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第54回人権交流京都市研究集会

  分科会

部落と人権

  〜残りつづける差別を断ち切るためには、

どうすればよいか?〜

 

                      会場 ロームシアター/サウスホール  

           

 

基調講演

 

藤尾まさよ(崇仁発信実行委員会代表)

 

  ●パネルディスカッション  吉田 拓人さん(小同研)

                松比良 菜々さん(中人研)

                藤尾 まさよさん(崇仁発信実行委員会代表)

       コーディネーター 弓削 雅哉さん(中人権)

 

  

 

 

分科会責任者 稲垣 知裕(京都市小学校同和教育研究会)

   分科会庶務  弓削 雅哉(京都市中学校教育研究会人権教育部会)

 

  第1分科会の流れと基調講演のおもな内容

  第1分科会は、「残りつづける差別を断ち切るためには、どうすればよいか?」が主題。前半を崇仁発信実行委員会代表の藤尾まさよさんから「このまちが好きだから〜被差別の歴史を持つ地域に生まれて〜」と題して講演頂いた。後半は藤尾さんと小同研の吉田拓人さん、中人研の松比良菜々さんのパネルディスカッションを中人研の弓削雅哉さんのコーディネートで行われた。

  藤尾さんの講演は御礼から始まった。出身を隠し、地域の外で過ごしてきた藤尾さんに自身の経験を話すことが人権学習になると勧められた木下正敏先生。小学校の担任で、どんな時も関わりを続けてくださった中村靖先生。また、活動の良き理解者、崇仁地域の自治連合会の菱田二三夫さん。京都教育大学で教員を目指す学生に話す機会を頂けた伊藤悦子先生。部落問題の人権学習を47歳で初めて学ばせてくれた坂田良久先生。他にも多くの方にお礼を述べられて本題に移られた。  

まず、人権学習は「幸せの学習。幸せになるために必要な学習」と言われた。人権学習をする前の自分は、人権学習をする必要はないと思っていた。なぜなら、自身が被差別地域の生まれで「差別される側」なので「私は差別をしない」。だから人権学習は必要ないと思っていた。しかし、人権学習を進めるうち、差別される人でも差別することはあるのだと知る。人権学習は正しい情報や間違っている情報を正しく「学ぶ」こと。その学びをもって、自分を振り返ること。自分の中にある間違いに気づくことができ、気づくことができたからこそ、その間違いを修正できるようになれた。そうすると、「自分は自分として生きたらいいんだ」と考えられるようになり、その行動をとることができるようになった。それが分かってきたら、今度は周りの人が見えるようになり、周りの人のことを考えられる行動をとれるようになっていき、少しずつ周りと「関わりを持とう」と思えるようになっていった。「自分が自分として幸せに生きるために」「人が人として幸せに生きるために」「誰もが幸せに生きるために」人権学習は誰もが幸せに生きるために、必要な学びであると話された。

藤尾さんの活動のきっかけは、たった15歳の子どもが口にした「どんなに頑張っても、あかんねや」という言葉だ。この言葉は、皆山中学校の卒業生が高校生に入学した時に「出身校が差別される」という差別事象が起こり、それを聞いた在校生の言葉である。この差別事象に対して、教育委員会、学校、地域、PTA保護者で話し合いが行われた。しかし、会議が進むにつれて、「差別発言をした生徒をどうするのか」と、生徒個人の責任を問う話になって行くことに藤尾さんは納得できず「差別発言をした生徒も被害者です。」と言った。その生徒の周りには偏見に満ちた大人の考えが日常の中にあり、差別発言をした生徒はそういう偏見の考えをもつ大人の中で育ってきた。この生徒の学校では人権学習を行っていなかったため、学校で正しい知識を習得する機会がなかった。人権学習を行っていれば、この生徒は、「これは部落差別という間違った考えだ」と気づくことができたかも知れないのに、学校できちんと正しい知識を学べなかったこの生徒は教育の機会を奪われた被害者であるし、また差別発言を受けた生徒もその被害者であると発言する。

