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第57回人権交流京都市研究集会
はじめに
1.私たちを取り巻く情勢と課題
(1)国内情勢と日本の人権状況
(2)部落差別をなくすために
(3)被差別部落のまちづくり
2.多文化共生社会をめざして
(1)日本の「外国人」政策
(2)選挙を通じて現れた排外主義
(3)差別はいかにしてつくられるか―アメリカの人種差別を例として
3.
人権確立に向けたこれからの運動展開
3.教育をめぐる状況
はじめに
(1)アンコンシャスバイアス・マイクロアグレッション (2)人権学習の必要性 (3)時代の変化に応じた取り組みを (4)教育現場における人権教育の位置づけ おわりに
はじめに 21世紀も四半世紀を過ぎ2026年を迎えてなお、この地球上での戦禍は止むことがありません。ウクライナの停戦合意の先は見えず、パレスチナ・ガザでの停戦合意もまた、パレスチナ人の主権を認めないまま、米国が「平和評議会」を提唱。トランプ氏を終身職として、ガザ統治の枠を超えて「国連安保理にとって代わる、米国支配下の組織」として各国に呼びかけられています。国連機関を主体とする支援を遮断することで冬を越すテントも食料も圧倒的に不足する状況を生み、ガザの人々は恒常的に「寒さと飢え」という「戦禍」に見舞われています。力づくで全土からパレスチナ人を追放しイスラエルの領土にしてしまおうという「シオニスト」の野心は、停戦によって終わることはなく、しかも引き続きアメリカという大国の後ろ盾がその目論見を支えています。
国連安保理で否決権を持つロシア、アメリカという2大国が、世界を安定させるための決議に対し、互いに拒否権を発動することで事態が一向におさまらないという状況を数年間見せつけられ、戦争への深い反省から設立された国際連合に対する信頼は傷つけられ続けたと言えます。そのことは、戦争、軍事面のみならず人権にかかわる様々な国際条約をはじめ、対話によって積み上げてきたはずの人間の尊厳をも深く傷つけることとなっています。 そのような状況で迎えた新年1月3日、またしても世界を驚かせる出来事が発生しました。南米ベネズエラの首都などに米軍が突然軍事進行し、建物を破壊、市民を殺害しつつ,マドゥロ大統領夫妻を拘束。麻薬密輸の容疑で起訴し米国の裁判にかけると一方的に発表し米国ニューヨークの拘置所に収監したのです。昨年から散発的にベネズエラ船籍に攻撃と威嚇を繰り返しながら、周到に準備された作戦は5時間で完了し「最も華々しい作戦」と米大統領自ら誇示して見せたものの、力ずくで他国の主権を踏みにじる明らかな国際法違反です。トランプ氏はさらに,ベネズエラを「米国が運営する」とまで述べ、米企業が石油を売った利益をその運営に充てるとするなど、利権を欲しいままとする本音を隠そうともしません。グリーンランドの所有権主張や、要求が通らない場合の極端な関税圧力など、強権的な姿勢への対応に各国が振り回される現状があります。
こうした米国大統領の振る舞いは、戦後80年保ってきた国際秩序が根底から揺らいでしまっていることの証として示されると同時に、米国がその秩序のリーダーの地位を降りて、ロシアや中国という国とも「同列」に独善的利益を張り合おうとする姿をあからさまにしています。私たちは、人類の未来を憂い、途方に暮れる状況を生きているかのようです。けれどもこのような状況だからこそ試されているのは、それぞれの国の個々の人々の振る舞いであると言えます。民主主義への信頼を取り戻すための行動や呼びかけ、話し合いや他者を尊重する姿勢が今こそ必要です。
1.私たちを取り巻く情勢と課題
(1)国内情勢と日本の人権状況 戦後80年という節目の年にありながら昨年、日本政府は公式の談話を発表することがありませんでした。戦後70年に際して当時の安倍晋三総理が発出した談話で事足りるとする判断であると説明され、石破茂総理が強い意欲を表明しながらも政権内での力関係から、閣議決定がされないまま「戦後80年に寄せて」と題する個人的所感が発表されたのです。70年の安倍談話も、「わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。」という戦後50年の村山談話を、日本の公式見解として大きく逸脱するものではなかったにせよ、反省の中身は日本の侵略行為についても抽象化された内容となっていました。その点、石破所感では70年談話での「国内の政治システムが戦争遂行の歯止めとなりえなかった」というくだりを受けて「なぜなりえなかったか」という考察に大半を当てています。そこでは大日本帝国憲法の制度としての脆弱性からひもとき、政府、議会、メディアそれぞれの項目において、軍部が独走していく要因を探っていますが、「統帥権の乱用」を許した反省から現在の制度が整備されているとはいえ、今現在も十分にその反省が生かされていないとの危機感が滲むものでした。大正デモクラシーを経たのちになお、突き進んだ太平洋戦争は、「議会の責務の放棄、精神主義の横行や人命・人権軽視の恐ろしさを伝えて余りある」との踏み込んだ表現は、保守派内部での穏健派(ハト派)の面目躍如というべきでしょう。しかし、こうした姿勢が封じられたという現実は、事の深刻さを如実に表しているのだといえるでしょう。そうして、軍備増強に前のめりとなり、「人権尊重」を実は政権運営の足かせと捉える強権派が大勢を占める状況の中で、昨年10月4日高市早苗氏が自民党総裁に選出されました。公明党の連立離脱によって薄氷を踏む状況となったものの、首相指名の数合わせのため、維新と拙速な合意文書を交わし「連立」(閣外協力)を組み、10月21日に召集された臨時国会で石破内閣が総辞職したため首班指名選挙において内閣総理大臣に指名されました。 しかし、その後11月7日におこなわれた衆院予算委員会で、高市総理は野党の質問に対し、「台湾有事」が「存立危機事態」になり得ると答弁することで、中国の激しい反発を招きました。中国が現在の体制となった歴史的経過を含め、「一つの中国」という国是の琴線に触れるデリケートな問題に対し、日本の外交姿勢もまたその課題については「あえて触れない」という姿勢において国交を結んだ原点も含め、安易に踏み込んだ影響は、はかり知れません。経団連を含むさまざまな団体の懇談や交流の機会が途絶え、スポーツや文化、観光分野での冷え込み、また「レアアース」など重要物質の輸出に関しても中国側から取り止めと発表され、日本にとって厳しい状況が生じています。世論がさらに強硬論を後押しすることで、軋轢を増長させることのないよう、国民の自制が求められています。
