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第38回部落解放研究京都市集会

  第38回部落解放研究京都市集会基調

 

T 部落解放研究京都市集会の果たしてきた役割

 

  部落解放研究全国集会の発足から京都市研究集会へ

 

 1967(昭和42)年5月、大阪府高槻市において、「解放理論を部落大衆の手に」をスローガンに、部落解放研究第1回全国集会が開かれました。その研究集会には、全国各地の部落大衆はもとより、多くの労働者市民が集い、部落問題にとりくんでいる自治体関係者、および、教育関係者などから、各地の活動や実践の経過と成果が報告され、解放への道すじとその方法が熱心に話し合われました。その結果、部落大衆の要求と関係機関の要望とを結集し、その実現を迫る積極的な働きかけが強調されると共に、とりわけ政府および自治体に対し、同和対策審議会答申の完全実施を要求する国民運動をおこすことの重要性があらためて確認されました。

 そして全国各地の部落や地域で完全解放をめざす解放理論の学習が、いっそう積極的にすすめられ、部落解放運動、同和行政、同和教育の飛躍的な発展を期して、研究集会の参加者全員の総意として以下の「申し合わせ」がおこなわれました。

@ 部落解放研究活動は今日を出発として全国の各部落、各地域で大衆的基盤による地域研究活動をさらに組織的にすすめること。

A そのためには、いまいちど各部落のおかれている現実とそこにある解放への要求を明らかにし、それを各部落における共同研究によって「部落白書」「部落綱領」「解放綱領」としてまとめ、第2回全国集会には全国6千部落の「白書」「綱領」をもちよること。

B われわれ参加者全員が部落や地域にかえってこの部落解放活動の中核となって活動すること。とくに「同対審」答申完全実施要求国民運動第二段階のたたかいの実践と理論を発展させること。

C この部落解放研究の成果を体系的に理論化するため、組織的な理論活動をおしすすめること。その一つとしてこの10月中央本部が予定している部落解放研究討論集会に反映させること。

D それら研究活動、理論活動を全体としてふかめ、全国のものとするために中央理論誌「解放」(仮称)を早急に創刊する。

 第1回全国集会を契機として、「同対審」完全実施の国民運動と相まって、「同和対策事業特別措置法」が公布された1969(昭和44)年には、参会者1万人という部落解放研究史上かってない規模の研究集会がもたれるまでに至りました。そしてこの研究集会は、各地の部落解放運動、同和行政、同和教育の飛躍的な発展を勝ち取る原動力になりました。

 京都市においては、部落大衆の生活と差別の現実は一定したものではないが、差別の本質はただ一つであり、その本質を見失うことなく、積極的なとりくみを各分野ですすめるため、市内の各部落や地域での現実の問題をとりあげ、掘り下げることによって、差別の本質の理解を一層深め、明日への実践の礎とすることを目的に、1970(昭和45)年2月7日に第1回部落解放京都市研究集会(1972(昭和47)年の第3回から部落解放研究京都市集会に名称変更されている)が開催されました。分科会は、解放運動、解放行政、解放教育、部落問題認識が設けられ、部落解放同盟、行政関係者、小中学校教員、市民によって活動や実践の経過と成果が報告され、活発な論議が行われました。

 京都市研究集会は、1965(昭和40)年の同和対策審議会答申、1969(昭和44)年の同和対策事業特別措置法の制定を背景に、京都市における部落解放運動、同和行政、同和教育を推進するための理論と方策を確立するためにスタートしたのです。

 

2 京都市研究集会の成果と課題

 

 京都市研究集会は、京都市における部落解放運動、同和行政、同和教育に多大な影響と成果を与えてきました。

 部落解放運動は、部落や部落民に生起する不利益を部落差別との関連で整理し、要求闘争へと発展させることによって量的発展を勝ち取ってきました。また、行政や教育が部落の劣悪な環境や教育実態を放置することは差別の再生産につながり、差別行政、差別教育になっているという認識が深まり、同和行政、同和教育推進の原動力となりました。その結果、京都市内の部落の劣悪な環境や教育実態は大幅に改善されていくことになります。