  藤尾さんは崇仁地域で生まれ育った。かつての崇仁地域には個人商店が多くあり、生活に必要な全てのものが町内の中だけで揃った。一見とても便利そうに見えるが、見えるその奥を考えると、そこには、地域の外での就職が困難であったため、生活していくために自分でお店を立ち上げなければならなかった就職差別の実態がその風景をつくってきたのだと分かる。藤尾さんが通っていた約60年前の崇仁小学校は児童数800人ほど。しかし児童がどんどん減り統合の話が出るが立ち消えし、実際に統合されたのは2010年。児童数は49人にまで減っての統合であった。今からまだ10年ほど前でも、まだ同和地区との統合に難色を示す人がいた実態がある。

次に藤尾さんの体験談からご両親の話をされた。両親は小学校を少ししか行っていないため、字はあまり書けなかった。両親は日雇いの仕事をしていた。父親は仕事をもらうために朝早くから出て行くが仕事がない日もあって、そんな日は食事もできないこともあった。ある時から水道の配管の仕事を覚え、家でも一生懸命練習をした。腕が良いと評判になり、いろいろな工事現場から依頼がくるようになった。父親はとても喜んで、当時高価だった電話を自宅に引いた。藤尾さんとお姉さんが学校から帰ってきたら、家に電話があって子どもたちは大喜び。子どもの喜ぶ姿を嬉しそうに見ながら、電話の所に父親は誇らしげに座っていた。その電話の横の壁に大きなカレンダーが貼ってあった。水道配管の仕事依頼があったのだろう。そのカレンダーに「すいろう」と書いてあった。学校に通い文字を学んでいる藤尾さんたち子どもは、「すいどう」ときちんと書けない父を馬鹿にした。その頃は父親のメモなどをわざわざ探しては、字をきちんと書けない父親を馬鹿にした。藤尾さんがもう少し大きくなったある日、父親が体調が悪そうで痩せているので「病院へ行きや」と声をかけた。しかし父親は、なかなか病院は行こうとしなかった。かなり痩せているので病院に無理に引張って行った時にはもうガンの末期ですぐに亡くなった。今の病院はカードを1回つくれば後は何も書かなくても受診できる。しかし当時は、病院に行くたびに住所を書かなければならない。父親は名前は書けるが住所が漢字で書けない。それで病院に行きたがらなかったのだということは、人権学習をしてから気づいた。当時は、両親が字を書けないのは、学校に行かなかった自分たちの責任だと思っていた。しかし、人権の学習をしてから学校に行きたくても行けない人がいることに気づく。文字を書けないことを、自分の子どもから馬鹿にされた経験は、他人に字が書けないと言い難くさせた。藤尾さんは言う「私が文字を書けないことをバカにしたことで、病気になったら病院に行くという当たり前の生活を父親から奪ってしまった。それは結局、長い時間をかけて父の命を奪う事になった。」冗談と称して人を嘲ること、「知らない。」ということは、人に残酷なことをさせる。「知ろうとしない」ということは、そうゆう風に差別している、残酷なことをしている自分にも気づけないということ。人権学習でこのことに気づけて良かった。今は、父を馬鹿にした自分を恥じることができていると話された。