高市政権はまた、選択的夫婦別姓について超党派の議論が活発に交わされる状況にあったところ、94%が「氏の変更」を迫られることで生じる女性の側の不利益(人権侵害)について、それを解消しようとはせず、逆に最も強硬に「夫婦同氏」を主張する維新と同調しつつ、戸籍における「同氏」を維持したままの「通名使用」の法制化で決着をつけると表明しています。こうした姿勢は、人権政策全般にわたります。包括的な差別禁止法制定という20年以上にわたって求められてきた政策の実現の困難という、厳しい現実を突きつけられています。しかし、状況が厳しいほどに必要なのが「人権尊重」の理念であることを、決して忘却しないこと、あきらめないことが大事です。戦争前夜という破局的な状況が現実とならないために、声を上げ続ける必要があります。
(2)部落差別をなくすために
「部落差別解消推進法」「ヘイトスピーチ解消法」「障害者差別解消法」、いわゆる人権3法といわれる個別法が成立して今年で10年となります。
部落差別解消推進法は、法の名称として「部落」の文字が刻まれたことと、「同和対策特別措置法」と違い、被差別当事者への支援、施策ではなく、当事者以外の人々が差別をしないための法律としてその意義が謳われてきました。しかしながら、差別は現存し、インターネット上では部落の地名を暴露する行為が繰り返されています。
「全国部落調査」復刻版出版事件では2023年に最高裁の上告棄却で、出版差し止めを訴えた原告が勝訴しましたが、1度流出してしまった部落の地名は二度と消し去ることはできず、1975年に発覚した「部落地名総鑑」事件と格闘してきた運動が、根底から覆される状況が生まれています。もちろん、裁判において地名の暴露について「差別されない人格的利益を侵害するもの」と指摘されたことの意義は大きく、昨年4月に施行された「情報流通プラットフォーム対処法」での総務省の考え方に、「社会通念上受任すべき限度を超えた精神的苦痛が生じた場合には、私生活の平穏などの人格的利益の侵害が成立する」との説明を引き出すきっかけともなりました。また、昨年12月17日にさいたま地裁で言い渡された、インターネット上に部落をさらす「部落探訪」の削除裁判で全28記事の差し止めを認める最初の勝利判決を得る流れに引き継がれ、ここでも「人間としての尊厳を保ちつつ平穏な生活を送ることができる人格的な利益侵害」と判断されました。
ではこの場合の「私生活の平穏などの人格的利益の侵害」とは一体いかなる事態を言うのでしょうか。一言でいうと「アウティング」という言葉が当てはまるでしょう。当事者が被差別性を秘匿して生活している場合に、それを恐れていることもあれば、部落差別の場合には、本人さえも知らされないまま生活し、ある日突然、外側から言い当てられるという危険性もあり、その場合には、自らのアイデンティティの瓦解も含め二重のショックを受けることとなります。また、一橋大学の学生がゲイであることをアウティングされ、精神的に追い詰められ、大学の校舎から飛び降りて亡くなった事件などもありました。セクシャルマイノリティにとっても、人間関係を含めた破壊の恐怖とともに後を絶たない悲劇を生んでいます。それは、マイノリティ集団に対する差別意識が存在し、特定の個人をその当事者であると暴くことによって、貶め、社会的な生活圏から排除しようとする意図が、アウティングという行為の背景にあるからです。まさに抹殺にも通じる加害行為でありながら「軽い気持ちで」加害者意識の希薄なままなされるところがさらに悪質なのだと言えるでしょう。
一方で「アウティング」の反対に「カミングアウト」という行為があります。これは被差別当事者が自らの尊厳をかけてありのままの自分を表明する行為です。その行為を通じて、社会に対して、例えば「部落であることが恥ずかしいのではない。部落を差別する側の行為が恥ずかしいのだ」というメッセージを発することでもあります。勇気を伴う行為でもあり、それ自体が社会変革の一歩ともなるものですが、当事者にとっては、そのようなハードルもなくごく自然に名乗ることのできる社会が望まれているのも事実です。
さて、このように、被差別の当事者性を外側から暴かれることと、内側から名乗りをあげる行為の狭間で悩ましい事態も生じています。それは例えば部落問題研究の世界や、部落問題の講演会等で、部落の地名を堂々と明かしながら論を立てていくことは、この社会での課題解決に役立てようとする行為でありながら、躊躇されたり、あるいは、主催者がそれを阻止したりするという矛盾した現象を発生させていることです。「部落の地名」は「隠すのが無難で安全」というような規範が一般化することで、真摯にその解決を願い研究を続けている人の意思をくじくことになるのは、差別の撤廃に逆効果であるばかりか、かつてメディアが部落というだけでタブー視し、自主規制してきた事実が、決して差別解消に寄与するものではなかったということを教訓として、それにも向き合いつつ、丁寧に本質的な議論をしていく必要があります。
(3)被差別部落のまちづくり
被差別部落に対する行政の施策としては、2002年の特別施策の期限切れを経て、京都市行政において2008年、行政用語から「同和」が消え、「京都市同和行政終結後の行政の在り方総点検委員会」結成から圧倒的スピードで「同和問題(部落差別)」への対策を打ち切って行きました。そこでは「特別法」の理念に則り実施された高校や大学の奨学金についても、「返す必要がないから」と勧められて進学した子どもたちに、「やはり返すように」と返還を迫るということも行われました。20年にわたる返済期間も一部「返還猶予」の申請をした人々を除き、ようやく終了の目処が経とうとしています。
また、2002年には被差別部落の各地区の隣保館がコミュニティセンターとなりました。そこで行われていた「隣保事業」は、施策としては部落問題に特化されるものではなく、一般施策として国からの補助金もおりていたものです。その事業と補助金については、現在も市内を除く京都府の各地域はもちろん、全国的にも継続されています。しかしその当時の京都市は、コミュニティセンターからの職員の引き上げを前提としながら、委員から「行政の行政依存」なる発言を引き出して、国からの補助金を自ら断り、隣保事業を打ち切りました。拙速な打ち切りの批判に対し、当局は「識字の関係で不自由があれば、区役所に行ったら良い。『いつでもコール』という方法もある」と回答していましたが、足腰の弱った高齢単身世帯の割合がさらに加速化する地域の現状においては、施策を再構築する必要性があります。自治会活動も崩壊している状況では、住民が行政から放置されていると言わざるを得ません。そもそも被差別部落の「地域改善」ということで、住民が居住していた土地や建物を京都市が買い上げ、そこに建てた「改良住宅」は、公営住宅との位置付けは変わらないものの、建設に至った経過が一般の市営住宅とは全く違ったものなのです。そこで生まれ育った人たちにとって、その住宅は「ふるさと」であり「実家」とも呼ぶべき場所なのです。しかし、2002年の特別措置法失効以降、改良住宅にも一般の市営住宅と同様の家賃体系や「応能応益方式」が適用され、一定の収入を得た世帯は地域から流出することとなり、必然的に高齢者や「低所得者」が多く残されるまちとなったのでした。それゆえ、現在の被差別部落の現状は政策的な帰結というべき事態なのです。同和行政終結後の総点検委員会からの提言後、市議会の付帯決議で「高齢者へ配慮すること」とされ、かつての福祉センターを「高齢者ふれあいサロン」として利用することとしましたが、困りごとの相談など実態に沿った配慮としては全く不十分でした。
