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第41回人権交流京都市研究集会
2008年に「市民の同和行政への不信感一掃」の名のもとに行われた「京都市同和行政終結後の行政の在り方総点検委員会」がもたらしたものは、課題が山積する部落の現状に目をつむり、部落問題の解決から大きく後退させる状況を生み出していると言えます。 そのことをふまえ、本分科会では、152人の参加者が集う中、部落問題入門・啓発ということで、部落差別や同和行政・同和教育について正しく認識し、部落差別を解消するために何が必要かを考える場にできればと思い、「『部落差別と同和行政』−同和行政・同和教育は何故、必要だったのか−」をテーマに行いました。
1.「人間みな兄弟」 部落差別の実態について、「同和対策事業特別措置法」施行以前の部落の実態がどうであったのかをみるため、京都をはじめ関西の部落の実態が納められた1960年制作の亀井文夫監督によるドキュメンタリー映画「人間みな兄弟」を鑑賞しました。
2.同和行政・同和教育はなぜ必要だったのか NPO人権ネットワーク・ウエーブ21理事長 柳生雅巳さん 1871年に「穢多非人等ノ称被廃候条、自今身分職業共平民同様タルベキ事」という、いわゆる解放令が出されたが、それを保障する政策が何一つとられず、「職業共平民同様タルベキ事」という一文をもって、これまで部落民に許されていた皮革等の専業を政府が育成する資本などに奪われたため、部落は経済基盤を失いました。そこへ、免除されていた租税の負担や兵役・教育の義務も負わせられたため、困窮化の道を歩むことになりました。しかも、厳しい差別によって部落外に職を求めることすら容易にできなかったため、「就業はしていても、その就業が全く不規則な層」という、家内労働や日雇労働に就き、労働者の平均水準以下で生活する停滞的過剰人口として存在せざるを得ませんでした。そのような状態が、戦後まで続いてきた結果として、映像に納められた部落の劣悪な実態が拡大・再生産されてきたのです。まさしく、差別と貧困の連鎖が生み出したものなのです。 そして、このような部落の実態を背景にして、1951年に起こったオール・ロマンス差別事件を契機に、差別行政糾弾闘争が全国的に取り組まれ大きな成果を上げていく中で、1965年には「同和対策審議会答申」を、1969年には「同和対策事業特別措置法」を勝ち取ることができるなど、同和行政・同和教育が本格的に行われていきました。しかし、就職の機会均等のための施策や、それを保障するための教育についての施策が不十分なものでしかなく、また、「同和対策事業特別措置法」が10年の時限立法ということで、施行と同時に法律はもとより同和行政・同和教育が終焉にむかい今日の状況に至っていると言えます。
3.「京都市同和行政終結後の行政の在り方総点検委員会」の活動の差別性について 朝田教育財団評議員 井本武美さん 私は、京都にある大学へ進学して以降、部落解放運動に参画し、1960年頃に京都市の各部落をまわる活動を通して、先程、オール・ロマンスの話がでましたが、その後1961年頃に、1951年のオール・ロマンスに対してだした請願書とほとんど同じ地域の同じ要求を10年後にも、再び同じ要請を書いて京都市に出しました。この間、行政は、劣悪な実態を残していたのは差別であるということは認めたが、それを解決する予算を組まず行政課題にしようとしません。ここが部落問題の一番難しいところで、部落問題を考えることを無意識に停止するのです。だから、今回の打ち切りを巡っては、検討委員会の委員においても、部落問題はよく知らないが、検討委員会において諮問しようということです。だから目的は、はじめから同和行政を打ち切ること、言い換えれば同和対策事業として国庫補助がつかなくなった事業をすべて打ち切るということです。 このように、部落問題を知らない人たちが同委員会の委員の大半を占めていることこそ異常であるにもかかわらず、そのことが、同委員会報告書の基調である、部落や同和行政・同和教育に偏見や反感を持つ「市民的視点」を受け入れやすくしている要因でもあるのです。 また、「同和対策審議会答申」でも謳われている、「部落民が市民的権利のなかでも、就職の機会均等の権利を行政的に不完全にしか保障されていない、すなわち、部落民は、差別によって主要な生産関係から除外されていることである」という部落差別の本質に関わる問題について、検討委員会では触れていないばかりか、このことを抜きに社会意識としての差別観念をなくそうとする啓発を重視しており、人権という言葉に見られるように抽象化しているにすぎません。大事なことは、部落差別なら部落の生活など、具体的な真実をどうしていくかということです。
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