションの奨学金で大学へ入って法律の勉強をし、その過程でオバマさんと知り合い、大統領夫人となったんです。彼も、黒人でありながら大統領になりました。しかし、日本ではどういう状態なのかと言えば、差別そのものを法的に取り締まることはしませんでした。部落差別が存在していても、いわゆる個々の事象にはタッチしなかった。何にタッチしたかというと、環境対策です。これはものすごく変わった。

対照的にアメリカでは、スラムに対しての対策は全然取られてきませんでした。社会参加だけを進めてきた。これがアメリカのやり方。日本は社会参加についてはあまり重視せず、環境対策をやった。こういう形でアメリカのアファーマティヴ・アクションと日本の部落解放運動のやってきたことは大きく違っている。ところが、国際的な動きというのはどちらが優先されるかというと、アファーマティヴ・アクションの方でした。そして最終的に人種差別撤廃条約に合流するということが、日本で1990年代に進められたわけです。その中で、先ほどのヘイトスピーチの規制等も議論されるようになった。

今度の部落差別解消法はいかにして成立したかといえば、解放運動が積極的に動いたということではなく、基本的には人種差別撤廃条約をめぐり日本が国際的に孤立したという問題です。そこに部落差別を入れていないし、差別煽動に対して何ら法的規制もない。このことに対し、国連はずっと文句を言い続けてきた。これをいつまでも放置することはできないんです。ですから、一昨年、同時に成立したのがヘイトスピーチ対策法。そういうことも含めて、日本は動かざるを得なかったということなんですね。その意味で私は、今の状況というのは、もっと積極的に国際的な動きを日本の中へ還流させることを進めていくべきだと思います。そうすれば差別禁止法も、かなりたやすく行くはずです。

その場合、いま国際的に問われているのが戦後の体制そのものです。人権について先ほども世界人権宣言が取り上げられましたが、これは第2次大戦が終わって、世界規模で実現しようとしたものです。ところが今、いろんなところで、アメリカのトランプを筆頭に、ヨーロッパでも悪いことがいろいろと起こっていて、戦後の体制をもう一度、本気でどのように作り上げていくべきか考えなければならない国際的な段階に入っている、と見ることができます。そういう時、日本の解放運動もそれと一緒に、世界に人権というものを本当の意味で根付かせていく、そういう闘いの一翼を解放運動は担っていく、そういった時代になっていると思う、ということなのです。

 

  

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