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第45回人権交流京都市研究集会
『SAYAMA〜見えない手錠をはずすまで』上映 上映時間 105分 製 作 映画「SAYAMA」製作委員会 監 督 金聖雄(キム ソンウン)
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石川一雄さん アピール
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安田 聡 さん講演 (部落解放同盟中央本部、中央狭山闘争本部事務局)
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石川:みなさんこんにちは。主催者の趣旨に賛同し、お忙しい中をこの会場に来ていただいたことを、心強く、感謝の気持ちでいっぱいです。私も皆様方のお力添えで、仮出獄してから、やがて20年になろうとしています。ただ、自分自身の社会的無知がいかに自分を窮地に追い込んでしまったかということを、常々考え、そして50年経ちました。たまたま、私の場合は、兄ちゃんが犯人ではないかと思わされた結果、自分が犯人になってしまったわけですけど、それというのも、事件の当日、私たちは2人の妹と弟と両親と6人で、事件が起きた時間帯、夕ご飯を食べておりましたけど、たまたま兄貴だけ深夜に帰ってきたのです。しかも、地下足袋が、兄が身代金を取りに行って逃げられたときの足形と同じだと言われたのです。逮捕され、取り調べの29日間に、私は足袋をはけと言われ、否応なく足袋を履かされました。しかしながら、見ての通り背は小さいんですけど、足がすごく大きくて、兄貴の足袋は履けないんです。ですから、私が履くと踵が出てしまう。足袋が履けない私は犯人じゃないということを取調官は一番よくわかっていたんじゃないかと思います。そのために、私は多分兄ちゃんが犯人だろうということを、自分自身で決めてしまった。しかも、まさか当時の警察官が嘘をつくと思いませんでしたから、兄ちゃんの足袋がそうだったら、まちがいなく犯人だろう。「兄ちゃんが犯人だったら、私が犯人だということにしてくれ」と取調官にお願いしたところ、「石川さんが待ってくれれば、お兄さんを逮捕せずに10年で出してやる」と、そのようなことを約束してくれました。 しかし、犯人になるには、いろんな書面を書かなければなりません。女子高生とどこで出会って、どこでどう殺したかということを言わなくてはいけない。「想像でもいいから」ということで、一番近い雑木林を、ここで殺しましたと言いました。出会いについては、どこで出会ったのかわかりませんから、警察官が考え出した場所を指定しました。しかし、出会ったとされる場所から、私が殺したと言わされた場所まで、道は1本しかない。農道でだいたい700メートルありますが、その道中に、畑仕事をしている人が5人いたことがわかったんです。もし仮に皆さん方が女子高校生として、ついてこいと言われてついていったら、多分畑仕事している人に助けを求めただろう。そういうことは誰しもわかると思います。私は、裁判官は何はともあれ、現場に立ってほしい。その畑はまだ残っています。5人の作業者は所々にいたんですけど、そうすることによって、裁判官は、警察官のストーリーに基づいて調書が作られていったと言うことは、一目瞭然です。
それから、私の家から発見された万年筆。これは、3回目の家宅捜査で発見されたわけですけども、1.2回目の時には、鴨居になかったと、おまわりさんが言うわけです。「3回目で見つかったというのはおかしいと思ったけど、まだ現役だったので言えなかった」と。組織内では上下関係が厳しくてなかなか言えなかった。今は退職したから本当のことを言うということで、弁護団に正直に話したそうです。でも、今はその万年筆自体が女子高生のものと違うということがわかり、根底から覆されています。今は、科学の進歩によって、この万年筆の太さが違うと。被害者は常日頃ライトブルーを使っていた。私の家から発見された、多分、警察官が中を見ることなく、インクが違うことを確認しないまま置いたんだと思う。それはブルーブラックのインクだった。 なによりも私は、事実調べがあれば、必ず石川一雄は無実になると思います。残念なのは、狭山事件には、4人も5人も自殺者がおります。