次に藤尾さん自身の体験を話された。小学校の頃には差別があるなんて考えもしなかった。中学の時に自分の地域を差別する考えを自分の中に入れられてしまったと思うエピソード。中学校は3つの小学校から生徒が通って、地域内外の生徒が一緒に学ぶ。1年の夏休み頃、地域の外の子が3人遊びに来てくれることになり、崇仁の友だちも含めて6人で藤尾さんの家で遊ぶことになった。前日にそのことを親に言っておいたら、親は働きに出る時に、たくさんの小遣いを用意してくれた。外の子が来るときに、自分の子どもが恥をかかないようにとお金をたくさん用意してくれたのだろう。そのお金でみんなに贅沢なおやつを振舞った。しかし、地域の外から来たひとりの子はおやつにも飲み物にも手をつけなかった。子どもたちがワイワイ話している時に、崇仁地域のお店の人たちが並ぶ朝市が話題に上がった。そのときに崇仁に初めて来たはずの、何も食べなかったその子が「それは泥棒市場って言うんや。その人たちはみんな泥棒や。」と教えてくれた。藤尾さんたち崇仁の子どもたちはお店の人たちと馴染みで普段から良くしてもらっていた。しかし、その子がそんな風に「みんな泥棒だ」と言うので、正しい知識のない藤尾さんたちはそれを信じてしまう。それ以降、自分の地域が恥ずかしい気持ちになってしまった。地域の人から声をかけられても無視するようになった。

中学を出て高校に入学。藤尾さんの二人の姉は中学校を卒業して就職したが、藤尾さんの時は同和施策による奨学金があり、中学校の先生が親を説得してくれたので、高校に進学することができた。しかし、高校では自分の地域を言い辛く質問されることも避ける、そんな居づらい高校生活だった。

高校卒業後、デパートに就職。高校を出ているので正社員で採用された。職場では同僚にも恵まれ、毎月自分の通帳に給料が入る安定した生活はとても充実して楽しかった。しかし、ある時に職場の隣りの売り場に来た上司に、レジのお金が合わないと調べるように言われた。レジは社員が担当する。しかし、別の人が担当していても合わない時に確認させられ、まるで自分が盗ったように思われているようで苦痛になっていった。同僚がその上司に理由を聞くと「あそこの者やから、何をするか分からん」と差別発言をする。それを聞いて納得はしないが、人権学習をしていない当時はそれが差別であるとの認識もないので、「その出身やから差別されるのは仕方ない」と思うだけだった。職場には職員が多くいて、差別発言をするのはその上司たったひとりだけだったけれど、そのひとりの差別を誰も止めなかったことに孤独を感じた。せっかく就職したが仕事をやめた。その後、しばらく家から出られなくなった。友人が根気よく外出に誘ってくれたおかげで、少しずつ家から出られるようになり少しずつ回復した。その後、自宅から遠いデパートにアルバイトとして勤める。その頃には自分の生まれた地域を出て、自分のことを誰も知らないところで部屋を借りて暮らすことにした。新しい職場では自分の出身は絶対に言わず、出身を聞かれたら、当時住んでいた住所を教えた。真面目に働き給料が増えると、転居を繰り返し服などは全てブランド物で身を固めた。高い服を身に着けていると、自分が高級な人間になったような気持ちになっていた。

30歳の時、中学3年生から交際していた相手と別れる。部落差別の結婚差別は地域の外と中の人の間で起こることが多いが、藤尾さんの場合は同じ地域同士だった。交際相手の家族は、自分の息子には、地域の外から嫁さんをもらって、地域外に住むことで、息子が部落差別にあわないようにと考えていたので、藤尾さんとの結婚は反対していた。結局、その後、交際相手は地域外の人と結婚する。藤尾さんは、そのことを承諾したが、長く故郷も家族も自分も捨てる生活してきた、その生活の唯一の理解者で支えだった交際相手も失い、自らの命を絶つところまで追いつめられていった。一命はとりとめ、仕事に復帰するが息をしているだけのような生活が続く。それでも、自分を好いてくれる相手ができ結婚。子どもを一人授かるが離婚してずっと逃げていた崇仁地域に戻る。子どもを育てるために昼はヘルパー、夜は祇園のスナックで働いた。小金を一生懸命貯めて自分の店を持った。

