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第47回人権交流京都市研究集会
講 演:「新しい部落史」学習の試み 講 師:上杉 聡(大阪市立大学人権問題研究センター)
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司会進行 廣瀬 光太郎(部落解放同盟京都市協議会) 記 録 町野 覚(京都府庁部落問題研究会) 分科会責任者 松田 國広(京都市職員部落問題研究会)
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今日は、みなさんに4本のDVDを見ていただきます。全体で1時間ぐらいです。なぜDVDをつくったのか。私は部落の歴史の研究をしていますが、2012年頃からこれを考えはじめました。理由は、はじめのところにありますが、今、歴史の教科書の中に部落問題を盛り込んだ歴史的な事実が合計8つ出てくる。 みなさんの中に来年ぐらいから、これまで同和教育を学校で授業をやろうと思えば、道徳の時間を活用するというかたちがかなり行われてきた。ところがこれをどんどん安倍首相の力でつぶしていく危険性がある。一体どこで同和問題、人権問題をやるのかと考えたときに、実は歴史の教科書の中に8つが入っている。この問題できちんと部落問題を語ることができたら、堂々と授業のなかで部落問題をやることができる。こういうことを考えていただきたい。つまりこの人権問題、同和教育をきちんと学校教育の中に位置づける上で歴史を中心的に考えていく必要があるのではないかということが一つあります。 ただこの問題について、困難がある。今日も若い先生方が何人か来ていただいているが、団塊の世代がどんどん退場していっている。学校の文化として先輩が若い先生方にきちんと教えたり、手ほどきしたり、自分の体験を伝えたりやっていく、そういう継承ができなくなってきている。それに加えて小学校、中学校の同和教育がかなりやられていない。大学生に聞いたら、どこでも習ってきてないのだなということを嘆かざるを得ない状況がある。そうやって学校の先生になってしまってる先生が多いわけです。そうすると、一から部落問題を勉強するというのは、独学でやるというのはたいへんです。そこで、DVDを使ってこれを導入しながら、先生方も教えながら、それを使いながら勉強していただく。そういうものができないだろうか。若い先生方の対策、これを考えました。 もう一つあるのは、先生方を地域に引っ張り込んで子どもたちに勉強させながら部落差別の現実に学んでもらおうと。地域の解放運動の教育力というのが学校に対してあったわけです。今、これがないところが非常に増えてきている。そういう意味では、歴史の研究の視点からきちっと先生方にこの内実を勉強していただく、そういうことを独自にやる必要があるのではないか。そういうことで少し高度なDVDを作りたいと考えてきた。この3つの問題、部落問題をやる環境が変わったことに対応してこれを考えてきたということです。 はじめのところに、1から8まであるが、具体的にはこのあとやっていくので、ざっと目をとおしていただければと思います。レジメの1、部落史教育の方法論と書きました。これは何なのかと言うと、このDVDを作るときの、基本的な考え方でもありますし、同時に先生方が子どもたちに、同和問題、部落問題、人権問題を語るときの一つの方法を私なりに考えて定義したものです。実はこのDVDの中にはどこにも,書かれていませんが、実はこういうやり方で作っているという種明かしがここにあって、どういうことか簡単に説明させていただきます。 かって部落問題は、どんな風に考えられていたのかということをたとえで話をさせていただきたい。それを例えば、地球の形になぞられてみたい。かって地球はどうだったのかというと、丸くなかったのです。お盆のようだったのです。神様が光りあれと言ったら太陽ができて、アダムとイブがつくられて、そして部落はどうなのか。これは地球を部落に例えている。これ、平らなのです。具体的にはどんなのか。部落は貧しくて、惨めで、差別を受けて、悲惨で、そういう一面的な見方です。これを例えばかっての地球に例えて言えば、舟が通っていきますと、ここは平らですから、その向こうは滝になっている。コロンブスが一番苦労したのは、でっかい舟はありますからインドに行こうと思ってスペイン、ポルトガルから地球を逆回りしていこうとした。ところが彼が一番苦労したのはそこに乗っている船乗りが、やめてくださいと、そのコロンブスともうちょっと行ったら地獄に堕ちる滝にまきこまれてしまうから、もうここで帰らせてくれと、それを説得するのが大変だったわけです。