単に一人被害者が殺されただけではありません。その後次々と自殺者がいます。私は自分の兄貴と相対して、自分が犯人じゃないと言うことを兄貴から聞くまでは、兄ちゃんが犯人だと思っていましたけど、犯人じゃないとなったときに、じゃあ、誰だろうと。第1番目に自殺した人が犯人じゃないかと、私は今でも思っています。というのは、被害者の家に住み込んで働いていた人、1年くらい前に辞めたそうですけど、その人が結婚式を2日後に控えていて、被害者が死体で見つかった翌日に農薬を飲んで自殺してしまった。おそらく、だからそれまでは任意同行で調べを受けていたのではないかと思います。おめでたい結婚式を控えていたんですよ。しかも、目撃者がいるんです。被害者は5月1日に地元のお祭りに出かけて、3人の人と話ながら、行ったら、自殺した人の自転車があったと。ですから、おそらく被害者はそこで殺されたんじゃないかと。だから、もっと強く言えば、私が本当に殺したんだったら、当日は雨が土砂降りだったから、衣服が濡れていたはずだった。ところが死体が見つかったとき衣服はほとんど濡れていなかったということがわかっていたので、多分、野外じゃなく、屋内で殺されたんじゃないかと私は思っている。その人は、当然被害者と面識があります。しかも自分の職場から100メートルくらい離れたところに、被害者は佇んでいたということを、Nさんという人が目撃している。その人は、自分の娘が中学3年だったので、高校に上がったら、こういう自転車を買ったり、鞄買ったり、セーラー服買ったり、白い靴下を買ったりしなくちゃならんということで、本当に事細かく見ている、被害者が被害者であることも間違いでないという調書も出てきました。ですから、私は、その自殺した人が犯人じゃないかと今でも思っていますが、それが、裁判さえ始まればわかってきます。 私がうれしかったのは、自分が犯人じゃないということを、面会の時に聞いた看守さんがそれを信じてくれて、「石川さんは今、死刑囚になっている。俺は死刑囚の人を助けることはできないけど、無実の人を死刑にはできない。何とか石川さんが救われる道はないかと考えた結果、何よりも文字を覚えること。それだったら助けることはできる。石川さん覚える気はあるか」と言ってくれた。マンツーマンで8年間、私はその刑務官に文字を教えていただきました。午前中は死刑執行があるので、皆さん静かに待っています。だいたい私の時は70人くらい死刑囚がいて、他の人はみんな静かに午前中待っているので、その担当は見回る必要がなかったんですね。そのおかげで、私の部屋に入って、午前中だけはマンツーマンで教えることができた。午後になると死刑執行がないので、あちこちの部屋に遊びにいきます。今は厳しいそうですけど、昔は鍵がかかっていない。あちこちに遊びに行って話をすることができました。ですから、午後は看守の見回りがある。その間、私は漢字書き取りの筆記をしていて、例えば5文字の書き取りを次の日までに、1000字くらい、マス目があるので1字につき250字を看守さんから明日出勤してくるまでに書いてくれと言われ、それが書き終わるまで私は寝ませんでした。それからずっと3年間、続いた結果、3年くらいで、およそ皆さん方にわかっていただけるような手紙が書けていったんだと思います。囚人は6時半起床で就寝が9時になっていますけど、死刑囚だけは例外として寝なくてもいいということになっていたので、看守さんが何千字書け、というと、私はそれが終わるまで寝ませんでした。そして同時に運動にもほとんど出ませんでした。今は体重が43キログラムですけど、当時は最終的には72キロになって糖尿病が宣告されていました。 だからそれ以来、ずっと2食で、現在も肉魚はほとんど食べません。貧しい生活のようですけど、(映画の中の)あれが私の1日のカロリーです。だいたい1200カロリーが1日目安です。今日も昼のお弁当と言われたのですが、私は食べませんでした。カロリー計算しながら食べるので、それ以外は一切飲んだり、買い食いは一切しなかった。その代わり、今でも43キロをきちっと守れてるんでないかと思います。連れ合いは、私の2倍くらいありますけど、別に太ってもどうってことないんですけど、もし仮に、連れ合いが私より先に動けなくなってしまったときに、介護するのが大変だと。私は何度か連れ合いのお母さんを介護したことがありますが、それは大変です。ベッドから降ろすときはいいんですけど、車いすからベッドに上げるときは大変です。