福祉領域における「アウトリーチ」の重要性が広く認知されるようになっている現在、自己申告を原則とする各種申請書類の書き込みも含め、当事者の状況に寄り添い支援する姿勢、つまりかつて隣保館で行われていた対応が、困りごとのある住民一般に開かれていることが重要になっています。京都市は重層的支援体制整備事業を実施しています。先に出てきた「アウトリーチ型」の支援や「参加型」の支援など、住民に寄り添った施策の充実が、実効性の伴うものである必要があります。
そこで、コミュニティセンターから転用された各地区の「いきいき市民活動センター」(以下、いきセン)のあり方についても、今一度再考すべき時期に来ています。現在いきセンは指定管理制度を利用した民間委託で運営され、その施設運営に対しては、定期的に「評価委員会」が開かれて点数化されます。委託をされたNPOなどの民間事業者は、それぞれに努力しつつ、地域の歴史性に配慮し、広域住民へのサービスにも力を入れながら、貸館事業を中心に運営しています。しかし、当時からの京都市の方針として、「現在ある施設を取り壊すということまでは忍びない」というだけのスタンスであることから、施設に関しては「使用可能な限りは使用するが、修繕や建替は行わない」というもので、老朽化し、使用不能になるならば自然消滅するしかないという状態です。地域によっては老朽化がいよいよ激しくなり、改良住宅の建て替えを契機として、いきセンそのものの廃止も予定され、錦林地区(左京東部)や岡崎地区のいきセンはなくなろうとしています。「市民活動の支援」という「転用」の折の理念と、地域住民の困りごとに対応できるコミュニティ形成など、住民と行政双方で培ってきたこれまでの取り組みについて、無に帰することは避けなければなりません。
その改良住宅の建替は、錦林、養正、壬生・壬生東、三条・岡崎市営住宅の4地区6団地について、いよいよ養正(田中)、三条(東三条)、壬生東(西三条)の新棟が竣工し、昨年夏、住民の引っ越しが実現しました。住民の中にはこの建て替えを生きがいにしていた人もおり、涙を流して喜ぶ人もいました。しかし一方で京都市の説明が住民にとって不十分であったため、「33平米の部屋は想像していたより狭すぎる」「押入れの奥行が狭く布団が三つ折りで入らない」などの不満の声が聞こえ、納得できずに住み替えできない状況も生まれています。京都市は簡単な図面を見せて説明するだけではなく、既存の33平米の住宅に風呂がついて実質狭くなることを加えて説明するなど、住民の暮らしに寄り添ったより細かな説明が必要でした。そのためには、行政職員に対する人権研修の重要性の中でも、特に京都市住宅室の職員については、一般的な公営住宅の建替えを、ただ単にスムーズに進行するという姿勢だけではなく、被差別部落を形成してきたこれまでの歴史と経過について熟知したうえで、想像力を働かせながら、住民との関係を築いていく力量が求められます。また、建て替えに関しては部落解放同盟京都市協議会の各支部が中心となった「まちづくり協議会」が行政と住民の間に立って様々な要望をまとめる場面もありましたが、その活動を担ったメンバーでさえ、「ここまで識字に困難を抱えているお年寄りが多いのか」と驚きを隠せなかったと言います。部落のまちづくりにとって、改良住宅の建て替えはその一部分にすぎません。少子高齢化や貧困の問題を解決し、部落差別をなくしていくという目的のためには、行政と住民の双方が同じテーブルを設定して話し合いを継続することが何よりも望まれます。
日本政府が人種差別撤廃条約に加入したのは1995年ですが、それよりはるか以前、1965年ごろには、すでに部落差別に関連して、ほぼ同様の問題意識に立った政策や教育論が準備されていたという評価もあります。「特別な施策」ということで一律に排除するのではなく、必要とされるマイノリティ集団に対しては、個々の状況に応じた支援をしていくことが、社会全体にとっても大切なことであると、今一度確認したいと思います。
2.多文化共生社会をめざして
(1)日本の「外国人」政策 在日外国人人口は昨年6月末時点で395万6619人と過去最高を更新し、総人口の3.2%を占めるにいたっています。その増加をけん引するのは、働き手として来日する若い世代であり、製造業や農業、建設、宿泊業など人手不足が深刻な産業で重要な役割を担っています。日本語学校や大学で学ぶ留学生も増えています。京都府内では10年前、特別永住者が47%と最多でしたが、昨年は「留学」が23.9%で最多となり、特定技能・技能実習も増加しています。このような状況にありながらも、日本では相変わらず「移民」の存在を認めていません。もっぱら不足する労働力を補うことを目的とした扱いであり、社会において共に暮らす隣人と考えようとはしていないのです。日本では「移民」という言葉は、長く住むつもりがある人というイメージで使われますが、国連の定義では、1年以上別の国に住んでいる人としています。日本社会を支える労働者として、この国にやって来た「外国人」に対しては、言葉を含めたさまざまな生活支援を含め、対応する行政の部局が必要ですが、それも定まっていません。
現在、技能実習制度に関して言えば、段階的に廃止して「育成就労制度」が新制度として創設されることが2024年6月に公布され、2027年に本格施行予定とされています。「国際貢献」という建前を取っ払い、「人材確保・育成」との目的を明確にしたものです。「人材」としての外国人は日本での3年間の就労を通じて特定技能1号の水準を身に付けることが可能になると言います。原則3年の期間設定をした上で、介護、外食、製造、建設などの慢性的な人手不足が深刻な分野に重点をおいて、再定義されたものです。移民政策の位置づけがなされないということは、「家族帯同」もまた認められていないということであり、そうした意味での生活者としての「基本的人権」が保証されていない状況は変わりません。このような日本の状況は、欧米諸国で現在問題になっている「反移民」を掲げる極右政党の台頭とは次元を異にして低位なレベルであることは明らかです。それにも関わらず、あたかも外国人が日本の治安を脅かしているかのような、根拠のない誹謗中傷がSNS上を席巻し、そうした言説が「選挙」の票の行方を左右するという事態だけは、欧米に呼応しているように見えます。