あるとき、前に働いていた店主から、「自分の店は同和の店で、通っているとひどい目に遭う」という話を広められた。実際に足が遠のく客もいた。本当なら、その相手に談判に行くべきだが、部落差別から逃げてきた、考えることからも逃げて来たので、何をどのようにしたらよいのか分からなくて泣くことしかできなかった。差別されたことには腹が立つのだが、それでも何もできず、ただ泣き続けるしかなかった。そんな自分に腹が立ち物に当たる。その自分の姿にまた腹が立ち、今度は同居していた両親に、この地域に産んだことを責めた。ずっとイライラしていて幼い子どもにも怒鳴り続けた。知識を持たないとは何の解決策も持てないということ。差別をされた苦しさが解決できなくて、何カ月も自分より力の弱い家族を責めた。ある日、子どもが「お母さんが笑わへんようになった。」と泣いた。子どもの涙を見てはじめて「泣いてる場合じゃない!」と気づいた。そして、それから少しずつ部落問題について勉強を始める。しかし、ひとりでの学びは進まなかった。本当にきちんと学べるのはこの数年後の皆山中学校PTAで皆と一緒に学び出してからになる。

(ヘイトのピラミッドの図)人権学習を受けた今、思うことは、小さい時に私の中に入れられてしまった差別や偏見の種は身体の成長と共に大きくなり、自分で自分の地域や自分を差別し、自らの命を奪うまでになってしまったのだと知ることができた。もし、このどこかで人権学習を受けることができていれば、自分が何をしているのかに気づくことができて、それ以上登らなかったと思う。この社会の情報は私たちが生み出している。自分が部落差別を考えることから逃げるということは、部落差別を考えることから逃げる社会を作っていることと同じ。私たちはそのことを理解して、自分の中に入れられているものを見なおし、取り出してより良く改善して発信していく必要がある。人はいつからでも変われる。今までは「部落だから〜」といろいろなことを諦めてきたけれど、何も諦めることなんてなかった。今は「私の考えは、自分も周りも幸せにしているか?私の行動は誰かの一歩踏み出す力を奪っていないだろうか?」と考えられるようになった。

初めにお話した、皆山中学校の生徒が「どんなに頑張ってもあかんねや」と自分の人生を捨てる発言をしましたが、その後の話をします。この後、皆山中学校の教職員は、「100%生徒を愛する」を合言葉に、生徒たちがその言葉を跳ね返せるように動いていかれた。生徒は「皆山中学校を日本一の学校にしたい」と言えるようになった。そんな生徒に背中を押される形でPTA保護者も動き出す。当時PTA保護者は部落問題についてほとんど知らなかった。部落問題をタブー視する考えが学びを避けて来たと気づく。「正しく知ろうとしないと言うことは、差別の考え方を子どもたちに教える行動を起こしていることと同じである。」と、人権学習を学ぶ意義もきちんと学ぶことができた。皆山中PTAが立ち上げた「PTA同和問題学習会」は統合する5つの中学校にも声をかけ、3年間で述べ400人の参加があるくらい大きくなっていった。また、別で立ち上げた皆山中PTSAP保護者 T教員 S生徒 A連携)に地域も参加し「皆山中PTSA」は校内だけなく統合5校にもみんなで一緒に考え動く活動を広げていく。この活動は他校や行政イベントにも広がっていく。

2015年に発足した崇仁発信実行委員会は、2011年の東日本大震災復興活動の経験が影響している。現地活動で、多くの苦しみや悲しみを抱えながらも立ちあがって行く方々の姿を経験し、人の強さを信じようと思えた。崇仁発信実行委員会は、部落差別問題を基礎から学ぶ講座や、実際に地域で動く体験を通した部落差別問題を学ぶ活動も行っている。2023年に移転開校する京都市立芸術大学の学生と共に地域の未来をデザインするプロジェクトも立ち上げた。学生たちと共に町を知る、人を知る、現状を知るフールドワークを行い、課題を考えて自らが動く活動を行っている。当会は、地域と学生をつなげる役割をしてきたが、現在は自から動き始める学生も出てきた。「視点の創生」として、いろんな人の視点を取り入れて新しい視点を生み出そうとしている。「新しい視点で見る、考える。それが人々の記憶になり、新しい歴史になっていく」私たちはこれからどのような歴史をつくるのか?