で、連れ合いのお母さんも連れ合いと同様に太っています。いかに大変かということを覚えていたんで、もう少し痩せてほしいなと思ってしまう。ただ、連れ合いに言うと喧嘩になってしまうので、あそこ(映画のシーン)で食べるのを控えた方がいいんじゃないのって、太ってるとかそういうことじゃなくて、もう少し食べるのを控えた方がいいんじゃないのっていう程度に言いました。向こうは逆に私のことを、余りにも痩せているから、もう少し食べた方がいいんじゃないのと、それはしょっちゅう言われます。だけど、これは痩せてるんじゃないんです。腹筋して筋肉を鍛えている。川のシーンがありますが、あばらが見えるくらい。あれは単に痩せてるんじゃない。絞った肉になっているんです。 これで、おそらく今年中に再審を勝ち取ったら、この3年間、無期懲役の人が4人も無罪になりました。菅谷さんはDNA鑑定で、刑務所にいるときから無罪ということで出ましたので再審ではないですが、あとの人は、私のように仮出獄で再審して無罪になったんです。それも検察官が証拠開示したことによって無罪。私も、今現在検察庁が隠している証拠を出せば、100%無罪になると思います。裁判官は8項目にわたって検察官に隠しているのを出せと言っている。それを出せば狭山事件を解決することができると要請したんですが、その勧告にもかかわらず出さないんですよ。出すと私の無実がわかってしまう。あるいは、4人の中に殺した人がいるかもしれません。そういう証拠が出てしまうかもしれません。だから、出さないんですよ。全ての証拠を明らかにしてほしいなと。警察官の自分たちの職責を全うしようとすれば、私の無実も明らかになるでしょうし、皆さんも、これだけ長い年月をご迷惑ご心配を掛けずに済んだと思います。もちろん、責任の一端は私にもありますから、私は一切泣き言は言いません。これは何と言っても、自白したのは紛れもない事実です。たとえ兄貴が犯人だと思わされたとしても、自白したことは間違いないんですから、私は刑務所にいるときから、泣き言は一切言いませんでした。労働組合、あるいは解放同盟として、面会に来ていただきました。(あの当時)無期懲役の人は30年が基準になってますので、3分の1が経てば仮出獄ができる。とりあえず本人が申請できるんですよ。でも仮出獄というのは、犯罪を犯した者で、社会に出ても、もう二度と悪いことはしないと、そういう風に担当看守が認めた者だけを本人に告知して、申請することができる。しかし私は無実の罪ですから、仮出獄を適用されること自体がもう、おかしいと思っていましたので、仮出獄では出ない。出てから二度と悪いことをしないと、私がそれを誓ったら、女子高生を殺したことを認めたことになってしまいます。それがあるからこそ、私は出なかったです。今から19年前に出たけれど、その要件が整っていたということで私は出ました。所長から「引き継ぎで石川さんが出ない理由はわかっている。それは二度と悪いことをしないということと、健全な社会生活、この2項目があると石川は出ないと言っているよと前任所長から聞いている。今回は石川さん、それを誓わなくていい。その代わりあとの14項目は誓ってほしい」と。例えばお酒飲んで夜遅く帰ってきてはいけないとか、あるいは法務省に抗議したらいけないとか。あるいは自分を犯人にでっち上げた警察の家に行っちゃいけない、被害者の家に行っちゃいけないと、そういう小さな項目はあります。それはとにかく守ってほしい。あとは検察庁に月1回、保護司の所に月3回行ってほしいと。それは今も守っています。ただ言われたのは、「石川さんは車の免許とるだろうけど、3年間はぶつけてきても石川さんは仮出獄を取り消しになってしまいますので、できれば3年間は免許をとっても乗らない方がいいよ」というようなことを所長さんから言われました。今は人身事故さえ起こさなければ、刑務所にもどることはない。だからと言ってめちゃくちゃに飛ばすことはないですけど、今でも私は慎重に運転しています。人身事故をおこしたら、皆様方にまたご迷惑かけます。 そういう意味では私は、これからも無罪を勝ち取るまで(慎重にいきます)。多分、今年の8月くらいまでには何とか決定が出ると思います。今、科学も医学も進歩によって、いろいろなことがわかる。私は右手で首を絞めたと自白調書に書かれている。ところが今は医学の進歩によって、手で首を絞めたのではない、帯状のもので被害者は首を絞められているということがわかったんです。