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第57回人権交流京都市研究集会
●講演●
上杉 聡 (元大阪市立大学 教授/じんけんSCHOLA 共同代表)
司会進行:北村 要(京都市協)
記 録 :筒井 絋平(京都市協)
【講演要旨】
日本において仏典が与えた影響について講演をしなければいけないのではないかと思いインドのマヌ法典から始まる慣習的要因について部落の歴史を話します。仏教が日本に部落差別を伝えるほど悪質なものなのかと言えば結果として仏典が日本の社会に影響を与えたことは否めない。しかし同時にそれを克服しようという動きが仏教徒の中からも出てきている。
法然、日蓮、親鸞は
まさにそうです。そういう面もある仏教がなぜ差別の影響に与えたのかはマヌ法典まで遡るしかないということで講演をします。
部落差別が明らかに生まれるのは11世紀以降の話です。それ以前から部落差別的なものが生まれているとそれは仏典によって膨大な情報がインドにはこういうチャンダーラと呼ばれる人たちに対する差別が存在していて、それを中国が学び、そして仏典に取り入れて日本に伝えている。日本にとっては見本とすべき、世界の文明の中でこういう差別があるということで権力的に暮らし差別を作るというよりは自然な形で入ってくる。
マヌ法典というのは、紀元前200年から200年の間に編さんされたインドのヒンドゥー教の経典をいっています。インドの差別思想であるバラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラというカーストについては、「1・31 [かのブラフマンは]諸世界の繁栄のために、[彼の]口、腕、腿および足から、[それぞれに]ブラーフマナ、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラを生じさせた。」との記述がある。このような神話的に書かれている。それに加えて雑種身分が存在している。これは現在も存在しており、ダリッドなどと呼ばれている。その人たちはインドでは16パーセントくらいと言われている。日本での被差別部落の人口は2パーセント未満でありその意味ではインドにある差別問題はものすごく巨大です。この雑種身分についてきちんと取り上げたいと思います。この雑種身分が日本の部落と類似する点は正規の身分ではないというです。さきほどの4身分というのは神話のなかにも名前は出てくるため存在が正式に認められている。ところが雑種身分の人たちについては、存在も正式に認められていない。しかし差別だけがあるという意味では社会の下ではなく、外であると、意識の外に置かれている。
マヌ法典のなかには、食事の規制として、大蒜・韮・玉葱・茸などの摂取禁止が書かれている。また、獣、鶏、魚も食べてはいけない、避けるべしといいうが書かれている。また、動物愛護の精神から禁止していると読めることからもある意味では文明的である。そういうことがヒンドゥー教によって提起されているこということが重要です。仏教の精進料理も動物をいたわるという側面から私たちはこの教えを尊敬して受け入れてきたという側面があるのではないでしょうか。しかし、この教えが仏教の教えではなくヒンドゥー教の教えであるとしたら、ヒンドゥー教が4身分という差別的な思想を持っているものに問題がないのかという観点も必要であると思います。
マヌ法典の第10章に「雑種身分と生業」として書かれている。「10・51 チャンダーラおよびシュヴァチャの住みかは村の外である。」とある。チャンダーラは中国語では、旃陀羅と呼ばれ仏典のなかにも登場している。シュヴァパチャというのは異常な者たちと訳されているが雑種身分であるというようにマヌ法典ではまとめられ「住みかは村の外」であるとされている。それでは日本の部落差別とはどうかというと「「10・52死人の衣服を衣服とし、」とある。死人の衣服を自分の衣服にするということは今はないけれど京都の非人の人たちは死人の衣服を取って着ていた。また、「壊れた食器で食事し」という記述もあります。江戸時代の幕府が大名行列をする際に部落の人を使ったときがあります。