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第49回人権交流京都市研究集会
講 演:崇仁の歴史 ―「人権学習」実践の視点から―
講 師: 坂田 良久(京都御池中学校教諭)
崇仁発信実行委員会からの報告 講師:藤尾まさよ(崇仁発信実行委員会代表 ◆ 司会進行 北村 要 (部落解放同盟京都市協議会) 記 録 筒井 絋平(部落解放同盟京都市協議会) 松田 誠二(京都交通局部落問題研究会 分科会責任者 西條 裕二(京都市職員部落問題研究会)
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―「人権学習」実践の視点から― 講師:坂田 良久(京都御池中学校) 崇仁の歴史というタイトルで私自身が学んだことそして考えていることを中心にお話をさせてもらいたいと思います。 今日の話ですが、銀閣寺を作った又四郎という人物の「日某一心に屠家に生まれしを悲しむ、故に物の命は誓うて之を絶たず、また財宝は心して之を貪らず、思えば又四郎それ人なり」(鹿苑日録)というのが載っています。通常、人権学習では、屠家に生まれたけれども立派な生き方をしているのに人を差別する。こんな立派な人が、どうして差別をされるんだろうと、僕も人権学習をしていました。ところがいま、そのとらえ方が、変わっており、それが今日のお話の主題になります。 中世のころの崇仁は六条村といわれていました。中世のなかで、六条村はほとんど出てきません。唯一、六条村が出てくるのは、1441年の9月にものすごく大きい土一揆が京都中にひろがったときの土一揆の後の処理をおこなったという記述だけです。それは八坂神社の配下であった天部村が河原者を統括しており、六条河原にもたくさんの河原者が住んでいたと考えています。中世の河原者で教科書に石庭を作った又四郎が出てきます。屠家に生まれるを悲しむというのは、間違っていませんか。屠家に生まれるということは差別を受け、苦しまなければならない。それを又四郎自身が間違いなく認めていませんか。だから、又四郎は屠家に生まれたけれども屠家から逃れたい一心で必死になって良い生き方をしようとしてる。それは、又四郎の時代にはそれが当たり前だった。屠家に生まれると都の人達からは、蔑視の目で見られるのが当たり前であり構造の中に組み込まれていた差別です。だからその中で生きる又四郎さんもそこから逃れられなかった自分は、河原者だから差別されてそこからなんとか自分が抜け出したくて必死に上がる。いま、又四郎は必要でしょうか。いま、この時代に又四郎と同じように苦しむ必要ってあるんでしょうか。そんなところがぼくなんかが人権学習で子供たちに伝えていきたいなと思っているところであります。 近世の六条村がはっきり出てくるのは、「六条郷」という名前で京都所司代であった前田玄以が1590年に荒畑を安堵するという書付をだしています。村としてのきっちりとした営みが始まるのは、1663年のことです。 そんな六条村が大きな転機を迎えるのが、1714年のことです。1707年にいまでいうソープランドである新地を開発するために移転しろといわれる。そのために与えられたのが七条よりも南の地で、北側はお土居、高瀬川の2つに分かれた支流の間に挟まれた土地です。交渉を重ねた結果、妙法院から金1050枚が移転料として支払われます。さらに移るにあたって3尺の地上げがなされます。1713年の地図をみると、北側は六条村、南側は天部村が支配していました。そして、移転して160年ほど経つと、きれいに区画割がされ、お屋敷がずっと整然と立ち並んでいます。そしてその後、人口がどんどん拡大していく中で、1731年に南側に銭座跡村というのが開発されるようになりました。1857年の地図を見ると、大きいお屋敷、整然とした街並みが作られていき、家に屋号がついています。屋号がついているということは商売をしているんです。銭座跡村は、商売をしている人たちのお屋敷がずらっと立ち並んで、かなり財力をもった集団であったというのがみて取れます。その少し前、1839年には、銭座跡村の源左衛門の名前で領主の妙法院に対して村から出ないので神輿や鉾をつくり祭りの日に合わせて自分たちの町の中を練り歩きたいと願い出て、その許可が通り村の祭りを作っていったという記録が残っています。そして出来上がった崇仁の祭りも昭和30年くらいに町の衰退のなかで、途絶えてしまいます。しかし、崇仁の町をもう一度、盛り上げようという機運が高まりいまでは祭りが復興されています。 近世の崇仁は人口が増加している。それを支えていたのは崇仁の仕事です。警察の仕事や皮革の仕事、興業の仕事などを担っていたのが穢多村です。そして、穢多頭とされていた天部村と六条村が仕切って近郊の村々から人足を出させてやっていた。