今から50年前はそういうことがわからなかったそうですけど、今はそこまでわかるらしいです。そういうことから、多分警察官も鑑定書を改ざんしたり、ねつ造されたり。NHKが去年やっていました。筆跡と腕時計の違いをやっていました。でも、先ほど言ったように、出会ったところから殺されたところは変わることはありません。ですから、裁判官に歩いてほしいということをお願いしています。ぜひとも、皆さんも、現場に立っていただければ、こんなところに農作業した人がいたのか、あ、ここにもいたのかということがわかれば、女子高生が当然声を上げただろう。あるいは、畑仕事をしていた人が見えたんじゃないかということがわかっていただけるんじゃないかと思います。おかげさまで、思想信条を超えて、私のためにいろいろ御尽力があったおかげで、裁判所に公平で公正な裁判を求める署名が100万を超えて届けられています。おそらく、裁判所もそれを軽視することはないと思います。そういう意味で、私自身は何とか皆さん方の多くのご支援を賜っておりますので、できるだけ早く、一刻も早く石川一雄の無実を勝ち取って、そうしたら、4年間猶予をいただき、夜間中学に行かせてもらいたい。そういう思いでおります。私の村では、ほとんど中学校に行っていない。私のように小学校4年か5年で、もう、他の遠いところに働きに行かされます。私も5年生の途中から18歳近くまで、年季奉公でよそに転々と行っていたがために、私は読み書きができなかった。そういうことから、看守さんが私のために一生懸命に字を教えて下さった。もちろん、看守さんだけではありません。奥さんの方がむしろ積極的だということを伺いました。ボールペンなんかは、死刑囚ですから、凶器になるということで差し入れがないと入ってこない。いかに看守さんが教えていても、ボールペンを貸すことができない。差し入れを通すと、許可をもらって、所長が認める。それを奥さんが12年間差し入れてくださってた。しかも、聞くところによると、私は3年くらい経ってから、毎日3通の手紙を出していました。いかに切手が、当時10円でありましたけど、安かったと言っても、3通毎日出せるように、奥さんが、計算しながら、便せんや、封筒、切手を差し入れてくれていました。しかも8年間でその看守さんは移動されていくんですけど、8年間ではまだ、多くの支援団体からお金は入ってこないということを、看守さんはよく知っていたので、移動されてからも4年近く奥さんが、今度は府中刑務所のほうから、うちの父ちゃん母ちゃんの名前で差し入れて、定形外の封筒で送ってくださっていた。なぜ、12年くらいでやめたかというと、それくらいに解放同盟からの支援が始まったことを、娘さんが4年生のときに同和授業で聞いたそうです。多分その娘さんは、お父さんお母さんに石川一雄のことを話したんでしょう。ああ、そんな団体が入ったら、お金も多少入るんだろう、ということで、およそ12年でやめました、ということを率直に言われました。奥さんは、その12年間私の差し入れたものを、全て日記に書いていました。おそらく、今のお金にしたら相当になると思うんですけど、それだけ看守さんは字を教えてくれて、奥さんは内緒で差し入れをしてくださった。なぜ内緒だったかと言うと、私に教えるといろいろ負担をかけるんじゃないかということで、お父さんに、妻が差し入れていることを言わないでと。奥さんはそのように、私のために。その後も親戚以上のつきあいをして、娘さんが結婚されるときも招待状が来ました。出席するとちゃんと紹介してくれました。私が無実であるのに死刑囚にされてしまったこと、字を教えていまは立派に書けるようになったこと。今日は石川さんにスピーチをしてもらいますと言われ、そのとき私は落涙してしまいましたが、娘さんがそばに来て、「これから私は福島の方に嫁いでしまうけど、応援するからがんばって」と言われ。今、一児の母になっていますけど、今でも、しょっちゅう電話がきます。あるいは、暇なときには来ないかと言われます。私も電話で元気であることを伝えています。 今日は、皆さん、お集まりいただいて本当にありがとうございます。狭山事件に関心を持っていただくことが、司法を動かすには、皆さん方の声が不可欠でありますので、是非とも裁判所に、事実調べ真相究明のために裁判を開いていただきたいと、そういうはがきを出していただければなお心強く思います。「足袋が履けない」ということを、まず、一番言ってもらいたい。一昨年6月に実験したんですよ。裁判所にある足袋で実験することはできません。ですから、保管されている足袋と同じ文数の足袋で実験しました。ところが、私がそれを履くと血だらけになってしまいます。往復すると10キロメートルです。片道歩いただけでも、しかも当時は砂利道です。それが片道だけで血だらけになってしまったんです。 私が元気な間に。まだまだ75歳です。これからです。第2の人生はこれから歩みたい。また、夜間中学に行きたい。その後、私はいろんな差別をなくす運動に生涯携わって行きたいと思います。今日は貴重な時間を本当にありがとうございました。