(2)選挙を通じて現れた排外主義 昨年7月に行われた第27回参議院選挙では、「日本人ファースト」を掲げ、外国人排斥や、女性の「家庭」への従属、天皇賛美などを主張する新興政党の「参政党」が14議席を獲得しました。この党の特色を表すものとして、彼らの「新日本憲法(構想案)」が公表されています。憲法の体をなさない簡素なものでありつつ、その内容には彼らの思想が色濃く反映されています。戦前を想起させるかのように「日本神話」を全面に押し出し、天皇を中心とした「国体」を前文に据えています。そこでは男系男子の皇位継承,天皇の元首化、夫婦同氏を原則とする家族、外国人排除など「極右思想」が躊躇なく羅列されています。こうした内容を無批判に許容する層が一定存在しており、それに応じて社会全体が不寛容に傾いていきます。事実、今年に入り、衆議院本会議冒頭での解散を決定した高市政権は、同じ日の1月23日に、外国人政策の「総合的対応策」をとりまとめました。外国人が日本国籍を取得する際の要件をめぐり、必要な居住期間を現在の「5年以上」から「原則10年以上」とし、その場合、日本語能力についての要件を新設し厳格化する。また社会保険料未納対策など、従来の「共生」を中心とした考えから「秩序」を社会の土台と位置付けたと説明されました。事実関係や実態に基づく政策ではなく、ネット上での「不満」に応え選挙での票の積み上げを目的とした憶測に基づく対応が、外国人への不安や不満を煽る事態となっています。三重県知事は外国人の県職員の採用を取りやめる方向の検討をしていると表明するなど、具体的な政策に「不寛容」性がすでに反映されている現実があります。
(3)差別はいかにしてつくられるか―アメリカの人種差別を例として 2020年、アメリカで黒人男性が警察官に命を奪われた事件を発端に広がった人種差別に対する抗議行動は、「Black
Lives Matter (ブラック・ライブス・マター)の頭文字をとり、BLM運動として、世界中に広がりました。ミネソタ州で起きた「ジョージ・フロイド事件」では、白人警察が、黒人男性のジョージ・フロイドさんを拘束した際に、地面に押し付け8分以上も首を圧迫し、フロイドさんが「息ができない」と訴えてもやめなかったことで、その後搬送されたものの死亡したという事件であり、その場に居合わせた若者が撮影した動画がきっかけとなり、世界中で抗議の声が巻き起こったものです。 アメリカでは1865年に南北戦争が終結し奴隷制が廃止されてから160年の年月が経ち、その間に公民権運動など大きな社会運動が展開され、「自由と民主主義」の指標ともなるべき存在であった社会で、なぜ「黒人」差別は未だに解消しないのか。「レイシズム」とその前提となる「人種概念」そのものが、いわば作られた制度であるという経過について少し詳しくみてみましょう。
19世紀後半に奴隷制が解消した後、近代国家の成立と同時に「解放民」となった400万の人々。なんの保障もなく放り出されることで、米南部では結局大地主たちの小作人となり、黒人たちは住居や種子や農具などの前貸しによる借金で縛られることになりました。そこでは「ジム・クロウ法」と呼ばれる人種的隔離と権利剥奪の仕組みが定着しながら「自由/奴隷」という差異が消え去った代わりに「白人/黒人」が序列化された人種分類として社会に組み込まれて行くのです。それにより、黒人の住む居住区はインフラが整備されないまま、不動産会社により「危険区域」として赤い色に塗り分けられ、意図的に形成され階層化されたと言います。また黒人には「人種の作法」が求められ、それに従順ではないとレッテルを貼られた人々は、暴力行為の標的となっていきます。白人の秘密結社である「クー・クラックス・クラン(KKK)」は脅迫と暴力である「リンチ」を繰り返し、残虐な処刑(私刑)まで繰り返されました。
およそ8割の黒人が南部に居住していた19世紀初頭から、1970年代に至っては、およそ5割の黒人が北部に移住します。工業生産が急激に発展した北部では、工場経営者たちが斡旋に乗り出し500万人以上が移動しました。しかし、そこには新たな封じ込め制度といえる「ゲトー」が形成されます。ここでもまた「レッドライニング」と呼ばれる慣行のもと、銀行や連邦機関は、黒人など特定のマイノリティが居住する区域に地図上で赤い印をつけて、差別的な待遇や政策を行っていきます。黒人家庭は住宅ローンや保険の提供を拒否され、ゲトーの外部に家を購入することが事実上不可能になり、連邦住宅局は黒人居住地域を「高リスク投資地域」に分類し、銀行が融資を避けるような仕組みを設けました。ゲトーが形成される1920年代は、移民規制法が制定され「白人」中心の社会形成が意識されます。ロシア革命や経済悪化の影響から社会不安が増幅し「優生学」思想が広まり、「社会的不適格者」を遺伝学的に調査する研究や、州によっては断種法が制定されます。白人至上主義組織クー・クラックス・クランが再結成され、その差別思想は反黒人だけでなく、反カトリック、反ユダヤ意識をむき出しにして「100%アメリカニズム」を国家の理想として主張しました。プロテスタント信仰にもとづく道徳改革、人種隔離、家父長制の強化、人種秩序を維持するための暴力の必要性を訴え、勢力を拡大したといいます。 けれども一方で、第2次世界大戦後は「非暴力直接行動」としての公民権運動が、キング牧師を中心に大衆的な抗議行動として広まっていきました。その成果として人種隔離法が撤廃され、黒人参政権が実質化されます。さらに貧困問題や人種差別の根本的解決を訴え、「ブラックパワー」との言葉をもって急進的な動きも新たに出現。ベトナム反戦運動とも呼応しつつ「黒人」というアイデンティティを自らの力で再創造して社会に示し、抑圧されてきた人々の政治的な自決権がいかに重要であるかを行動で示しました。1970年代以降は、脱工業化現象がはじまり、製造業の雇用状況が悪化します。1965年移民法は、従来の出身国別の差別的な移民割当枠を撤廃することで、アジアとラテンアメリカから多数の移民が到来。建設業やサービス業などで、低賃金かつ長時間の労働に従事しました。さらに公民権運動によって上昇の機会を得た黒人はゲトーを離れて郊外地域に向かい、従来のゲトーには最貧困層が残り、コミュニティの基盤が弱体化していく状況も生じました。こうしたゲトーは「ハイパー・ゲトー」と呼ばれ、現在に至っています。新自由主義の高まりのなかで、民営化、規制緩和、競争の徹底と自己責任などを主張する経済イデオロギーのもと、著しい格差と不平等を生んでいきます。また中産階級が郊外地域へ居住の場を求めたとは言え、ここでも白人住民の反発は大きく、結局は白人の再脱出が起きて、新たな黒人の居住区域が生じることにもなっています。居住区の人種隔離は現在も続いているのです。