そのとき食事を与えないといけないときに割れた食器で食事をさせたという記録があります。「10・53」には結婚は同等の者となされるべきであるという結婚差別の記述がなされている。これは部落差別とも同じですね。「10・54」には、「彼らは村であれ町であれ、夜に歩き回ってはならない。」とあります。夜に部落の人は入ってきてはいけないというのは京都でもありましたし、全国的にもありました。「10・55」には、「彼らは、昼間、王の勅令による目印をつけて仕事のために歩いてよい。」つまり、昼間に入ってくるときは印をつけて分かるように入ってこいということです。岡山の部落で渋染めや藍染めの色を部落の人に着させたということがこれですね。それから後半部分には「彼らは親族を持たない者の死体を運ぶべし。これが確立した決まりである。」例えば、江戸時代に救急車のない時代にパタンと倒れた人がいた場合、非人の人たちが呼ばれて運びに来ます。そして、彼らを手当てして回復すれば自分の故郷に帰るわけですが、もし死んだ場合には、非人の人たちが担架に乗せて寺まで送ってそこで焼いたり穴に埋めたりしていたわけです。もうひとつ、「10・56 彼らは、常に、王の命令があるとき、殺すべし人間を規定書に従って殺すべし。そして、殺される人間の衣服、寝台、装身具を取得してよい。」とあります。京都で死刑を執行するのは誰でしょうか。あるいは全国で死刑を執行するのは誰でしたか。穢多非人ですよね。これがここに出てくるんですね。京都で始められる遙か昔から紀元前200年くらいからこういうことが行なわれていたんです。それが仏典にも書いてあります。チャンダーラが処刑をするということが仏典のなかになんとも残虐な殺し方をする人たちとして出てきます。この雑種身分の生活の有り様が書かれている箇所からも日本の部落差別といかに似ているということを示しています。
居住地における差別については、927年の延喜式にある下鴨神社に関する記述でも穢多や非人が住むところが排除されているのが分かります。大阪の渡辺村は村が町の外にあり堀で割られて隔離されている。そして、道路もついていなかった。江戸の部落では、弾左衛門の住んでいるところの周りが堀で分けられてその周りが全部、お寺になっており、お寺には死者がでます。その死者の向こう側に置かれているのが弾左衛門の屋敷であるという構造になっている。
食事での差別についても見ていきましょう。田中正造と被差別部落のかかわりとして回想集のなかで「田中正造、穢多を愛す。」と書いてあります。田中正造は濡れ衣を着せられ獄中に入っていたのですがおそらくその獄中で牢番の役をやっている部落の人と付き合いを持ち部落問題に目覚めてくるのだと思います。出獄後に郷里に帰り農事を行ないます。その際、夏の麦狩りに穢多を雇ったんですね。雇い人を家にあげ、労を慰めるために酒を与えていたら、正造の行為を賤しみて、正造自身も穢多のごとく湯茶を飲ませることを忌みて不便に置かれてとあります。この同じ器で食べたり飲んだりするとどうなるかというと具体的には穢れがうつるわけです。ですから正造も穢れるということです。
死者のことについては、「感身学正記」という1275年に書かれた非人の人たちに掟を与えて秩序だって物乞いなどをするようにといったことを書いた規則のなかに「一、諸人葬送の時、山野に随身せしむる所の、具足は罷り取ると雖も、其の物無しと号し、葬家に群臨して、不足を責め申すの事、停止せしむべし。」とあります。つまり、死者が出るとそこを追いかけていってその衣服をとるんです。彼らは非常に貧しいためお墓に捨てられた衣服をとってしか生活ができないということです。そういうことは、貧民には許されるんです。死者の衣服をとってもよいとそれが彼らがお墓を守るときの賃金の代わりにもなっていたということです。そういうことでもマヌ法典に従って行なわれているということです。
