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第44回人権交流京都市研究集会
パネルディスカッション コーディネーター 藤田敬一 パネリスト 久米功一(京都市立中学校PTA連絡協議会会長) 山田康夫(部落解放同盟京都市協議会) 今井大介(小同研) 北村 淳(中人研)
分科会責任者 井川 勝(京都市小学校同和教育研究会)
分科会庶務
弓削 雅哉(京都市中学校教育研究会人権教育部会) 北村 従来型の人権学習のスタイルは,「啓発ではなく啓蒙」であった。一方通行,講義調に止まり,「禁止事項」を増幅させるような取り組みに陥りがちであった。必然的に,生徒は受け身の姿勢 になり,何を学習するのか?を指導者側が問わぬままに学習がすすめられてきていた。生徒たちの人権学習のイメージは,「季節もの」「感想をしっかり書かなくてはいけない」「面倒くさい」などがあった。それらをどう払拭するかと,子どもたちが「何が知りたいのか?」というニーズを把握してみると,『大人って,差別や人権についてどう考えているのかを知りたい。』が圧倒的で,どうすればそれらを知り得ることができるのかを生徒たちのプロジェクトチームの中で考え,「街頭インタビュー」をすることになった。質問内容や手法についても生徒同士で話し合い,集計や分析,クラスで学習するときもプロジェクトチームが進める人権学習という経験をした。「街頭インタビュー」では,街ゆく人たちの反応に,生徒は一喜一憂し,インタビューを嫌がる人たちには傷ついたり,「がんばって」と励ましてくれる人には温かさを感じたりもした。質問項目の分析では,今も差別は残っていることを実感した上で,『じゃあ,どうする?』の自問する中で,『自分一人でがんばったところで,何にも変わらない。』の諦めの気持ちよりも, 『何か行動をおこさないと差別はなくならない。』との結論を導き出し,指導者側の教師の意図をはるかに越えた反応を示した。 藤田 京都市下京区の千本松原での幼少期の体験および,教員の経験からの生徒であった教え子たちの反応が,北村さんの生徒の感想とほぼ同じであった。『面倒くさい。覚えていない。などなど』これについては,小学校の人権問題をあつかう学習では,どうなのでしょうか?今井さん? 今井 人とのかかわりについての話し合いや社会科の学習の際,児童が「人を大切にしなければ・・・。差別はいけない。・・・」と感想文には記すが,児童に人権問題の大切さを語る場合には,「まず,自分(担任)自身が関心をもって学ぼうとすることが大切だ」と考えている。 藤田 岐阜県での人権問題(同和問題を含む)に関する児童・生徒の認識や感想も,講演などで話している限りにおいては,現状は先ほどの実践の様子と大差は無い。PTAの活動では,どのような活動がなされていて,どんな期待があるのですか?久米さん? 久米 私自身が,大阪府岸和田市の出身で,子どもの頃,まわりの生徒が自分を「チョンコ」と呼んだ経験をもつ。自宅に帰り,父からその言葉が「在日コリアン」に向けられた蔑称であることを知らされ,さらに父から「他人が何と言おうと,自分はしっかり生きていくことが大切。」と教えられ,差別を目の当たりにした。高校時代の道徳や学活で,同和問題学習をしたが,学校内では荒れた行動をしていた生徒が,その学習では差別を受けた経験などを熱く語っていたのが印象に残っている。おそらく,部落出身の生徒ではないかと思ったが,それが同和問題との出会いだ。 PTA連絡協議会の活動で,街頭パレードやティッシュを配布するなどの啓発活動をしているが,伝えていて反応が薄まっているように感じるし,人権問題に関心がないということが最も恐ろしいと感じている。 藤田 部落解放運動をすすめてきた思いや願い,人権問題の意識が薄まってきているのではという指摘に対しては,どうお考えですか?山田さん? 山田 同和対策事業特別措置法が1969年に制定されて以降,莫大な予算と時間が費やされ,住環境の整備を中心に部落の改善がなされた。啓発・研修等についても要求をしてきたものの,憲法月間・人権月間のイベント的なものでしか成り得ず,啓発する側の一方通行・垂れ流しのような状態だったのではないかと思う。