さらに、ハイパー・ゲトーとそこに生きる黒人たちを標的とした仕組みとして、政権からは「ハイパー収監」が提起されます。「麻薬との戦い」をとなえたロナルド・レーガンに続き民主党のビル・クリントン政権下では、刑務所の増設、犯罪の厳罰化が実施され、大量収監社会への道を進んでいきます。新自由主義のアメリカは、社会福祉的な政策に頼ることなく懲罰的な方法によって、黒人貧困層とラテン系の貧しい人々を刑務所とゲトーに閉じ込めていきます。1990年代に入ると「レイシャル(人種)・プロファイリング」という言葉が登場し、警察の権利拡大が政策的に進められます。それは、実質的に「レイシスト(人種差別的)・プロファイリング」とも言うべき施策であり、しかも、その刑務所運営に関しては営利目的の民間企業が参入して公的事業費から収益を上げ、海外政府とも積極的に契約を交わしています。テロリストと名指しされることで、超法規的に収監され拷問を繰り返される、エルサルバドルやグァンタナモなどの刑務所での人権侵害が社会問題となり、米政府も司法省に対して民間運営の収監施設への依存を減らすように指示しました。しかしそのために、関連企業は新たな「市場」として、様々な理由で拘束されている合法・非合法の移民の収容施設に注目するようになります。現在、全体規模が拡大され30万人ほどの移民収監者の80%が民間施設で拘留されることとなっています。近年のアメリカは、人種化された否定的なイメージで移民を蔑視する傾向がますます強まっていますが、国家が民間と共同で運営する監獄制度がレイシズムの創り出す「人種」と絡み合っているのです。
こうした強権的で懲罰的な隔離政策のもとで上記のBLM運動は巻き起こりました。Black
Lives Matter(黒人の命は大切だ)という叫びは、今、黒人差別だけでなく、これまでの社会運動の歴史を踏まえ、女性解放運動、移民の人権擁護運動、労働運動など、従来の抵抗運動の強みや短所をふまえたうえで、緩やかな運動体として草の根の運動を展開し海外にも広がっています。「Black」は「黒人」だけではなく中東の人々、アジア、アフリカ、南米など様々なカラーの象徴として、また性別や性的指向も関係なく「ありとあらゆる人」の命が大切だというメッセージとして多くの人に共有されようとしています。今年に入ってから、移民税関捜査局(ICE)の捜査官が、米国市民の女性に発砲して死亡させる事件がジョージ・フロイド事件と同じミネソタ州で発生しましたが、これもまた偶発的な事件ではなく、日常的な権力乱用の象徴的出来事としてあるからこそ、BLMに連なる運動として抗議の声が上がるのです。
「黒人」という表象に代表されるレッテルは、実は肌の色や遺伝など「自然の分類」などではなく、かぎりなく政治的、歴史的制度のなかで生まれています。それが人々の思想や行動に影響を与えてきたのだということを念頭に、命の大切さを訴えることで、差別のレッテルをはがすことは可能だということが明らかになりつつあるのです。こうしたことは、遠く離れたこの日本社会でも無関係ではありません。「特性論」にとらわれた偏見から自由になり差別的政策を批判する視点を持つことが、私たちに求められています。
3.人権確立に向けたこれからの運動展開
民主主義が後退していないかを見分ける「4つの指標」をアメリカのNGOである「フリーダムハウス」が提示しています。それによると、@権力が司法の独立を弱めるなど「法の支配の弱体化」―、A不透明な資金調達や選挙規則の操作など、公正・中立な選挙への疑念―、Bジャーナリストへの攻撃や情報へのアクセス制限など「報道の自由への攻撃」―、C社会的弱者が直面する「移民への差別・不当な扱い」とされています。この指標を日本に当てはめて考えてみましょう。司法分野について、「再審法改正論議」では検察の意見がまかり通るなかで、相変わらず証拠開示の制度化が実現していない現状があります。冤罪事件で死刑囚として48年拘置所に収監されていた袴田巌さんや、昨年3月に亡くなった石川一雄さんの訴えも届かず、法制審議会での議論は遅すぎます。それに加えて「スパイ防止法」成立に意気込む政権の動きなど、まさしく公正な裁判・司法が権力によってゆがめられている現状があります。選挙規制や不透明な資金調達については、「政治とカネ」についての議論は多くの時間を費やしつつ、結局うやむやなまま収束しようとする態度では、決して健全な状況とは言えないでしょう。さらに、報道の自由に関しては特定秘密保護法に基づいて「外国から日本を守る」ことを名目に情報がオープンにならない現状がすでに「当たり前」になっていること。また移民に関しては、そもそもその存在さえ認めようとしない態度は世界でも特異なまま、排外主義的言説がはびこっている現実があります。このような「指標」に照らしてみると、この世界の民主主義はたやすく後退していく状況に私たちが生きているということです。
ただし、民主主義の利点とは常に社会が不完全であることを前提として、さまざまな欠点を補い、また何が欠点としてあるかを議論しつつ、「基本的人権」に配慮し、相手を尊重しながら対話をしていくという点にあると言われます。そうした意味で、民主主義の実現には時間がかかり、また「熟慮」という手間もかかります。コストパフォーマンスやタイムパフォーマンスなどの言葉の流布とともに、すべてのことを簡単に、素早く解決していかなければという風潮が蔓延しています。それは民主主義とは相性の悪い、そぐわない風潮なのかもしれません。むしろ私たちは、こうした指標を手掛かりにしつつ、現状を分析し熟慮を怠ることがないように意識するべきです。 特にAIに関して言えば、これまで人類が獲得してきた文字や印刷などの技術とは根本的に異なる自律的なエージェント(代理人)として、登場し、自分で文章を書き、ある分野ではすでに人間より知能が優れている現状です。著名な世界史学者であるユヴァル・ノア・ハラリも「民主主義は対話による合意形成でありインターネットの登場により外交や経済政策についての議論も可能になったが、この人間同士の対話にAIなどのエージェントが大量に入り込み影響を与えている。『偽の人間』によって民主主義の土台が崩されている」と述べています。またこうした人類に与える影響の大きさから、活用のスピードをもっと遅らせるようにと警告を発しています。