後半部分ではマヌ法典の内容がどのようにして日本へと伝わったのかについて、話していきます。マヌ法典は直接日本に伝わったのではなく、仏典を通じて全て伝わってきたと言うことです。それは仏教の本当の教えはかなり違うらしいのではないかということが史料によって分かります。「スッタニパータ」という原始仏教の記録では「生まれによって賤しい人となるのではない。」とあります。そのため、4身分を4つの出生によって分けることも雑種賎民という形も含めてあり得ないというのが本来の仏教の立場であろうと思います。それがなぜ変わったのかというとインドの宗教人口比率を見ると仏教教徒は0.7パーセントでヒンドゥー教徒が80パーセントということである程度、彼らも妥協しなければならなかったという現実があったと思います。マヌ法典に書かれた内容が仏典のそのままに書いている箇所が出てきます。
次に日本で差別的政策を開始する前提として「殺生戒」が権力的に醸成されていった。ここに慣習・宗教的な文化と権力との深いつながりが出てくる訳です。日本の社会で動物を殺してはいけないという布告が権力から繰り返し出ている訳です。「殺生戒」の具体化を日本の国家では法律的に行なわれてきたわけです。これが「殺生戒」を起こした悪人であるというような認識の土台が権力的、文化的に作られた文明の輸入が行なわれてきました。部落の人たちが動物を殺すこを厭わない人間であるということはこの文化の輸入によって行なわれてきたということが背景にあったと考えるべきであろうということです。
部落差別が具体的に発生するのは900年から1000年くらいのあたりです。仏教の尊い教えとして「殺生戒」を政治の中に組み込んでいっているわけです。それを受けて具体的にどのように始まったのかということを確認したいと思います。927年の延喜式に動物を殺す屠者を下鴨神社の境内の南側から追放したという記録があります。ここには濫僧という後に非人となるような物乞いをしてお墓から死者の衣類を取って着ているような人たちも住んでいた。その人が追放されたという点では天皇家の氏神である下鴨神社から出て行けという国家的な差別が当時の屠者濫僧に対して具体的に発動されたということで政治的に追放という形になっていたということで部落の起源であるというように唱える中世の研究者が少なからずいます。部落も世間から排除されていますが、下鴨神社から排除された人たちがどこかにまとまって住むはずで、いずれ部落がまとまって住むようになるのが本当の意味での部落での起源だと思います。下鴨神社の近くにある穢多村になるような集住がいつからはじまったのかというと。1015年の小右記に「北辺大路に汚穢の甚だ多しといえり。」と一条大路に捨てられている動物や人間の死体が捨てられているのを清掃しなさいということが検非違使に命じられています。「また禊の日より祭日まで汚穢の物置かしむべからずの事、」とあります。これは、葵祭のことです。葵祭の冒頭の行事で天皇の未婚の娘さんが一条通を行列して鴨川で禊ぎをするのが葵祭の出発です。その後、天皇がここを歩くというのが葵祭の全体の行事になります。そうなると葵祭で清掃する人がどこに住むかと考えた時の場所ですね。また1016年の左経記に藤原道長の屋敷で行なわれたことがかいてあるものの中に突如として苦労して飼っていた牛が倒れ死んだ時に河原人を迎え、その牛の皮を剥ぎ取り腸の中から黒い玉である牛黄を取り出したという記述があります。そういう記述などから私は集住し始め部落の発生は1015年あたりだという説を立てました。また森幸安が1650年くらいに作った地図に穢多の始まりになるという表記が見られます。「中昔京師地図」の原図は応仁の乱の始まりである1467年でした。ですから私が申し上げた時代からはじまっていてもおかしくはないのかと思います。
日本における部落差別が文化的なところから始まっているとしたら京都でいうなら精進料理の遡ると思います。私達が「殺生戒」というのを捉えるのかを考え直すべきだと思います。命を奪わないでは居られない存在だから少なくする努力をするべきというならば受け入れるべきだと思います。それをやったら仏の教えに反して死んだら地獄に行くなんて無茶なことを仏や大仏が仰るわけはないと思っています。部落が怖いと言ってられるのは自分が怖い存在であるということを忘れていることでもありそういう意味でも部落差別の克服について考えなければならないと思います。
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