 しかし一方で、課題を部落問題だけに特化する傾向に強く支配されてきたのも事実です。その背景には、具体的な課題として部落の劣悪な住環境や教育実態の早急な改善を行わねばならず、当初は止むを得ない面があったことは否めません。しかし部落問題だけを特化しては、本当の意味での部落問題が解決できないことは、部落解放運動が提起してきた「一人は万人のために、万人は一人のために」や「部落の解放なくして労働者の解放なし。労働者の解放なくして部落の解放なし」というスローガンが示しています。社会は様々な差別が重りあって存在しており、その起源や解決方法は違っても、社会の構成員はあらゆる差別問題解決に関わっていかねばならないし、その姿勢がなければ本質的な問題解決につながっていかないのは明白です。

 特に部落は社会の矛盾が集中的に表れており、その問題解決の方策は、部落から発信し同じ矛盾を抱える部落外の人たちの問題解決につながっていく可能性を強くもっていました。しかも部落解放運動には、1961(昭和36)年に高知県の長浜・原部落から始まった「教科書無償化」闘争が、部落だけでなく全ての子どもたちの教科書無償化を勝ち取ることができたという経験すらあるのです。しかし、その可能性への模索はほとんどなされず、本研究集会もその例外ではなかったことを厳しく反省せねばなりません。その上、京都市の同和施策や同和教育が属地属人主義をとっていたため、同じ部落民でありながら、部落に住んでいるかいないかで、施策を受けられる人と受けられない人とに分れてしまうという、部落問題を解決するための施策といいながら、施策を必要とする部落民全てに実施できないという矛盾すら生んできたのです。

 部落問題の普遍化より特化を選んだことにより、部落解放運動は多くの部落民を結集させることができましたし、行政や教育は安価で効率的な同和行政や同和教育を進めることができました。しかしそこでは、同じ問題を抱える層の分断と対立を生み、部落民の共同体意識を功利主義的な特権意識に変質させ、結果的には分割・分断支配の術中にはまるということになっていなかったかを厳しく総括しておく必要があります。

 

U 部落解放運動の成果と課題

 

1 部落解放運動のあゆみ(戦前)

 1918(大正7)年、日本は第一次大戦下の好景気にありましたが、インフレの進行により米価も上昇し、大米穀商や地主による投機的買い占め、売り惜しみが横行していたところに、シベリア出兵の方針がそれに拍車をかけたため、民衆生活は極端に逼迫しました。そのため、富山県魚津町の漁民の女性たちが起こした米の廉売を求める行動が全国に広がったのが米騒動です。米騒動には多くの民衆が参加しましたが、中でも極端に生活が圧迫していた部落民が多数参加しており、その事実に政府は危機感を強めました。そのため、全国の米騒動における検事処分者の一割、全国の米騒動における死刑判決者の全てが部落民で占めるという処罰を行い、米騒動を主導したのはあたかも部落民であるかのごとく装い、民衆を分断しようとしました。一方部落に対しては、融和的な施策がより強くとられるようになりました。

  しかし、部落民は米騒動によって、民衆の団結の強さを学びました。1922(大正11)年3月3日、京都岡崎公会堂で「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」と全国の部落民に呼びかけ、「長い間虐められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた吾等の為めの運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事実は、夫等のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されていた罰であったのだ」と融和運動を批判し、「そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえつて多くの兄弟を堕落させた事を想へば、批際吾等の中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集団運動を起こせるは、寧ろ必然である」と自主解放運動の必然性を掲げ、「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」と卑下することを跳ね返し、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と宣言して、全国水平社が結成されました。同年4月2日には京都府水平社が結成されています。

 全国水平社の闘いは、差別糾弾闘争を通して燎原の火のごとく全国に広がりました。その闘いは、労働運動や農民運動との共同闘争から、1926(大正15)年の福岡連隊差別事件や、1933(昭和8)年の高松差別裁判への糾弾闘争のように国家権力にまで及び、厳しい弾圧を受けながらも、勝利を勝ち取るというところまで高まりました。