けれども、こうしたAI開発でリードするのはアメリカのGAFAM(Google、Apple、FaceBook、Amazon、MicroSoft)と呼ばれる巨大企業であり、自らの利益追求について躊躇のない現状が、スピードを後押ししています。またAIが学習やトレーニングに必要とする高性能のGPUには大量の電力を必要とし、発生する熱を冷却するための設備にも多大な電力と水を消費します。多くの不可欠鉱物の消費や二酸化炭素の排出なども問題になっています。人類よりも「高次の」知能を可能とするためには、惑星を灰にするレベルのエネルギー消費が必要となるのです。AIに「ありがとう」や「お願い」というだけで、電力コストとして数千万ドルかもしれないと、AI自身が答えていることが話題にもなっています。さらに軍事戦力の分野において、高度なAIを手にすることで、今の戦車や戦闘機などは全て時代遅れとなり、人間には不可能なレベルの情報処理をAIが実施し、戦場の標的を選ぶなど、戦力バランスを変えてしまう事態は進行しているといいます。イスラエルによるガザ攻撃にはすでに実験的に多用されて、7万人(そのうち女性や子どもが半数以上とされる)を超える人々を殺傷しました。
例えば、核兵器に関しても一昨年、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞しました。被爆国日本では、民間人を無差別に殺傷し、人間以外にも全ての生物の命も奪い、放射能の影響は生き延びた人々の体、妊娠した胎児へと世代を超えた影響を与える核兵器は「絶対悪」と規定してきました。逆に言うと、核兵器をも「必要悪」と考える世界観に対して、被爆当事者としての訴えが届くためには原爆投下から80年近い年月が必要とされたということです。人類を確実に滅亡に導く兵器についてさえ、その脅威について本当に実感されるためにこれほどの時間がかかっていることを想起するべきです。
人間の手に余る技術やツールを人類が手にしてしまった事実に対して、それを使いこなす思想や倫理観が追いついていない。そのことに真摯に向き合い謙虚であることが重要です。目先の利益をいかに早く勝ち取るかというマネーゲームに奔走し、そのために独裁的な権力も容認されたとしても、圧倒的多数の民衆の不安や、生活の苦しさは払拭されないとすれば、常に「No!」、「それは違う」、という声をあげる権利は、私たち一人ひとりに残されています。民主主義や人権といった大切な価値観が壊されようとしたときには、ヨーロッパでもアメリカでも、中東でも、大規模なデモが繰り広げられますが、そのことを、単純に「分断」と呼ぶだけではなく、ダイナミックな運動として捉えることが大切ではないでしょうか。地球という惑星の残された時間を計る「終末時計」で、残された時間は急速に短くなっています。実際、南米ブラジルの熱帯雨林「アマゾン」は2024年だけでも1,790万ヘクタールが消失し、あと数十年後には、熱帯雨林から乾燥したサバンナに変わっていくと予測されているのです。森林破壊によって、アマゾンに生息する動植物はすでに1万種以上が絶滅の危機に陥っています。アマゾン破壊の最大の要因は、牛の牧草地拡大と言われ、さらに森林火災や金の違法採掘が追い打ちをかけ、390を超える種族が暮らす先住民の命を直撃しています。
このような事態に対しては、私たちはこの地球に住む住人として国境を越えて手を打っていかなければならないでしょう。それが未来に生きる世代への責任です。一人ひとりの力は弱いのだからと諦めるのではなく、それぞれが自分自身へ問いかけ、身近な人や遠くの人と共に考え、手をつなぎ行動することが、今こそ求められています。
3.教育をめぐる状況
はじめに
テレビやネットニュースなどでいつの時代も話題になる芸能人に関するニュース。そのニュースをもとに様々な人と話に花が咲くことも多いです。「〇〇交際か」「〇〇結婚へ」「〇〇作家デビュー」など、話題は尽きません。ただ、いい話ばかりではありません。「〇〇破局」「〇〇離婚か」「〇〇泥沼化」など、他人には知られたくないと思うことも話題になります。昨年から今年にかけても、挙げだすときりがないくらい報道されています。
さて、これを自分事に置き換えてみます。もし自分のプライベートなことを新聞やネットニュース、テレビなどで報道され、勝手に撮られた写真や動画が世の中に出回ったらみなさんはどうされますか。それも確かでない情報も含まれていたらどうでしょう。まず嫌な気持ちになり、その報道を取りやめてもらうために行動をするのではないでしょうか。もしかすると名誉棄損や個人情報保護法違反等で訴えを起こそうとするかもしれません。果たしてこのことは、芸能人だから仕方がないのでしょうか。
この世の中には、「これっていいの?」と思われる情報がたくさん流れています。正しいか正しくないかわからない情報もたくさんあります。その中には、人権が侵害されている情報もあふれています。この社会の中に、子どもたちも暮らしています。今や、簡単に情報が入る時代です。「見せない」ことは不可能です。成長過程の子どもたちはそんな社会が当たり前だと思って毎日生活をしています。明らかに人権侵害と思われる情報も、報道されているのだから特に問題がない、と子どもたちが思っても仕方がありません。もしかすると、それくらいの情報は流しても構わないとSNSで
そんな社会に被害当事者からの警告は出されているものの、規制が追いついていません。いたちごっこです。子どもを取り巻く社会は常に危険な情報がたくさんあります。その子どもたちに、私たちにできることは何でしょう。情報モラルの学習や注意喚起をおこなうだけでいいのでしょうか。この社会を人権の視点で見てみると、まだまだ多くの偏見や差別があります。そして世界では、民族や宗教、性自認や性的指向のちがいをもとに、差別的な言動を行う集団や、排他的な政策をとる政権も見られます。「人権尊重」を、何となく、多様性の時代だからという理由で、深く考えずに漫然と唱えているだけでは、このような差別容認の発想に飲み込まれてしまいます。過去から学び、「なぜ」「何のために」人権を尊重しなければならないのかを深く意識し、差別や偏見を見抜ける子どもたちに育てていくことは私たちの使命です。今日は、鋭い人権感覚を身につけ、差別や偏見を見抜ける子どもたちに育てるにはどうしたらよいのだろうという視点で、研修を深めていただければ幸いです。
(1)アンコンシャスバイアス・マイクロアグレッション
みなさんは「アンコンシャスバイアス」という言葉を耳にされたことはあるでしょうか。アンコンシャスバイアスとは、「無意識の思い込み」や「無意識の偏見」とも呼ばれ、個人が経験や知識、価値観などに基づいて、無意識のうちに形成される偏った考え方のことを言います。