人権啓発の中心にすえるべきことは理論や歴史,たんなる知識でもなく人そのものである。それは,人の生き方を考えると言ってもいい。自分の心をたがやし,反省し自分の生き方や考え方を変えることにつながってこないと啓発の効果があるといえない。地域では,支部女性部が「竹田の子守唄」を歌い,語るという取組を2001年から開始し,今は全国に歌い語る取組を展開している。また,藤森中で先ほど街頭インタビューをした生徒たちと支部女性部との『交流会』を実施した。その効果の表れとして,行動へと結びついたものと考える。(啓発する側と受け皿の関係) 藤田 高槻市の人権標語で『またかと言わずに同和教育』というものがあった。これには,「人権問題は,こう考えていなければならない。という姿勢で人権問題を語るうちは,心の肩こりがおこる。」 すると,人の心に扉が閉まり,閂(かんぬき)がかかる。閂を抜かせるために,あれこれと試みる。いじわる・いじめは,『遊び』から始まる。大津のいじめ事件で「いじめと遊びを区別する論議がはじまった」ときに,違和感があり憤りを感じた。『自由』には,政治思想の意味と,勝手気ままという人間の性質にあたる意味と2つがある。そのような多様な考え方の「受け皿」があったほうがよいと思うが,日本には『検証の文化がない』とも言われる。このフロアにおわれる方々も,率直な自由な言葉で語ってほしいのですが,私の目の前のあなたはどうですか? フロア(亀井さん) 群馬県出身で,京都御池中学校に赴任しました。群馬県は人権教育が希薄です。帰省した時に群馬県に部落ってあるの?と祖母に聞くと「あるよ」と答えてくれた。部落・同和地区については「危険なもの」という噂があった。『閂』については,自分にも思い当たることがある。人権学習では,子どもたちに考えさせられていないと感じる場面がある。 藤田 45〜50分の授業で,起承転結を求めすぎていないか?思い悩む事も大切。まちがい・失敗・挫折という感覚がとても大切。あなたにも,挫折はあったでしょ? 冗談が心のウォーミングアップとなり,心が緩んで行く。閂が抜けることになるのでは…? 北村 指導者が,人権学習の前日に午前2〜3時ごろまで準備する。ハイテンションのままに授業をし て,生徒の溜息がもれ,生徒の反応が汲みとれなくなってしまっていたのだろう。 藤田 目を閉じて,もう一人の自分と対話することが「自己内対話」としてとても大切だと思っている。 かつての話だが,「福祉の授業は役に立ったのか?」と問う生徒がいた。『・・・してあげる。』などという言い方そのものがおかしい。生徒は,そんな授業の分析をしっかりしている。児童・生徒の現状や課題より先に,教師の現状と課題の分析を正確に行う方が大切ではないか…。 山田 子育てをするときに先輩に相談し,「子どもに何を教えればいいのか?」と問いかけた時,「何もしなくていいから,親の姿勢を見せろ。」と言われた。その意味を息子が小学校1年生のときに体験した。在日外国人の転入生に「名前がおかしい。」とクラス仲間が発言した場面で,「そんなことを言うのはおかしい。」と言ったものに反省を迫った。なぜ,そんなことを言ったのかと尋ねたら,「人って,みんな違ってあたりまえやもん。」と言われて,子育て(自分の生きざまを見せたこと)に間違いはなかったと確信した。 藤田 金子みすゞの「みんなちがって,みんないい」や「こだまでしょうか。いいれ,だれでも。」に込められた思いを子どもが感じることが大切ですね。人権問題学習で,人間観を刷り込まれている媒介になっている危険性はないか? 今井 京都市集会への参加者が少ないと職員室で嘆いた時,先輩教員から「それは,あなた自身の責任でもあるのやで。」といわれ怒りを感じつつも,差別が今もあるという前提に立って話をしてきたのかを反省した。そこで,職員や若手の教員に聞き取りを行った。その中で,「私(教員)と父母の考えの違いを感じている児童がいる。まずは,私と父母が仲良く話している姿を見せることで,伝えたいことは同じであることを児童に見せたい。」という考えを聞き取ることができた。 久米 自由ということばを使いながら,実は無関心や無責任な行動が目立つと感じる。子育てに自信があったが,わが子が不登校になり,子どもの目線に立ってじっくり話し込めたことが,その後の私の活動の原点になっている。 