安田:昨年の10月末に完成した映画、「SAYAMA」というのを見ていただいて、その後石川さんの話を聞いていただきました。(石川さんが短歌を書いている) 50年の長い闘いを振り返る。今3回目の再審請求をやっています。第3次再審請求の動いてる現状について報告します。 今年の1月31日に16回目の三者協議がありました。そこまでの50年あまりの年表が資料に入っています。皆さん自身が、50年の年表と自分の人生。もちろん、石川さんが逮捕されてから生まれた方もいらっしゃると思いますが、みなさんそれぞれ自分の人生と重ねていただくと、本当に長い闘いです。えん罪を叫び続けた石川さんの今の姿を、何とかいろんな人に知ってもらいたい、というのが、先ほどの映画の金監督の願いでもあります。金監督は、去年の10月31日に完成披露の上映会を東京でやったんですが、その間3年あまり、撮影をしました。石川一雄さんが仮出獄で出たのが、ちょうど19年半前になるんですが、石川さんを撮った初めてのドキュメント映画となります。 年表を見ながら、狭山事件の原点を確認したいと思います。1963年の5月1日に狭山事件が起こりました。狭山市内の高校1年生の女性が、学校帰りに行方不明になり、夜脅迫状が届く。これが事件になったんですね。この後、脅迫状には、5月2日の夜12時に身代金を持ってこいと書いてありましたから、5月2日の深夜に警察官が指定された場所に張り込みました。犯人は現れた、にも係わらず警察は取り逃がしてしまった。これが、埼玉県警始まって以来の大事件になったということを、皆さん、よく覚えておいてください。5月4日に女子高生の遺体が発見されます。警察庁長官が辞表を提出とあります。全国の警察のトップが辞任するという事件なんですね。それぐらい、この狭山事件の犯人取り逃がしというのは、大問題になったんですね。当時は、国会でも取り上げられ、国家公安委員長、当時の池田首相も含めて、犯人逮捕は近い、すぐに捕まえられるんだということを、つまり、警察のメンツがかかっていますから、そういうことを国会で答弁せざるを得ないくらい大問題になったんですね。1963年3月に吉展ちゃん事件があり、これは遺体が発見されて、後に犯人も捕まるんですけど、この狭山事件があったときには、まだこちらの犯人も捕まっていない。吉信ちゃん事件の1ヶ月後に、隣の埼玉県で同じように警察が大失敗してしまった。何とか威信を回復しなければいけない。そういう時に警察は焦るわけですね。事件直後から、狭山市内の被差別部落に対する差別意識、その偏見に基づく捜査が行われた。これが、このえん罪を産んだ大きな原因の1つです。具体的に当時の雰囲気がどういうものだったか、資料に当時の新聞記事が切り貼りで出ています。「石川を否認のまま送検・犯人に間違いない」という見出しの、地元埼玉新聞です。それから隣の見出し「いまだに残る“夜這い”用意された悪の温床」と書いてあります。警察は、この被差別部落への差別意識にのっかるんです。アリバイを調べる、血液型を調べる。その中から、怪しいと偏見をもたれている若者たちをリストアップして、その中の石川一雄さんを別件逮捕したということです。だから、えん罪の背景には、大事件になったということと同時に、これは皆さん、警察が偏見を持っていただけではないんです。市民がみんな断言していたという。つまり、そういう差別意識というのが社会的にある。それがえん罪の背景にあったということを、ぜひ見ておいてほしい。当時の新聞記者も、その差別意識をそのまま記事にしているんですね。このように、住民、マスコミ、警察、全部そういう差別意識にどっぷりつかっていた。そういう中で、石川さんが別件で逮捕された。証拠がないのに逮捕されているんですからね。決めつけなんですよ。