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第37回部落解放研究京都市集会

  1分科会

部落の歴史 “かべ”を超えて

〜今村家と崇仁〜

 

                                   京都会館第1ホール

 

日   時  2006218日(土)午後130分〜午後445

テ ー マ  「部落の歴史 かべを越えて〜今村家と崇仁〜」

司   会  菱田 直義(部落解放同盟京都市協議会)

コーディネーター  灘本 昌久(京都産業大学文化学部教授)

パネリスト  今村 壽子(今村家文書研究会)

       山内 政夫(部落解放同盟京都市協議会)

       川北 浩史(京都市小学校同和教育研究会)

参加者数  239

概   要

1分科会では、毎年、「部落の歴史」をテーマに議論を行っており、今回は、昔の柳原庄、現在の崇仁地区の庄屋であった今村家の文書の解読を通して、崇仁地区の歴史的な歩みや当時の人間関係に着目しながら、部落問題についてお話しいただきました。  

 

 

 

灘本氏 

 部落差別というのは、現在の時点だけを見ると、なぜこういう問題が起こったのか非常にわかりにくい。どうして同じ民族、同じ国民の中で線引きがなされ、社会的に差別されるようになったのかがわからない。そこで、多くの歴史家が、長年にわたってその原因を追究し、解決に寄与する研究を積み重ねていますが、その研究内容は時代によって全く違う様相を示しています。

 例えば、1950年代には、中世の多様な賤民の歴史などの研究が行われていましたが、1960年代になると、部落がいかに差別され抑圧されてきたかを調べる研究が中心になってきました。その内容を一言で言うと、「暗黒の部落史」研究とでも言えましょうか。その背景には、部落解放運動の中心的戦略が同和対策事業の獲得に重点をおいていたことがあります。部落がいかに悲惨な状態であったかを明らかにすれば、行政責任として同和対策事業を進めなければならないからです。

 ところが、学校で同和問題を「暗黒の部落史」観で教えると、部落の子どもたちは自分自身にマイナスイメージを抱き、また、子どもたちの心の中に差別意識をつくりだしてしまうという問題点がでてきました。そこで、ある時期から、「暗黒の部落史」研究とは正反対の考え方が台頭してきます。それが、部落民にとって誇れるものを明らかにする「誇りの部落史」研究です。しかし、「誇りの部落史」研究は、「部落の人は、差別を受けても決して人間としての誇りを失わなかった。」「部落の人は、差別の痛みをよく知っているからこそ、決して人を差別しなかった」「部落の人はすばらしい」というところに帰結してしまい、最近では、「誇りの部落史」研究も下火になっています。

 では、これからどういう部落史研究が進んでいくのかと言うと、一言で表すと、「納得の部落史」研究という表現になると思います。部落が悲惨だとか、部落が誇るべきだということではなく、部落差別を学んだ人がなるほどと納得できる感じを持てるような研究が重要だと思います。

今、多くの地域で行われている部落史研究は、従来の「暗黒の部落史」「誇りの部落史」研究とは違う流れになっているという印象を持っていますが、その中のひとつが崇仁地区での部落史研究です。この研究は、ひたすら差別されてきたことを強調するものでもなければ、部落を持ち上げる研究でもありません。歴史をひも解き、事実に即して、いいことも悪いことも素直に見ていくという研究がなされており、新たな部落史研究のひとつのモデルになるのではないかと思っています。

 教科書で部落の歴史を学ばれた方は、江戸時代に人為的に被差別部落がつくられたと思っておられると思いますが、現在の研究者でそのような考え方をする人はほとんどいません。現在では、部落の起源は、鎌倉、室町時代、場合によっては、平安時代にまで遡り、また、差別そのものも、時々の政治権力者が粘土細工のようにつくり出すものではなく、社会の中から自然発生的に生まれてきたのではないかと考えられています。

今までは、同和対策事業によって同和地区住民の生活基盤を整備することが重要でしたが、本当に差別をなくし、地域社会における人と人との関係をつむぎ直すためには、部落史研究がこれからますます重要になってくる、そして、地域の中で多くの人の力を集めて研究を進めることが重要だと考えています。

 