こうした公務に対して一か年300両の下渡し金が出されていた。 穢多村というのは、皮革を中心に存在し、京都の場合は穢多村が役人村であり皮革業の中心であった。そしてその中核をなしていたのが天部村と天部村であったというのが歴史の中で見る姿のようです。ところが江戸時代の中ごろからこの形が大きく変わります。軍需としての皮革の必要性が下がり、雪駄をはじめとする革細工作品が民需へと切り替わっていきました。その中で武士にとっては軍備での必要はなくなり、身分制度の強化のためにつかわれるようになります。倹約令を民衆に従わせるために厳しい倹約令をだして身分統制を強めていくようにされた。近世から近代になると、崇仁の町は衰退します。解放令の一か月後、京都府告示が天部村に対して出されました。無税地の廃止や興行権を一手に担うことも廃止され、警察の仕事も士族の仕事に切り替わっていきます。府からおりていたお金も一切なくなります。皮革業はもはや平民の仕事とされ、穢多村の独占はなく民間の資本が怒涛となく流れてきます。結局、本当の意味での部落の貧困が始まるのはここからです。明治からです。部落としての蔑視を受けてきた長い歴史と町民との長い歴史は一長一石でかわるものではありません。そこからの営みがいまだに部落差別というのがこの社会で大きな問題をされている理由を創り出されているのではないかと思います。 近代の崇仁は、町長である桜田儀兵衛が現れ、自立・自尊で商売により自分の町を盛り上げようとする取り組みがなされていき、明石民蔵は柳原銀行を設立し経済での発展を後押し、伊藤茂光が32歳で校長に抜擢され20年にわたって差別に負けない教育を進めました。また、桜田規矩三が全国水平社創立のメンバーでもあります。自立自尊を目指して活動した先人がいて、まちづくりというキーワードのなかで1996年に「崇仁まちづくり推進委員会」が設立され、人・町・歴史の取り組みはいまも続けられています。
講師:藤尾 まさよ(崇仁発信実行委員会代表) ハーットネットTVという30分番組が昨年に放送されました。そのディレクターさんは崇仁発信の「学ぶ食べるという交流会」に参加し、自分自身が持っている情報があまりにも古かった。そして、自分の友達にも崇仁の取材をするにあたってあそこにはいかへん方がいいでって言われたことを正直にいってくれました。いま自分がもっていた部落のなかの実態が自分が思っていたんとあまりにも違う。いま現在の情報をきちんと流せなければいけないと考えたそうです。実は私も私自身のふるさとを言葉に出したいんです。自分の出身を隠して生きてきました。でも、いまは、自分のうまれた場所を普通に聞かれたらいうということは当たり前のことだと考えています。ですから私は自分の出身地をはっきりといいます。かつて被差別部落であったというその歴史をもった私の大切な大切な大好きな町が崇仁地区です。 この崇仁発信の活動のきっかけは、「どんなに頑張ってもあかんのや。」という15歳の子供の言葉です。たった15歳でその人生をあきらめてしまう。私自身も心の中に一生懸命頑張ってもというのがあったんです。それが無意識に自分の子供に伝わりその言葉が出てきたように思います。「どんなに頑張ってもあかんのや」という言葉がなぜ出てきたのかというと経過をお話します。私は、元京都市立皆山中学校PTA会長というように名乗らせてもらっています。私は、閉校までの最後の2年間、PTA会長をさせていただきました。私の息子が皆山中学校に入った年に卒業生が高校で差別発言を受けるというようなことが起こったんです。内容は、入学した高校で同じクラス子に言われた言葉なんです。卒業生が、「僕、ぼくな皆山やねん。」というと、おなじクラスの子が「皆山ってあのガラの悪い。アホばっかりの部落の学校やんけ。」そういったんです。その時にでた言葉がどんなに頑張ってもあかんのや学校から一歩出たら認めてもらえない。このことがあり、学校の中で教員・保護者・地域・教育委員会いろいろ集まって話をし、この子が差別発言をしたのは、生まれてそれを考えていたのではなくて周りの大人がそういうことを教えて言ったんだ。この子に差別発言をさせたのは誰なのかを考えていかなあかんなと思います。そしてたった15歳の中学生が人生を飽きらめるような言葉を言わせる。そういう環境を作っているのはだれやということを私らは考えていきました。そして、私らは部落問題のこと全然知らないいうことに気が付きました。そして、PTAの同和問題学習会というのを立ち上げました。自分が差別を受け入れていたと気づいたのは47歳の時です。それが分かった後は、私はいろんな活動をし始めました。そしてこの学習会をするのになによりも一番力になってくれたのは、一緒に学んでくれたPTAの人たちです。