「あそこの連中に違いない」「アリバイがないのは誰だ」「血液型がB型なのはだれか」そうやって絞り込んでいって、石川さんが逮捕されて、えん罪の濡れ衣を着せられた。私たちは、50年前にあった、部落差別の現実を直視しなくてはいけないし、二度と同じようなことを起こしてはいけない。今日の研究集会のテーマでもありますけど、人権を守る、差別をなくすということがいかに大事かということを教訓として教えてくれているということです。 石川さんは獄中32年でした。1994年の12月に仮出獄で出ました。そのときに、刑法には「悔悛の情があるときは仮出獄をできる」と書いてあるんですね。石川さんは反省しないと出られない。じゃあ、無実を叫んで再審請求してたら仮出獄にならないんじゃないかと、石川さんはとても心配した。私たちは全国の組織をあげて、無実を叫んでいる人も仮出獄ができるように働きかけ、国会議員が質問等もしました。再審請求をする。自分の無実を訴えるのは権利ですから、そういうことが阻害されるのはおかしいということで、再審請求中の仮出獄を認めるべきだということで、法務省に要請しました。そこで、先ほど石川さんが言ったように、石川さんが仮出獄するときは何の条件もついてないですね。再審請求中、無実を叫びながら、石川さんは出ている。これは、あまり前例がありません。しかも無期懲役ですから。でも、今の石川さんは、映画のタイトルになっているように、見えない手錠がかかっている。つまり、えん罪ということが晴れていないんですね。犯人というレッテルはまだ貼られているわけです。ですから、具体的には、さっき石川さんが言ったように、月1回は、法務省の管轄下にある保護観察官に面会しなければいけない。保護観察を受けている。更に言えば、地元の保護司に月3回は会って、例えば今月の22日には京都に行く、そういう自分の行動を全て報告しなければならないんですね。そういう制約や、もちろん選挙権がない、そういったことを含めて、石川さん、まだえん罪が晴れていないために、精神的にも日常生活の上でも、まだ見えない手錠がかかっているんだということを、ぜひ皆さん知っておいていただきたいと思います。 50年の闘いの中で、狭山事件は部落差別が生んだえん罪、日本の社会が人権が守られていないと言うことを、石川さんがこうやって、訴え続けているということ。そのことを私たち部落解放同盟は掲げてずっと闘ってきたわけです。そして、その中で石川さんの仮出獄が実現し、そしてこの2006年から始まった、第3次再審請求。もう8年が過ぎていますが、この3回目の再審請求は、大きく動き出しました。今どうなっているかということをお話ししたいのですが。先ほど、石川さんはいくつかの、この裁判の争点、自分の無実と言うことを話されました。狭山事件の今の再審請求で、何が争点かというと、石川さんが有罪となり、犯人とされた根拠は何か。それがおかしいということを、今弁護団は訴えているんですが、1つは、犯人が残した間違いのない物的証拠、脅迫状。これ、石川さんが書いたことになっているんですね。1974年の10月に、石川さんに有罪判決が出ました。今年はそれから40年目です。その有罪判決が、今も最高裁判所で正しい判決ということになっています。この東京高裁で出た無期懲役という判決がまちがいであれば、それをやり直してもらわなければ困る、というのが、今の再審請求の訴えなんですね。その有罪判決は何を根拠に石川さんが犯人だとしたのかというと、犯人が残した脅迫状の文字と、石川さんの字が似ているというんですね。先ほど石川さんは話の中で言いましたけど、当時石川さんは24歳、そして、学校にも行けなかった。文字を奪われていた。読み書きができなかった。だから、無罪をはらして、早く夜間中学に行って、もう一度勉強したいと言ってるわけです。その教育を奪われた人が、あの脅迫状書いて、まず、文字を使って脅迫するということを考えるかということなんです。読み書きのできない人がね。土台その脅迫状を書いた犯人だと決めつけることはおかしいということは、そもそも読み書きのできない人なんだよ、という話から入ると、当然ありえない有罪の根拠なんですが、1974年に東京高裁の寺尾という裁判長が、「字が似ている」これが有罪の最大の証拠だと言いました。で、弁護団はこの第3次再審請求の中でも、石川さんの当時の字と、犯人が残した字は、どう見ても似ていないし、当時書けなかったんだし、脅迫状を書いた犯人だとは、絶対に言えないということを、繰り返し主張してきたんですね。