 しかも1933(昭和8)年には、部落民の日常的な経済・生活要求を世話役活動で取り上げるという、戦後の運動につながる「部落委員会活動」も提起されました。

 しかし、戦局の悪化に伴い言論や結社の統制を強める国家権力が、1941(昭和16)年に「言論出版集会結社等臨時取締法」を施行し、全国水平社に解散届を出すよう求めたのに対して、全国水平社は解散届を出さず、翌年の1月20日に自然消滅しました。

 

2 部落解放運動のあゆみ(戦後)

 

  日本が敗戦を迎えた翌年の1946(昭和21)年に、部落解放全国委員会が結成されました。翌年には京都府連合会大会が開催され、京都府下での活動も再開されました。

 1948(昭和23)年に、参議院の副議長でもあった松本治一郎部落解放全国委員会中央委員長は天皇への拝謁の時、慣例となっていたカニが横に歩くようなやり方を拒否しました。その翌年、松本治一郎は公職追放の指定を受け、公職追放反対闘争が取り組まれます。また、1950(昭和25)年には、「部落解放国策要請」の方針が部落解放全国委員会で決定され、国策樹立への活動が開始されます。

 松本治一郎公職追放反対闘争の結果、ようやく追放が解除された1951(昭和26)年に、当時カストリ雑誌などといわれていた「オールロマンス」に、京都市の保健所に勤務する職員が書いた『特殊部落』という小説が掲載されました。その内容は、京都市の東七条部落を舞台に、部落を露悪的に描いたものでした。

 京都市長は、差別の責任を小説の作者である職員個人の問題とし、彼を罷免することによって事件を処理しようとしました。しかし、部落解放全国委員会京都府連合会は、市の行政が、部落が劣悪な状況にあるのを、部落なるがゆえに当然として放置しておくことは、行政の怠慢であり、そのことが部落差別を温存してきた差別行政であると厳しく指摘したのです。京都市長はその指摘を認め、京都市は以後、部落対策の総合計画の策定をはじめ、同和行政推進のための積極的施策を行うことになり、同和対策予算も大幅に増額されました。オールロマンス差別事件は、戦後の地方公共団体における同和行政推進の契機となり、部落解放運動が「行政闘争」に重点をおく第一歩となりました。

 そして部落解放運動が各地で活発に展開される中、1953(昭和28)年には京都田中子ども会が教科書の無償化を勝ち取り、それが市内に広まるなどの大きな成果を上げました。全国的な活動の高揚と成果をふまえ、1955(昭和30)年に開催された部落解放全国委員会第10回大会では、組織を活動家集団組織から大衆団体に変えることを目的に、名称を「部落解放同盟」と変更しました。

 大衆団体となった部落解放同盟は、1958(昭和33)年に、先生への勤務評定反対闘争で京都田中子ども会が同盟休校を行い、1960(昭和35)年には総労働対総資本の闘いといわれた三井三池闘争や、安保条約改定反対闘争を、労働者や学生、市民と共に闘うなど、共同闘争の輪を広めていきました。そして、1961(昭和36)年に闘われた、高知市長浜・原部落の教科書無償化闘争は、部落解放同盟の支部と教職員組合が中心になって闘い、憲法に書かれている義務教育無償の原則を実質化させ、部落に止まらず全ての義務教育に学ぶ子どもたちの教科書を無償化させるという多大な成果を生みました。

 1963(昭和38)年に、埼玉県狭山市で女子高校生誘拐殺人事件がおこり、石川一雄さんが逮捕されるという事件がおこりました。この事件は、部落差別に基づく冤罪事件であり、部落解放同盟は幅広い人たちと、狭山差別事件・裁判糾弾闘争として闘いを続けています。

 一方、部落解放国策樹立運動の成果として、1965(昭和40)年に「同和対策審議会答申」が出され、1969(昭和44)年には「同和対策事業特別措置法」が公布され、同和対策事業が全国的に推進されるようになりました。