だれかが、地球は丸いのだから向こうに行けばインドに着けるんだと、当たり前だろうと言って、笑ったら彼は、卵をおもむろに出して、いわゆるコロンブスの卵をやったわけです。現実にこれをやることと頭の中でそんなこともありうるというのは全然違うんだと言うことで、歴史に残る教訓話がでてくるのは、実はこういう世界観、宇宙観の関係であったわけです。 こういう平らなお盆のような部落観、地球観というところから変わってきたものがあります。それはこの20年ぐらい変化ですが、部落をそういう一面的な貧しい、惨めなそういう側面だけではなくて、プラスの明るい面があるんじゃないかと。暗い面もあるけれども、そういう意味では球体に考えるようになったというのが、この20年間ぐらいの変化だと思う。部落は、芸術、芸能の面で非常に大きな貢献を社会に果たしてきた。そういう明るい面を描くことによって部落差別を壊していこうという意図も含めて、こういう生産と労働というもの、様々なプラス面を描こうと、こういう授業一線の努力が行われてきました。 ところが、これの一つの欠陥がある。それは何かと言うと、確かに誇れる面と暗い面(惨めで悲惨)、両方きちっとやればいいのですが、かならずどちらかにぶれるのです。特におもしろいのは部落の誇れる面(プラス面)です。そうすると部落はすばらしかった、明るかった、豊かだった、すばらしい色々な業績があった。そればっかりやると差別はどこにいってしまったの。こういう話になる。そういう意味で、立体的な部落観というものが、一つの行き詰まりを見せてきたように思う。 何が間違っていたのかというと、一般社会の側、これでいうと太陽です。太陽は地球の周りを回っているのです。天動説です。つまり、立体的に変わったという面ではいいわけですが、その視野が部落問題を見ていれば、部落問題を話しているようなつもりでやっていたわけです。部落問題というのは、一般社会との関係なくして存在していたのかどうかということです。この関係を抜きにして部落問題を語ろうということが間違いです。
プラスがどこに出てくるのかと言えば、それはこちらに出てくるわけです。排除されているということは、逆の意味で自由です。竜安寺の石庭だとか、銀閣寺の庭園なんかをつくるエネルギーや能力はどこからでてきたのでしょうか。もし、彼らが奴隷であったら、できたでしょうか。最初は竜安寺の石庭を見たときは、ものすごくうたれました。部落問題はそのときはまったく知らなかった。たまたま京都で学生時代に竜安寺の石庭を見たときに、これはネクタイをしているやつには作れないと思いました。ものすごく自由です。砂と岩と苔だけです。宇宙を表しています。そんな自由な発想がなんでできるのか。これはものすごく、おそらく肉体的にも精神的にも自由な人たちです。 私たちの一つの誤解に部落というのは、奴隷みたいな偏見があった。これはずいぶん長い間あったのですが、部落を奴隷だと今考えている人はいません。むしろ自由人です。でも排除されている。そういう意味でのプラス面があって、こちらに出てくるわけです。当然、解放運動が出てくるわけです。差別に対する。こういう意味での解放運動です。それは、惨めな側面からは出てきません。そこから独立して自分たちが、この差別に対して闘おうというのが、こちらから出てくるわけです。プラス面はちゃんと描く場所があるわけです。 そしてもう一つ、プラス面があるのです。それは何かというと、実は一般社会の側は、マイナス面だけなのか。悪い差別ばっかりやってるのかというと、差別をしない人間がときどきいる。実はこれが、すごく重要な側面だと思っています。例えば、銀閣をつくった足利義政、彼は善あみたちをものすごく重要視して、彼らに働かせるわけです。そして、病気になれば医師を派遣してまで、高価な薬を与えて、その側近の連中がちょっとやりすぎではないかという文書を残しているのです。そういう意味で、彼が、いなければ、日本一という庭師と呼ばれた善阿弥たちが、日の目を見ることはなかっただろうと私は思います。あるいは「しゅうじん」というお坊さんが河原もの「またせろう」と話をして、彼こそ人物ではないかという言葉をもらしてしまう。そういう人たちがいたが故に、東山文化は部落の人たちの非常に高い庭園技術とともにそれを使った人たちです。それを評価して両方合わさって非常に高い世界に誇る今でも観光資源になりうるような文化を作り上げたというのは、部落の人たちも頑張ったけれども、その人たちを差別しなかった人がいたからです。 水平運動ぐらいは絶対に部落の人たちだけのものではないか。私はそうは思いません。部落の人たちは孤立しています。どの程度孤立しているのかと言いますと、人口比でいうと部落の人たちは2%以下です。