しかし、弁護士がいくら、「字が似ていないじゃないか」と言っても、裁判官は「いや、それは弁護人の主観だ」と言いますから、弁護団は、何人もの筆跡鑑定の専門家に頼んで鑑定書として出しているんですね。例えば、国語学者、京都の丸木先生もその一人ですが、学校の国語の先生であったり、専門家、研究者の方から見れば、当時の石川さんが脅迫状を書いたということは、科学的にあり得ない、字が似ていないだけじゃなくて、書けてないんだから。あの脅迫状には漢字がいっぱい使われている。全部の文字数のうちの、27%が漢字。4分の1は漢字が使われていて、しかも、間違いがないんですね。正しく漢字が書けている。そういうことが、当時石川さんにできたのか。当時、石川さんが書いたものに、漢字がまずない。そして、その漢字に正しい漢字がない。これは明らかに石川さんが犯人ではないということを、その脅迫状を比べてみることで明らかではないかというのが、まず、第1の主張ですね。これが、この第3次再審請求では、画期的な前進を見ました。石川さんが50年前、1963年5月23日に逮捕されて狭山警察署に連れて行かれました。いきなり取り調べを受けました。「お前が脅迫状を書いて届けたんだろう」と、警察に言われました。石川さんは、「私は字が書けません。こんなものを、私は書いていません」と、調書が残っています。無実を叫んでいますね。それで、その取り調べの最後に、狭山警察署長宛に、そのことを書けと言われて、警察署長宛の上申書というのを実は書いていたんですね。「脅迫状を書いて届けたのは私ではありません」と書いてある上申書です。それが何と、いいですか皆さん、2010年の5月にやっと証拠開示されました。今から4年前、事件から47年経ってはじめて、逮捕当日に石川さんが書いた文字を検察官は証拠開示してきたんです。初めて弁護団に見せたんです。当時の石川さんが書いた字があるんだったら出しなさいと、裁判官に言われたんですね。その字を見れば、脅迫状と比較して、似ているかどうか比較したらいいと、裁判官に言われて始めて出したんですね。47年間隠していたんですよ。当時石川さんが字が書けないと言うことを。それが証拠開示されて、それが今、新証拠になっています。当時石川さんはやはり、字が書けなかった。逮捕の当日に書いたものも漢字がない。脅迫状と比べてみたら、どの専門家も字が全然違うと判断する。これが、今無実の新証拠として、裁判所に出されているんですね。最大の前進。第3次再審請求の大きな新証拠になります。 もう一つ、先ほど、石川さんは取り調べのことと、嘘の自白をなぜ言ってしまったのか話しました。石川さんはいつも、それでも自分は自白してしまったんだということを、自分を責めて言っていますが、取り調べがひどいんですよ、皆さん。別に嘘の自白をしてしまった石川さんが悪いわけではないんです。石川さんはやはり、させられてしまったということが、悔しいんです。その経過を言うと、取り調べで「お前の兄が犯人だ」と言われたんですね。つまり自白しないんなら、兄を逮捕すると言われたんです。これは、すごいきついですよ。自分の親しい家族とか、お前が自白しないのなら、家族を引っ張ってくると言われたら、本当に追い詰められますよね。そして、それを思い込ませるかのように、犯人の足跡はお前の家の地下足袋と一致したとか、お前の兄にはアリバイがないとか、そういうようなことを、嘘をついて石川さんに迫る。こういう取り調べの中で、石川さんは嘘の自白を言わされたんですね。今、弁護団はその経過と同時に、それが嘘だということ、つまり犯人じゃない。石川さんの自白は犯人じゃないということを示しているということを、いろんな新証拠で証明しようとしています。例えば、さっき石川さんも言ったように、被害者の16歳の高校1年生が、何の面識もない石川さんが声をかけたら、出会い地点からずっとついて行ったんだということになっています。そんな自白、どう考えてもありえないです。高校生が、いきなり学校帰りに呼び止められて、知らない男に雑木林までついていって、殺されたんだと言っているんです。裁判官は。それを理由づけるために、とっさの出来事だったからずるずる付いていったかもしれないと、判決文に書いてあるんです。それは、苦し紛れの判決ですよね。その反論を、弁護団は客観的に証拠で証明しなければいけない。自白はおかしいんだということですね。