それまでの私は、就職してはじめて差別を初めて受け、19歳の時にせっかく就職した職場を逃げるようにやめます。そのあとに、自分の命を絶ってしまうような行動に出て自分のいろんな感覚が全部なくなってしまう生き方をしていました。そして結婚しますが部落差別のことでうまくいかなかった。その中で、15歳の子が「どんなにがんばってもあかんのや」ということにすごく腹が立ったんです。自分が差別されるのは、自分自身が我慢したらいいと思っていたんですね。そして誰にもいわない。悲しいなかで、なんで私が自殺したのということさえわからない中で、あの時、命を落としていればね、私はなんで死んだんやろうということがわからない中で、消えていくわけですよ。今の世の中にも、子供たちの中にもそんな子がいっぱいいると思います。理由をなにも伝えられずに命を絶っていく子。その子たちに、自分の命を落としてほしくない。そういう思いもあり私は、自分から発信していくなにも差別を受けることを怖がらない。そう思えたのは、子供の苦しんでいる姿を見てPTAが一緒に同和問題のことを勉強しようと言ってくれた。私も一緒に勉強できた。最終的に、延べ400人の人たちが勉強しようと集まる会になりました。子供らのためにこれからの統合のために私らが知識を持たないといけないといって仲間が集まってくれたんです。私はその姿を見て、目が覚めたんです。一番最初に19歳の時に、社会の中で初めて差別をされて悲しみの中でずっと生きてきていつの間にか人のことを信じられなくなってなんかずっひとりで生きていたような子供も産んだのに、なにかずっと一人で生きていたようなそういう思いをもっているような気がします。でもね、そのときにみんなが集まってくれて、いつの間にかね、私が差別された差別されたと悲しんでいる間にいつの間にか時が流れていて、そしていつの間にか、この社会は人権を守ろう。人権を大切にしよう。という時代になりました。そして私は人権学習を初めて、自分の生き方を振り返って自分の中にある自分を差別する考えに気づくことができました。これは47歳の時の私の目覚めです。そしてその目覚めをもってそして子供が15歳で自分の人生を置き去りにしないようにそういう思いをもって崇仁発信実行委員会を立ち上げました。それは、地域住民と学生そして学校教員と様々な立場の人間が集まり、ともに活動をして学びを深めています。この会議のなかでは、人の意見を否定しません。私たち、崇仁発信実行委員会は、大学生とかの育成もしておりますし、そのなかで、育成するってまず何をするかといったら待つことやと思っているんです。一番忍耐のいることを地域のおばちゃんらも、やっていこうとゆっくり育てていくということをしています。 いま現在、ネットのなかで見られる間違った情報を何とかしないといけないなということで、私たちは、マガジンで、受け取りやすいような情報を紹介しています。また講演会で人との交流から正しい情報を意見交換していくことを大学生たちが作る側になっていく取り組みをしております。創刊号が出た時に京都新聞委記事が載り、ある年配の方からこんな電話をいただきました。「今日、新聞でみました。私ね、若いときに崇仁からでて一回も自分の出身をいったことないんです。新聞で、自分の生まれた町、崇仁っていう字が書いてあってほんまにうれしかった。若い人がこんなして頑張ってくれているんやな。私も、頑張らなあかんな。もうひと頑張りするわ。ありがとう。こんな素敵な冊子をつくってくれてありがとう」そういって電話を切らはりました。ずっとね、80を超える年齢まで自分の出身を隠し続けて生きるってどんな思いで生きてきはったんかな。と思うと、その電話を切ってから涙が止まりませんでした。 私は、ソファで10年以上で寝ています。寝られないんです。講演して自分のことを言いますでしょ。ということは、私の息子も自分の出身が、わかるわけです。息子は坂田先生に人権学習を学んでいるから、私は信じていますけれど、なんどもなんども息子が出身のことで、自分の命を絶つという夢を何度も何度もみるんです。そのたびにわぁーと思って目が覚めるんです。そういう生活をずっとつづけています。でも、私は出身をいうという選択をしました。もしかしたら、息子は、自分の命を絶つかもしれない。でも私は、これからの未来のことを考えその選択をとりました。そして、これからは私たちが歴史を作っていく側です。みんなの記憶を創生していく。その記憶がこれからの新しい崇仁地域のそして皆さんの人々の記憶になるという風に思っております。この子たちに正しい道をこの子たちが誰とでも結婚できるような社会をこの子たちに託していきたいと思います。そのためにこれからも頑張っていきたいと思います。
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