 部落解放同盟京都市協議会は、1972(昭和47)年「雇用促進要求斗争要綱」を作成、『雇用促進委員会』を結成して、京都市に職員採用の窓口を部落解放同盟にも開放するよう闘いをはじめ、翌年には窓口を開放しました。

 1975(昭和50)年に「部落地名総鑑」が発覚し、部落解放同盟の糾弾闘争の中で、同じような図書が8種類あることを確認しました。しかも、2006(平成18)年には電子版が発覚しており、インターネット社会下で、不特定多数の人々に「部落地名総鑑」が広がる可能性が高まってきています。

 それらの闘いが進む中で、同和対策事業が環境改善だけに偏ったり、差別事件の多発に充分対応できていない現実が明らかになり、特別措置でなく部落問題を抜本的に解決していける法律が求められるようになりました。そこで、1985(昭和60)年に、部落問題の解決の重要性を明らかにする<宣言法的>部分、環境改善や仕事・教育等の改善を明らかにする<事業法的>部分、教育・文化・広報活動を通じて部落問題の正しい認識を確立するとともに人権意識の普及の必要性を明示する<教育・啓発法的>部分、部落差別身元調査や雇用関係における部落差別の法的規制と、被害者の効果的な救済のために人権委員会の設置を求めた<規制・救済法的>部分、審議会の設置と国および地方公共団体が部落問題の解決のための施策を推進するための行政機構を求めた<組織法的>部分の五つの部分から構成されている「部落解放基本法」の制定要求運動がはじまりました。一連の闘いは、1995(平成7)年に日本政府が国連の「人種差別撤廃条約」に批准・加入するという成果を生みました。

 その後、1996(平成8)年には「人権擁護施策推進法」が5年間の時限立法として制定され、その法律によって設置された「人権擁護推進審議会」が、1999(平成11)年に「今後の人権教育・啓発のあり方に関する答申」を出し、2000(平成12)年に「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」が議員提案立法として成立しました。2001(平成13)年には、人権擁護推進審議会から「今後の人権救済の在り方に関する答申」と「今後の人権擁護委員制度の在り方に関する答申」が出され、これらの答申を受け、2002(平成14)年に「人権擁護法案」が第154回通常国会に提出されました。

 これら人権に関する法律は、「部落解放基本法」制定要求運動のなかから実現、提案されてきました。その闘いをふまえた上で、「部落解放基本法」という名称にはこだわらず、部落問題を人権問題の本質からとらえなおすという視点、社会全体の問題、政治課題として取り組めるような視点で運動を進めるという方針で、「人権擁護法案」の問題点を抜本修正することを要求して闘いが進められましたが、この法案は2003(平成15)年の衆議院解散の際に廃案となりました。

 しかし、差別問題解決に対する社会の情勢は厳しくなる一方で、部落差別に限ってみても、ネット上の差別事件の悪質化と増加がみられ、不特定多数の人たちに差別が拡散されている他、京都でも発覚した戸籍の不正取得、根強い就職差別や結婚差別、多発する差別投書や差別落書き、解決困難な差別事件の他、今なお発覚する「部落地名総鑑」の中には電子版まで出てくるという状況があります。このような現実が横行しているにもかかわらず、現行法で被害者が救済されるのは、はなはだ困難な状態で放置されてる実態を打破すべく、2004(平成16)年に『人権侵害救済法(仮称)法案要綱』を作成し、『人権侵害救済法』の制定を求めた運動が展開されています。

 

3 京都市職員による不祥事の多発について

 2006(平成18)年は、大阪において部落解放同盟の支部幹部が逮捕された事に端を発して、多くの部落解放同盟員が摘発、逮捕される事件が各地に相次ぎました。京都市においても、京都市の主に現業職場で働く職員の不祥事が多数明らかになり、大きな問題となっています。