アンコンシャスバイアスは、これまでの経験や見聞きしてきたことなどから生み出されるため、完全に払拭するのは難しいかもしれません。しかし、気付かないままでいると自分や周りの人の可能性を狭めてしまったり、誰かを傷つけてしまったりする場合があります。 具体例を挙げてみると、
・ピアノの先生、看護師、保育士というと女性を思い浮かべる
・「親が単身赴任中」というと、父親を想像する(母親を想像しない)
・障がいのある人は、簡単な仕事しかできない、あるいは働くのが難しいだろうと思う など
学校現場にもこんなアンコンシャスバイアスはないでしょうか。
・被差別部落を含む学校は大変だと思う ・○○区の学校は大変だと思う
・「育休」や「育児短時間勤務」と聞くと、女性を思い浮かべる など
アンコンシャスバイアスが影響することが多い「マイクロアグレッション」はご存じでしょうか。「マイクロアグレッション」は無意識の偏見や思い込み(アンコンシャスバイアス)が言葉や態度に現れ、否定的なメッセージとなって伝わり、意図せず誰かを傷つけてしまうことを言います。些細なことを意味する「マイクロ」と攻撃を意味する「アグレッション」をあわせています。1970年代にアメリカの精神医学者であるチェスター・ピアスが、アフリカにルーツのある人に対して差別的な言動をする様子から提唱しました。マイクロアグレッションは、見た目には悪意がないように見えるため、発言した本人は気づかないことが多いですが、受け手にとっては少なからず影響を与えることがあります。「自覚なき差別」とも言われます。具体的には、
・無条件に「彼・彼女」という表現を使う
・高齢者はパソコンやスマートフォンが苦手と決めつける
・外国籍の方に「日本語お上手ですね」と伝える など
学校現場でもこんなマイクロアグレッションはないでしょうか。
・「くん」「さん」で男女を呼び分ける
・大柄な子どもに給食のお代わりを促す
・「お父さん、お母さんに言いましょう」など、保護者が父母である前提で話す など
いかがでしょうか。もしかすると、無意識に思い込んでしまったり、悪意なく発言してしまったりしたことがあるかもしれません。特にマイクロアグレッションは小さな攻撃だとしても、積み重なることで大きな影響をおよぼします。蓄積すれば言われた人の被害は大きく、自己肯定感の低下やストレス障害、不安や葛藤などの心身に不調をきたすこともあります。加害者は、噂話程度の小さな攻撃から批判や差別へ変わり、ひいては暴力行為へエスカレートする可能性があります。マイクロアグレッションは、無意識の攻撃です。無意識に攻撃が少しずつ大きくなるため、差別や暴力行為の土台になるからです。誰もが加害者になることがあります。被害を訴えても、あまりにも無意識で、受け入れることができない場合もあります。しかし、さまざまな経験で、より良い人間関係、より良い職場、より良い社会を築くことができます。大人の意識は、必ず子どもに影響を与えます。差別のない社会に子どもを導くことは、我々の使命です。
(2)人権学習の必要性
現在の学校現場では、多くの子どもたちが「多様性」を受け入れているように感じます。例えば、外国から渡日して来たばかりのクラスメイトをすぐに仲間として受け入れ、片言の英語と日本語を交えながら、分け隔てなく接しています。宗教など文化の違いがあっても、ちゃんと説明をすれば、そのような違いを当然のこととして受け入れます。例えば、届出上の性別にかかわらず、ズボンを着用し、短く切った髪型で過ごす生徒に対して、奇異の目を向けるケースはほとんど見られません。例えば、支援が必要な児童生徒への理解が浸透し、何かしらの特性がある同級生の状況把握をしようと努め、時には大人が思い至らないような配慮をできたりもする…などの光景が、様々な学校で見られるのではないでしょうか。部落差別や在日韓国朝鮮人差別については、中学校の学習で初めて知識として得ることが多いですが、小学校からの学習の積み重ねによって、すんなりと飲み込めているように思います。
しかし、「多様性の尊重」という時代に生まれ育つ子どもたちだから、人権学習の必要性が無くなる、というわけではありません。「わざわざ人権問題について教えなくても…」という教員の意見が出ることがありますが、空気感のような多様性の中にいる子どもたちに、正しい知識を教えることは、やはり重要なことです。マイノリティと呼ばれる人たちに対する差別が横行していた事実について知り、それを二度と繰り返してはならないという思いを育成しなければ、簡単に多様性という空気は一変し、覆りかねません。上で述べたような「アンコンシャスバイアス」「マイクロアグレッション」は、「無意識の思い込みや偏見」が影響していますが、この思い込みや偏見は家庭や学校で形成されることが多いのです。周囲の大人の何気ない会話や普段から言われていることは、子どもの中で当たり前になり、その考えをもとに発言するようになります。さらに、インターネット上にはマイノリティに関する間違った情報や、悪意のある言説が飛び交っており、子どもたちがそのような情報を目にする可能性も高いです。子どもたちの心は柔軟なものであり、それゆえに簡単に流されてしまいがちなのです。デジタルネイティブと言われる世代ですが、SNSの使い方を含め、情報モラルや情報リテラシーという点では非常に頼りないことが事実であり、噂話や悪口を発端とする友人同士のトラブルや、写真や動画の扱い方の危うさは、多くの学校で頭を悩ませている事態です。学校という空間で、幼いころから共に過ごしているから、今は差別や排除はしないけれど、いざ進学や就職などでもっと大きな社会に出て行ったとき、正しい知識を持っていなければ、新しく出会った人や、ともすれば直接は関わったこともない人たちのことを、差別をしたり、差別を見過ごしたりする側になりかねません。社会に出てから学校ではなかなか見えづらい被差別部落出身の人、在日韓国朝鮮の人を、何の疑いもなく差別するかもしれません。
その子どもたちの思考を正しい方向へ導くために「人権学習」が必要となってきます。では、それぞれの学校で行っている人権学習の内容はどのような内容でしょうか。子どもたちや地域の実態によって、学校によってはしていない内容もあると思います。取り扱っていない内容があった場合、今後どこかで正しい方向へ導いてくれる機会はあるのでしょうか。高校でしょうか。大学でしょうか。その前に心の柔軟さが失われてしまうのではないでしょうか。