で、これも証拠の開示によってわかったんですが、女子高生を連れて行ったという両側には、畑仕事をしている人がいた。そして殺したとされる雑木林の隣でも農作業している人がいた。そういう人たちの証言のある当時の捜査資料が、証拠開示によって出てきて明らかになって、石川さんの自白が嘘だ。犯行現場も、連行経路も、そもそも女子高生を連れて行ったんだという自白自体が。そして殺害の方法。さっき石川さんが言いましたね。右と左で首を押さえつけて殺したということになってる。でも、法医学者が死体の鑑定書を見れば、これは手で締めた跡じゃありませんよと言う。タオルで絞められたものですよと言う。殺害の方法も自白と矛盾している。あらゆる点で自白と矛盾していると言うことがわかったというのが、第2の石川さんの無実の証拠です。先ほど石川さんが「ぜひ、現地を歩いてもらえば、この嘘の自白がよくわかります」と言ってましたけど。今、弁護団は裁判所に「現地を歩いて、現場で検証をして」ということを要求しているんですね。こういう無実の証拠が、証拠開示によって次々明らかになった、検察官が何十年も隠していた証拠が、やっと出始めてきて、この第3次再審請求では大きく動いたというのが今の現状なんですね。 この再審請求、石川さんは、「本当に今年中に決着をつけてほしい」と言いましたけど、何が今、えん罪をはらす突破口になるかというと、最後に石川さんが言ったように、一つは、検察庁が隠している証拠をとにかく全部出させるということ。そして、もっと言えば、裁判所が『明らかになった無実の証拠を調べる』ということなんですね。ただ弁護団が出しただけではだめ。その証拠を裁判所がきちっと調べて石川さんの『裁判をやり直すという決定』を出さなければならないんですね。そのためには、石川さんが言ったように、皆さんの声なんです。これだけいろんな証拠が出ているんだったら、証拠調べをしたらいいじゃないかと。その声なんですよ。それは、いろんな方法。署名用紙もあれば、はがきもあります。そういった声を、皆さんが具体的に挙げていただいて裁判所に届けてほしい。今は、東京高裁の河合健司という裁判長、そしてあと2人の、3人の裁判官で審議をしています。この3人の裁判官が具体的に石川さんの訴えを聞いて、弁護団の出した証拠を調べ直ししてくれるのかどうかにかかっているんですね。 実は、今年の3月末に、この大谷大学の先生の鑑定書を出します。石川さんが取り調べられたときの自白、警察官とのやりとりの録音テープを今、分析してもらっています。それが新たな無実の新証拠ですね。そして、その後、裁判所はこれまで133点の新証拠を出してますけど、その新証拠を調べ直すかの判断になります。つまり、石川さんが言ったように、今年は大きな山場ですね。ぜひともこの50年という、えん罪の訴えを聞いて、裁判長が証拠調べに入り、裁判をやり直すという決定を出すまで、多くの皆さんの声をあげていただきたいと思います。先ほど見ていただいたドキュメンタリー映画が完成して、全国で去年から今年の1月まで、74カ所くらい上映されました。これからも2月3月から、5月くらいにかけて、それこそ北海道から沖縄まで、50カ所くらい上映予定があります。今日も含めてですね。この映画をぜひ多くの人に見てもらうことによって、一つは無実の証拠を知ってもらう。石川さんの無実、えん罪を知ってもらう。そのえん罪の背景の部落差別を知ってもらう。と同時に、そのえん罪を叫び続けている石川さんの姿を見てもらうということ。それが本当に狭山の世論を高める大きな運動になるんじゃないかと思っています。映画と、そして弁護団の無実の証拠の積み重ね、この二つを軸にして、今年は本当に石川さんの願いを実現できる年にしたいと思っています。今日分科会に来ていただいている皆さんが、そういう石川さんの声を受け止めて、何か、皆さんの地域、職場、学園、いろんな所でできることを、取り組んでいただければと思います。皆さん方や、この京都の地を含めた長い運動の歴史の中で、今の石川さんがあります。石川さんはそうやって支えられてきてこの50年闘ってこれたわけですね。でも、それを実現して、最後は勝利にしなければならない。そういう大事なときに、今、来ているということをぜひ知っていただいて、皆さんのそれぞれの立場から、声を上げていただけたらと思います。
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