 京都市の現業職場は、歴史的に部落出身者が多く働く職場であり、部落解放同盟員も数多く働いています。また、不祥事を起こした職員の中には、部落出身者が多く占めており、中には部落解放同盟員も含まれています。このこと事態は大変残念な事であり、大いに反省すべきことでありますが、今回の不祥事が、「優先雇用」という耳慣れない造語を使ってまで、雇用のあり方に問題があったという京都市長の発言は容認できません。

 そもそも京都市には、職員採用に当たり競争試験と選考という二種類の方法があります。その違いは、「競争試験が受験者相互を競争関係におき、優劣を相互に争わせるものであるのに対し、選考は選考される者を相互の競争関係におかず、必要の都度個々に能力の有無を判定するものである点が異なる」(「地方公務員制度」 坂弘二著 学陽書房)といわれており、京都市における選考職種は、免許・資格職(学歴、経験、免許及び資格で選考)、特殊専門職(学歴、経歴、知能及び技能で選考)、技能労務職(知能、技能、経歴、免許及び資格で選考)、特別選考職(学歴、経歴、知能及び技能で選考)という四種類があります。多くの部落出身者は、技能労務職員として選考採用されてきました。

 京都市が部落解放同盟に選考採用の門戸を開いたのは、1973(昭和48)年からでした。そこに至るには、部落大衆の「安定した仕事につきたい」という願いを結集した闘いがありました。

 部落解放同盟京都市協議会は、1972(昭和47)年に「雇用促進要求斗争要綱」を作成します。そこには、『部落解放運動の成果として、「同対審答申」が出され「特別措置法」が制定された今日、同和施策は国および地方自治体の最重点施策であるといわれながら、現実には、そのもっとも基本となるべき、部落民に対する雇用の問題について「答申」および「特別措置法」の具体化については、無策であるといわざるをえない』と書かれており、教育の保障が不完全にしか保障されず、厳しい就職差別がありながら、自立の条件である就労に対して、当時の国および地方自治体が具体的な対策をとっていない事を指摘しています。そして、『京都市においても例外ではない。京都市は、革新市政の立場から、部落差別の本質を解決すべき雇用促進の問題については、革新市政らしい姿勢で「答申」および「特別措置法」具体化の方針を打ち出し、公正かつ適確な方法と形態で、部落民を雇用すべきである』として、その時代に行われていた京都市の雇用形態が、『決して、部落問題を前向きに解決するものではない。すなわち、行政執行者は、議会での自己に対する責任追及をのがれるために、議員と政治的取り引きをし、議員の選挙基盤を強める手段としての就職斡旋口をもうけたり、差別行政に対する部落大衆の怒りをおさえ、分裂を固定化するために、部落の大ボス、小ボスに就職斡旋口を作ることに終始している。このような、旧態依然とした不正常な雇用制度が、今日の問題をひきおこしている。たとえば、部落民としての自覚を高める行政効果とは逆に、ダミンをつくり、ヒロポン中毒、アルコール中毒者等がチェックできなかったり、雇用後の適正なる生活指導ができていないために、職場において種々の問題をかもしだしている。このことが、差別を拡大、助長、再生産しているのである』と厳しく批判しています。

 しかも、『 教育委員会や交通局が一般公募しているのは、一部の職種だけである。他はすべて一般公募していない。しかし、就職希望者の少ない、清掃局のごみ取り、肥汲みだけは隣保館に窓口を開き、公募している』実態を『これは差別行政の最たるものである』と断じています。その上で、『今日まで行われてきた個人的な就職斡旋ではなく、「雇用促進委員会」(仮称)なるものを組織し、仕事よこせの求職斗争を行う。この斗いの中で部落解放同盟が民主的討議を行い、指導的役割をはたすことである』と部落解放同盟の役割を位置づけ、『みずからの仕事よこせの斗争なしには、利己主義や個人的な義理・人情の段階にとどまり、派閥・人閥が部落に固定化される。ましてや、組織の拡大強化はおろか、組織の民主的運営すらおこなわれない』と部落解放同盟員が直接闘いに参加しない限り腐敗・堕落を防げない事を強調し、『我々は、就職した同盟員に、個人的な出世でなく、職場全体や職種そのものの労働条件や賃金等を改善し、社会的立場を高める労働組合運動のなかで積極的役割をはたす義務をあたえなければならない。このような労働組合運動と地域の解放運動との結合こそが、部落の完全解放をかちとる部落民としての自覚と労働者との連帯感が生まれてくるのである』として、『したがって、雇用促進要求斗争の目的の第一点は、仕事よこせの斗争と、学習活動を通して、部落民としての自覚をよびおこすことである。第二点は、解放同盟員としての自覚のもとに、職場での労働組合運動に参加し、解放運動と労働組合運動の有機的な結合と連帯をかちとることである』と雇用促進要求闘争の基本的態度を示しています。