だいたい1.7%ぐらい。50人に一人いるかいないか。その50人に、50分の1の人が残りの49人に対して差別やめてくれと言っても、49人が何を生意気なことを言ってるのだと言って叩き潰すこと可能です。現実にそうやって歴史的に部落人たちがリンチであるいは竹槍で殺されたケースはいっぱいあるわけです。それをいやちょっとやめとけよと言う人たちがどの程度いるのかということをこちらの部落の人たちは絶対敏感になって感じています。そして、今だったらできるというときに、この50分の1の人が残りの49人の人たちを変えるために闘いに立ち上がることができるわけです。これは水平社の人たちの力を軽視するために言っているのではなく、どれだけ困難かということをまず理解する。そういう意味で、こちらの人たちの存在、例えば水平社できる前でも、「有馬頼康」という一般の側で彼らの水平社の人たちをこんな形でおいていくというは間違いであるという批判的な意見がものすごく強くなってくるわけです。それとこうして、水平社の運動もあったということです。そういう意味で、こちらのプラス面、こちらのマイナス面、こちらのマイナス面、こちらのプラス面、4つの側面が部落問題にはかならず出てくると思っています。なぜこんなこと言うのかと言うと、これが部落差別とかいろんな差別の現実だからです。まずこの現実を客観的に見たら、必ず4側面が出てくると思います。 例えば、誰かさんが誰かをいじめたと学校でします。そうするとかならずこれとこれが出てきます。それだけではなくて、いじめられた子がすぐ隣に友達がいたかいないか。これを見なければならない。いじめた側が一体全員そうだったのかどうかを見なければならない。つまり、一つの事件を見るときにでも、4つの側面がすぐ出てくる。この4つの側面を観点を見失うと差別の現実が客観視できない。その解決の展望も出てこない。いじめ一つとってもそれは仲間がどのくらいいるのか。いじめられた側に。いじめた側にどの程度の反省の余地があるのか。そういうことを考えなければこの問題の解決はできない。 そういう意味では、4つの側面というとずいぶん多そうに見えますが、実は簡単なことです。具体的に見ていくと4つの側面が出てくる。そして実は、これが解放教育、同和教育の方法論とも関係する。それはどういうことかと言いますと、私が学生を2、3百人相手にして、毎年講義をするはじめに、アンケートをとる。どの程度みなさん偏見を持ってますかと聞きます。「先生偏見はありません」部落問題も知らないのです。その知らないって言ってる奴が、薄く淡いものですが、部落は汚いだとか、暗いだとかマイナスイメージを持っています。プラスイメージとマイナスイメージで分けて言うと98%がマイナスイメージです。プラスイメージは1、2%です。それが多くの学生の置かれている状況です。それをどうやって変えたらいいのですか。解放運動だったら独自のやり方があると思います。差別は間違っているということを差別された側からも訴えればいいわけです。でも、私は部落の人間ではない。多くの先生方は部落の人ではない。ではどうやってやったらいいのか。そりゃ、差別された人の気持ちのことを考えなさい。ということも一つあるかもしれません。でも私は、それを心情的に言うことだけで解決するとは思えない。何か必要なのかというと、部落の人たちにすばらしい面があるんだということをこれまで同和教育の中でこんな形で強調してきましたね。これを生かすべきだと思います。だって、日本一の庭師だったのです。様々なすばらしいことをやってきたんです。それは積極的にプラス面でそのマイナス面を打ち砕く必要があると思う。つまり、プラスイメージによってマイナスイメージを壊すという。こちらのプラス面だけでいいのかと言いますと、こちらにプラス面があるではないか。これは何なのかと言いますと、例えば先ほど例で言いますと、足利義政だとかしゅうりんというお坊さんは部落の人たちを差別しなかった。差別しなかった彼らがあいつらはすごいということを同時代に文書として残している。そして評価をして彼らを徴用しているわけです。そしてあの連中はもう少し差別すべきではないか将軍さんとことに対して、ばかやろうと言って叩き潰した、そういう権力的なことまでやってその差別に対して闘っている人たちがやっぱり当時いるわけです。 これは子どもたちにとってものすごく重要だと思う。どんなふうに重要かと言いますと、私は差別は間違いだし、差別は禁止すべきだと思いますが、やはり学校教育の場では、みなさん、差別しない人間と差別する人間とどっちが好き、どっちになりたいと思う、こんなふうに差別の状況の中にあっても人のすばらしい面を見出した人たちがこんなにいるんだよ。