山内氏

 「今村家文書」との出会いについてお話ししますと、柳原銀行記念資料館をオープンしたときに、今村家に柳原庄関係の資料があるという話を聞き、半信半疑ながら今村家を訪問したのですが、2メートル、横1メートルの大きな地図を見て、本物であると確信しました。後日、再訪問し、多くの文書を目にしたとき、「この発見により崇仁地区の歴史がかなり明らかになるのではないか。」「この文書を柳原銀行記念資料館に展示できたらどんなにすばらしいことか。」など様々な思いが交錯し、大きな感動を覚えました。もちろん、専門の研究者によって、本物であるという確認作業も行いました。

 文書の所有者である今村家の紹介をすると、初代今村家は、戦国時代に京都に入洛した三好長慶の被官となって、一時期、京都代官まで務めた今村慶満であると言われています。その後、今村慶満の長男弥七は大仏妙法院の家来になり、次男の忠右衛門は大仏柳原庄に住み着き、後に代々庄屋を務めました。大仏柳原庄の範囲は、北は五条通、南は八条通、西は高倉通、東は泉涌寺です。

今村家文書が発見されるまでは、鴨川より東のことについては全くわかりませんでしたが、この発見によって、鴨川の東を含む大仏柳原庄全体のことがわかるようになり、鴨川より西側のことについては、より詳しくわかるようになりました。ですので、旧六条村から新六条村に移転したときの様子もいろいろわかってきました。移転によって土地の広さは倍になり、環境もよくなりました。また、移転に当たり、精巧な地図をつくり都市計画を立てていることも明らかになっています。さらに、村の中に当時の大動脈であった高瀬川が流れていること及び米浜町、材木町という名前が付けられていることから、淀川や鴨川を通って、米や材木が入ってくる活気のあった町であることがわかります。このような村をつくるに当たって、妙法院と六条村の間に立って粘り強く交渉をしたのが今村忠右衛門でした。系図を見ると、このあと今村家は庄屋の免状をもらっています。六条村の移転の功績によって、社会的に今村家の功績が上がった可能性があります。

 他にも、明治時代の初期に、税金を集めなければならなくなったときに、桜田儀兵衛が庄屋である今村忠右衛門に、指導、応援を求める手紙を出したことが記されている文書や、滞納していた税金を京都府に支払う際に、庄屋である今村忠右衛門の尽力により京都府との調整がスムーズにいったことを記した文書なども見つかっています。

 今までは、庄屋と部落の関係というと、いじめられてきた、しいたげられてきたという関係を想像しますが、丁寧に地区の歴史を拾っていくと、多様な姿があったことがわかります。灘本氏の提起にもあったように、部落の歴史について、あえて深刻に考える必要もなければ持ち上げる必要もない。実像を紹介することが部落史にとって重要であると思います。そして,これから今村家文書の解読をどのように展開していくのか考えていきたいと思います。

 

今村氏

私は、いつも、本当の史実を知るためには、文書の読み取りだけで終わるのではなく、できる限りそこにまつわる話も添える必要があると考えており、そうすることによって、そこに垣間見られる人々の生き様や思いがわかり、歴史が生きてくるのではないかと思っています。

文書が解読されるようになったきっかけはというと、ある会議で、偶然、知人が、崇仁地区の歴史研究会の一人であることを知り、文書を有効に使い一緒に勉強したいということで、文書が日の目をみることになりました。

 文書のおかげで解明したことの例をひとつ挙げると、20年以上前、ある方が、「昔、六条村はもっと北の方にあって、それがあるとき現在地に移転してきたのだが、その理由はわからない。」とおっしゃっていました。私は、移転した原因や意味がわかればいいのにとずっと思っていました。地図や文書が見つかったことによっていろいろなことが判明し、また、移転に際しての測量のことや条件交渉のことなども明らかになり、うれしく思っています。

初めて山内さんが家に来られたときに、今村家と桜田儀兵衛さんとは交流があったことをお話しすると、山内さんは、柳原本郷と柳原町とは全く交流がなかったものと思っておられたので驚かれました。私は、今村家が鴨川以西にも田畑を所有しており、また、役場とかかわりを持っていたことも知っていたので、柳原本郷と柳原町との交流があったことは当たり前だと思っていました。ですから、山内さんが、全く交流がなかったと思っておられたことに驚きました。また、前述の崇仁地区歴史研究会の方に、今村忠右衛門の名前を知っていますかと聞くと、聞いたことないと言われました。何がこのように東と西を切り離してしまったのか、歴史的な事実を踏まえながら見つめ直すことが、いろいろな課題に立ち向かうためのひとつの道だと思います。