例として部落差別の問題を取り上げてみます。家庭の中の会話で被差別部落に対する偏見があった場合、子どもはその偏見を正しいと思い込み生活していきます。小学校で部落差別問題を人権学習として取り扱わないまま、中学校に進学したら人権学習としての部落差別問題を取り上げてもらえるのでしょうか。もちろん、取り扱っている学校が多いでしょう。しかし、もし取り扱っていなかったとしたら・・・。さらにネット社会で偏見を助長する情報が入ってきたとしたら・・・。想像するだけで恐ろしいです。
人権学習には大きな意味があります。それは、子ども個人がもっている思い込みや偏見に気づかせ、「誰もが幸せに暮らす」という視点で自ら思考し、何が正しいか判断することです。これからの社会を担う子どもたちが身につけておくべき必要な考え方、「自立した人権意識」です。京都市の学校でどのような内容の人権学習を行っているのか調査をしてみると、まったく取り上げていない人権問題があったり、学年やクラスによって取り扱い方が違ったりすることが見えてくるかもしれません。担任任せにしていて、まったく人権学習を行っていないということもあり得ない話ではありません。全市での調査の必要性を感じます。
今は多様性の時代だから、子どもたちに任せておけば大丈夫…、ではなくて、多様性の現状を入り口にしながら、新旧様々な人権問題について出会い、考えさせることが教育の役割です。その上で大切なことは、大人から子どもに「教える」だけではなく、大人が子どもたちの姿から学ぶ場面も多くあるのが人権学習であるので、「共に学ぶ・考える」姿勢を、多くの教員がもつことです。
(3)時代の変化に応じた取り組みを
京都市の教育はここ数年、これまで教育現場を支えてきた豊富な経験と指導力を兼ね備えた先生方が退職する世代交代を経てきました。京都市の「一人一人の子どもを徹底的に大切にする」という教育理念のもと、様々な事柄を次世代に引き継いでいく必要があるとされる一方で、近年、目まぐるしく移り変わる社会情勢の中、これまでの教育現場で「当たり前」とされてきた教育活動を見直していかなければなりません。中人研は、時代の変化に応じた同和教育、また、グローバルな視点での人権教育について考えていく機会を、広く提供する組織であることを目指します。
(4)教育現場における人権教育の位置づけ
中人研では、「人権教育を学校教育の根幹に据え直す」という目標のもと、活動しています。この目標を掲げる背景には、「かつて人権教育が学校の根幹であった」ことを意味しているのです。
京都市教育委員会発行の「学校における人権教育をすすめるにあたって」の冒頭では、人権という概念は人類が長きにわたり努力し獲得した成果であり、人間が生み出した数多くのものの中でも普遍的で全ての人に保障されるべきものであると定義されています。ひいては、学校教育における教育活動すべてに関わる最も重要な考えであり、子どもの育成のためには欠かすことのできない重要な要素であるといえます。このことが京都市の学校教育目標とも深くつながるのであり、この数年間でコロナ禍やGIGA端末による学習という急激な変化を経てきたからこそ、人権という概念は、根本的で揺るがない指針として堅持されなければならないのです。
様々な価値観や考え方が大切にされる時代になったことで、数十年にわたって守られてきた校則が改正されたり、「多様な性」のあり方への配慮が進んだりしていることは、社会の必然と考えます。教職を担う人材が不足していることもあいまって、教職員の長時間労働、時間外勤務が問題視され、「働き方改革」「部活動の地域展開」が推進され、学校現場は目まぐるしく変化しています。年度初めの定例の家庭訪問を、必須としなくなった学校も多いと聞きます。そして、冒頭にも述べましたが、現在、多くの学校で世代交代が進んでいます。
混沌とも言える変化の時代において懸念されるのは、人権教育に対する見方、考え方、そして熱量が継承されなくなることです。もちろん、時代に応じて変化していく柔軟さとバランスはとても大切なものですが、先輩の先生方が積み重ねてこられた実践や考え方、生徒との関わり方、保護者との信頼関係の築き方などは、一朝一夕では身に付きません。生徒や保護者との関係づくりの際に先輩方が持ち合わせている人権感覚は、普遍的なものとして継承していく必要があります。そのことが、子どもに寄り添い、一人一人を徹底的に大切にする教育の実践につながると考えています。
おわりに
「サラリーマン川柳」という言葉を聞いたことがありますか。これは毎年第一生命保険が行っている応募企画です。実は一昨年、コンクールの名称を「サラっと一句! わたしの川柳コンクール」に改名しました。「サラリーマン」という言葉は、男性のイメージが強すぎるのではないか、そんな声が、主催する第一生命保険の社内で出たことがきっかけだそうです。まさに「アンコンシャスバイアス」です。その「サラ川」の昨年の1位は「AIの 使い方聞く AIに」でした。まさにAIの時代となりました。皆さんはもうすでにAIを使って仕事をされているでしょうか。これからの社会に必要不可欠の情報技術。様々な文章やポスター、企画書など全てAIがしてくれることでしょう。「人がいやな気持ちにならない文章で」や「人権の視点を大切にして」などの注文を入れると、きっと無難な文章になることでしょう。今はまだAI技術も過渡期にありますが、発展は目まぐるしい状況です。
しかし、人にしかできないことはたくさんあります。また、人として人がすべきこともあります。子育てや教育はまさに人が人を育てなくてはいけません。昔から「人と自然の共存」はどうあるべきか考えられてきました。今は「子どもとAIの共存」などAIとの付き合い方について考えていかなければなりません。人間がAIに頼ってしまう世の中になったら、まったく考えなくなるのではないか、人間がAIにすべてを任せてしまう社会になってしまうのではないか、など心配は尽きません。ただ、学力はAIでフォローできますが、自立した人権意識は人間社会でしか育めません。
「はじめに」で述べたように、差別や偏見を見抜ける子どもたちに育てていくことは私たちの使命です。AIは情報は与えてくれますが、人を育ててはくれません。これまで人権感覚が豊かな子どもに育てるために、様々な取り組みをおこなってきました。その取り組みの中で、人との出会い、人の生き方から学ぶ、歴史から学ぶ 等を大切にしてきました。そして何より、大人がモデルとなり、子どもに背中を見せることで、鋭い人権感覚を身につけられるようにしてきました。これまで大切にしてきたことを継承しながら、現代に合った教育をしていく必要があります。
人にしかできない子育て、教育はどうあるべきか、鋭い人権感覚を身につけ、差別や偏見を見抜ける子どもたちに育てるにはどうしたらよいのか、皆さんと議論を深めていければと思います。
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