例えば、このあと出てくる杉田玄白とかあるいは山脇東洋だとか、彼らは、部落の人たちを差別してない。でも差別している人たちもいる。両方いるわけです。両方見せるわけです。みんなどっちになりたい。言えば、子どもたちは向上心を持っているから、僕はこちらになりたいと思うに違いない。この向上心に火をつけない限り差別をなくそうなどということには、本当の意味で気持ちを切り替えて子どもたちが自分たちを変えていこうと思わない。誰かにしかられてやるのではだめです。そういうことも必要です。時にはしからなくてはならない。でも、しかるだけではなくて自分は、人を尊敬できる人間に、部落の人たちを差別しない人間になりたい、現実に先輩いるじゃないか。ああいうすばらしい先輩いるじゃないか。そうやって自分を同一視、自分を同化できる対象を歴史の中で提示するということが私は同和教育のもう一つの側面じゃないかなと思います。 そういう意味で、この4つの面をDVDの中に必ず盛り込できました。私の本を読んでおもしろいと言ってくださる人がいるのですが、その方に実は種明かしをすると、4つの側面を全部入れてるからなのです。だからおもしろいのです。だって、惨めなことばっかり聞いて誰が喜びますか。で、部落の人たちはすばらしかった、それはいいかもしれないが、私とどう関係があるのかと思ってしまう、それでおしまいじゃないですか。そういう意味では4つの側面を語れば、みんなおもしろく感じるわけです。これは同時に授業のやり方にもなるわけです。そういう意味で、今日の授業は失敗だったなと思ったら、4つの面を考えて、これが欠けていたな、時々これが欠けることがあるのです。非常に基本的な問題です。そういう意味で、全部チェックをするといいと思いますし、どれかが欠けると現実感がなくなるのです。そうすると話がおもしろくなくなるのです。そういう意味でチェックポイントとしてちょっと考えていただければと思います。 そして、私はこういう形で、マイナス面に対してプラス面をぶつけることによって差別意識を無化する。0にする。ということをやるべきだと思います。そんなことができるのか。それはあまり自慢したくはないですが、例えば半期15時間授業をやります。最初はだいたい淡いマイナスイメージをほとんどの学生が持っています。でも、15時間やるとすっきりしたというふうに学生が言ってくれます。全部が全部ないかもしれませんが、こういう方法で繰り返しやると自分が持っていたイメージ、特にマイナスというのは偏見ですよ。自分は偏見を持っていたということが、どんどん崩れてくる。そうすると差別する理由はなかったんだと。と考えて、気持ちが自由になる。ということを多くの学生が私は経験してくれているように思います。そういう意味で、解放運動がやる差別を受けた側からの様々な啓発ではなくて、教育独自の方法というものがある。これが解放運動と教育がドッキングしていけば、広い意味で社会をまた変える大きな力になってくる。それに対して解放同盟の力だけに依拠してやってくださいよというようなことでは教師の独自の努力と立場がない、先生は先生の立場で頑張るべきだと。その方法論はこういうものではないかということで提案をさせていただきたいと思います。 すなわち、@部落の誇れる面とA低位な実態マイナス面、B一般社会の部落に対するマイナス面(差別)とC東山文化、竜安寺の石庭の作者、西洋医学の源流などのプラス面、この4つの側面が部落問題にはかならず出てくると思っています。なぜこんなこと言うのかと言うと、これが部落差別とかいろんな差別の現実だからです。まずこの現実を客観的に見たら、必ずこの4側面が出てくると思います。
ビデオ上映 1 東山文化を支えた差別された人々 2 江戸時代の身分制度と差別された人々 3 近代医学の基礎を築いた人々 4 明治維新と賎民廃止令 実は、プラス面を自分たちの鏡として、先輩を自分自身と同一化させるそういうことが一つ必要だということを申し上げましたが、教室にいる子どもたちは、それをちゃんと提示してほしいという子どもたちが圧倒的多数だということを考えていただきたい。つまり部落出身の子どもたちは、何%いるか。もちろん半分ぐらいいるような学校もあるわけですが、多くは差別する側、差別する危険性をもっている一般の子どもたちです。その人たちが自分は差別をやめたいとやりたくないと考えない限り部落問題は終わらないわけです。そういう意味で、私たちが力を入れなくてはならないというのは、圧倒的多数の差別する危険性を持っている子どもたちを引き受けていこうということです。
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