現在、心配なことは部落差別がネット内に増えていること。また、自殺者の約4分の1の人が言葉を発することなく命を落としていく。その人の言葉を閉ざさせてしまう社会になってしまっているのではないか?もっともっと人権を学ぶ場をつくり、共に考える場を持つことで、救える命があるのではないか?人権学習が幸せの学習と言うならば、「人権学習は命を奪わないための学習」でもある。誰もが自分の命を奪わないよう、また奪われないように、もっともっと人権を学ぶ場を作る必要がある。人として幸せに生きる歴史は、今を生きる私たちが考え、動くことで作られていく。これからの歴史は私たちが創るのだということを共に考えていきたいと話されて講演を終えられた。

 

後半のパネルディスカッションは、パネリストそれぞれの実践を踏まえ、自己紹介を含めて講演の感想、各校の啓発活動の様子、差別を断ち切るためにはどうすればよいかについて考えを述べるという流れで展開され、最後にフロアからの発言が求められた。

一人目のパネリスト小同研の吉田先生からは、直接話を聞かせてもらえること、正しく知ること、学ぶことを大切にしている。差別を断ち切るためには知ること、学び続けること、教育環境としての人を育てるためにも「交流」を続けていかないといけないと話された。若い教員に主体的に取り組んでもらうための工夫を藤尾さんの学生との関わり方に関連して質問があった。藤尾さんからは、大学が地域の真ん中に開校することは崇仁発信実行委員の立ち上げ時に知り、学生が安心して学べる環境づくりをするため連携を進めようと考えたと話された。ある日突然学校が建ち、住民は隅に追いやられたと考える人がいるとしたら、その不満は弱い立場の人にかかる場合がある。この場合、学生に向かって不満を晴らそうという考えがあると、困るのは学生たち。住民への説明だけでなく、ひとつの手法として住民に学生の活動する姿を見えるようにして学生に親近感が湧くようにして解決を図りたいと考えるとのこと。吉田先生からの質問で、人権学活の授業参観の参加者が少ない事に対しては、とにかく続けることが大事であること、保護者は生徒と同じ授業を受けると人権に対する興味が高まった事例を紹介された。

二人目のパネリスト中人研の松比良先生は、知ることの大切さ、人権学習を「幸せの学習」という考え方を教育現場でも活かしたいと話された。藤尾さんからは、人権学習は多様な生き方を知り、学ぶことでさまざまな方々とのつながりをつくることに一歩踏み出せる。人と人との心地よいつながりつくりを学べる幸せの学習。しかしそれだけではなく、実際に使える学習にしていかなければいけない。知識として知っているだけではなく、普段の生活の中で、気づいたり、行動できるようにアンテナを張れるように教えていくことが大事だと話された。

最後のフロアからの発言は2つあった。1つ目は、藤尾さんの経験にあった、子どもの進学に関心のない保護者に対してどのように関わりがあったのかについて、久世中学校の今河先生の質問。藤尾さんからは、親自身が小学校もほとんど行けない生き方をしてきたので、勉強する先に何があるかを想像することができなかったと思う。質問の子どもには、「勉強した人にしか見ることができない景色がある。それを見るために勉強してみないか?」と言ってあげてください。と答えられた。コーディネーターの弓削先生からは闘うことと学ぶことは攻撃を含むかどうかの違いはあるが、一緒に考えて歩み寄ることができるという意味で、本質的には同じであり、学び続けることの大切さを訴えられました。2つ目の加茂川中学校の大西先生からは、アウトプットすることが効果的ということを学んだ。人権学習は知ることと自分自身を大切にすることを大切にしていきたい。藤尾さんからも自分を大切にするということはもっとも基礎となることで大事にしてほしいと話された。以上をもって、分科会は終了となった。

 

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