フロア(中西さん) 山田さんが発言された「行動の受け皿がない」という言葉が,印象深い。自分は,人権学習を委縮しながら行っていると感じる。学力向上・進路保障が至上命題であって,教師の活動も官僚化しているのではないかと感じた経験がある。果して,教員の自分の言葉で話しているのか?行動する「受け皿をつくってほしい。」と教員は願っているのではないか。大学で研究や授業をすすめていて,日本には「なかったことにしよう」という文化があるのではないかと思う。差別も同じような対象と捉えられ,生徒に響く人権学習って何だろうと考えて,必要である学習なら「わくわく感・おもしろさ」を追究しながら,学習を計画することが大切なのでは。 藤田 子どもには,4つの願いがある。@話を聞いてほしい。A決めつけないでほしい。B同じ人間として向き合ってほしい(まちがったら謝ってほしい)。C早く早くと急かさないでほしい。と。この願いに寄り添う人権学習が大切なのではないだろうか?かつての朝田理論では,実態を改善すれば偏見は少なくなり,残った偏見の仇花は,啓発や研修で刈り取ればよい。であったはずだが,人権学習が特別な授業として,日常の授業とかけ離れていたとしたら,どうだろうか。その検証として,次のような観点で授業を分析できないか。 @人は見かけで判断する。(内容は,修正・訂正できる。) A少数者は気にならない。(内容に空洞化が生じる危険性がある。) B人は何事にも比較する。(「分かる」は,「分ける」から生じた言葉。平均を探し出す。) C自分の関心がないもの(必要としないもの)は,気にならない。 D他人の不幸は,我慢できる。 フロア(高橋さん) 差別は,実態の反映だ。自分の生活観からでも実感がある。給 料の実態や高校進学の私立への進学率の高さに差別が表れていたが,今はどうなのか。検証が必要なのではないか。 藤田 同和対策事業の成果は検証されるべき。奨学資金を得て,地区外に流出した人たちの実態を調査すべきであって,生活の困窮者が残りリターンする地区の定点観測では,実態の数値はかつての数字と変化しない。行政は,「してはならぬこと」と「してもよいこと」を見極め,「できる」ことと「できない」ことを線引きしなければいけない。同和地区に対する「マイナスイメージ」の払拭に失敗した。橋元徹大阪市長の考えには賛同できないが,「出自が大きく取り上げられて,人を貶めるという意図がある」などは断じて許されない。部落問題の正しい認識が育たない。「行動する受け皿」をつくることは,やはり大切なのだろう。 山田 NPOの活動などで,なぜ同和対策事業が必要であったのか?また,今日現存する部落差別,改進地区の過去と現在を語り発信し,知ってもらった方々と共存共栄の術を見出していきたい。 北村 学校では,子どもの実態に応じた取組を,毎年新たに子どもたちと語り合って構築すべきで,そのために,若い教員の発想でプランを立てて行ったが,中堅・ベテランからの反発が一番強く,なぜそうなるかの自己内対話を進めつつ人権学習の活動を構成したい。 今井 人権学習の参観・懇談会を昨年度は,体育館で全学年が人権学習のテーマごとにブースに分かれて,保護者も,どのブースに入ってもよいとする取組を行った。今年は違う場の設定であったが,人権参観・懇談会後に地区のおばあさんに懇談会の感想を聞くと,「『人権』という言葉のとらえに差があると感じる。今でも差別は残っていることを知っておいてほしい。」とおっしゃった。 久米 『あかんもんは,あかん』と書いたステッカーを貼って,パトロールしている。中学生会議の開催で子どもたちの思いを知り,さらに今日の議論を通じて部落問題の解決が,いじめや規範意識の向上にも結び付けられるのではないかと考えた。 藤田 4月からは,『和解と関係の修復の仕組みづくり』について,研究をすすめていきたいと考えている。「肉体が てこを持つということを 確かめたくて 握手する」「人生の哀しみに重いも軽いもない」。人権感覚は『反射感覚』だと思う。その感覚を確かめ合っていきたいですね。
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