今村忠右衛門は、柳原町が柳原本郷から独立するときに、毎日のように役場に行っていましたが、引き継ぎの用事だけでなく、人と人との心のつながりや長年の柳原町の思い出を大事にしたかったのではないかと思います。また、今村忠右衛門は、桜田儀兵衛から柳原町づくりの件で手紙を受け取っており、二人が、知恵を出しあって新しいまちづくりに取り組んでいる様子が推察できます。二人の根底に、信頼しあえる心のつながりがあったのではないでしょうか。

人間は、それぞれ持ち味や個性が違い、その人間同士がかもしだす地域の歴史や人の生き方は、その地域ならではの歴史をつくりだしていると考えています。地域の特色や課題をひも解き、見つめ直すためのひとつの素材として、今村家文書を役立てていただければと願っています。また、歴史の中に見られる生き様や問題解決への処し方が、私たちの生き方やそれぞれの地域での実践、学校教育に役立つところがあれば、とてもうれしいです。私は、心温まる人と人との触れ合いを実践しながら、一人一人を大切にし、あらゆる差別に立ち向かえる社会づくりを進めていきたいと思っています。

 

川北氏

まず、最初に、崇仁小学校の紹介ですが、10年ほど前に、「崇仁まちづくり推進委員会」が発足し、「まちづくりは人づくり」というスローガンのもと、地域と学校とが連携して様々な取組を行うことにより、崇仁小学校も大きく変わってきました。ひとつはビオトープの設置です。子どもたちと地域の人と行政とが一緒になって学校の中につくったもので、授業でも活用しています。もうひとつは土曜日の活動です。最近は、小学校も週休2日制ですが、地域と学校とが協力して土曜日も様々な活動をしており、崇仁小学校は、地域と学校とが一緒になって子育てをしている学校だと言えます。

 次に、崇仁小学校の宝物についていくつか紹介します。まず、狩野永徳が描いたと伝えられている「雲龍図」です。元薩摩藩邸の建物を調度品も含めて柳原町が買い取り若しくは譲り受けて、その柳原町役場が京都市に編入されて町役場がなくなったとき、調度品類が崇仁小学校に運ばれたと聞いています。薩摩藩と妙法院と柳原町とはどのような関係にあったのか非常に興味深いものがあります。

 次は、全国水平社創立大会への参加を呼びかけるビラです。これが2枚、校長室の金庫の中に保管されていましたが、いつ誰がなぜ校長室の金庫に入れたのかは不明です。現在、このうちの1枚は水平社博物館に貸し出され展示されており、もう1枚は崇仁小学校の金庫に保管されており、柳原銀行記念資料館にはレプリカがあります。これひとつをとっても、日本の人権の歴史には欠くことのできない資料だと思います。

 次は、砂持ちの写真です。小学校を建設する場所が鴨川のすぐ近くなので、かさ上げをする必要があり、約1500人の住民が集まって土砂を運びあげました。学校建設に際し、今のお金に換算して約2億円という大金をすべて地域で集めて、土地を買収し建物を建てたという記録が残っています。

 次は、日本女子オリンピック優勝旗総覧の写真です。崇仁小学校は、「走りの崇仁」と言われるほど陸上競技に強く、当時、近隣の小学校との合同体育祭では常に1位で、日本女子オリンピックでは三連覇を成し遂げました。なぜそんなに強かったのかというと、子どもたちに自信をつけさせたかったのと、他の地域の人たちに崇仁の子どもたちはここまで頑張れるんだということを見せるために陸上競技に力を入れたという記録が残っています。

 これらのことを授業にどのように活用しているかと言いますと、例えば、砂持ちの写真を見せて、地域の人たちの教育に対する情熱について話をしています。また、皆山中学校では、「村の外に山車を出さないという条件で祭りを行った」という文書をもとに脚本をつくり、劇をしました。

 また、地域の3小中学校の教職員が集まってフィールドワークをしていますが、フィールドワークをすることによって、部落が移転したということを初めて実感することができ、また、ここに六条村の人々が住んでいて仕事をしていたということも、改めてその場に立つことによって感じることができました。

子どもたちに、「崇仁地区はすごい町やった。昔からまちづくりのために一生懸命やってきた。その地域に生まれたことはすごいことなんや。」ということを話せるようになるためには、今ある資料を整理・分析する体制づくりを急いでつくる必要があると思っています。

 

 

  

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