 そして同年『雇用促進委員会』を結成して、京都市に対して、不適切な雇用形態を改め、部落解放同盟京都市協議会にも雇用の窓口を開くことを求めて闘い、翌年に選考採用の門戸が開かれるようになったのです。

 雇用促進要求闘争が始まる以前から、京都市の現業職場には数多くの部落出身者が働いていました。東和男氏は「現業労働と部落問題」(「同和行政の理論と実際」所収 部落問題研究所刊)という論文の中で、現業労働を、義務教育修了者の労働現場であり、労働災害が比較的多く、単純な労働を主としている職種であり、身分の低い位置におかれており、いずれの職種も生産性がうすいと定義付けし、『仕事も身分も底辺であるという労働者群が、今日の自治体の現業労働者であるといってもいいと思います』と説明しています。そして、『ごみ収集やくみ取り作業員はいうにおよばず、そのほかの現業職種をみましても、「人のいやがる仕事」というより「わが子もいやがる仕事」といいますか、職業上の差別をうけるような部門には、部落出身者以外の人は、働きたがらないという現実があります』と、京都市の現業職場には数多くの部落出身者が働かざるを得ない背景を述べています。そして、蔑視され過酷な労働条件と低賃金で働かせられる現業職場が、近代化を進めると、部落出身者が排除されていくことをも予測しています。

 このように京都市は、その現業職場に誰も働きたがらないということが原因で、必要な職員を部落から採用してきました。部落民も、学歴など差別の壁があるため、安定した収入を得るには京都市の現業職場に就職せざるを得ませんでした。そこへ、京都市に就労保障を求めて部落解放同盟が闘い、実現してきた結果として、部落には京都市職員がかなりの数を占めるようになりました。

 しかし、今回のような職員の不祥事問題が多発したのは、部落に責任をもつ部落解放同盟としてもきっちりと総括しておく必要があります。そのためにも、雇用促進闘争が、部落民自らの闘いとして出発しながら、いつのまにか幹部請負となり、かつて批判した部落ボスに幹部はならなかったか、「雇用促進要求斗争要綱」を手がかりとして点検していく必要があります。

 また、京都市の雇用者責任についても、厳しく問われなくてはなりません。どのような経過があろうと、京都市が職員として採用した限り、職員としての教育と指導責任は京都市にあります。職員として服務規則に違反した場合は指導し、指導に従わない場合は法規に照らして厳正な処分をする権限は、京都市にしかありません。それを棚上げにして、部落にだけ責任を求めるやり方は、まじめに働く職員を傷つけ、差別を助長するものではないでしょうか。

 

4 これからの解放運動

 

 部落解放運動や同和行政、同和教育の成果で部落は大きく変化し、部落民の生活も向上してきました。環境改善のため住宅地区改良事業を実施した部落の約8割を公営住宅が占めるようになり、京都市職員を中心に安定就労層も増え、高校進学率も高まりました。

 しかし反面、部落からの人口流出が加速し、1951(昭和26)年に7地区で16,692人あった人口が、2000(平成12)年には6,398人にまで減少してきました。しかも部落には、高齢者の人口比率が増加し、貧困者が増大してきています。

 その要因は4点ほど考えられます。

 1点目は、改良事業を進める際、改良住宅の建設戸数が少なく、改良住宅へ入居できなかった人は、地区外の公営住宅等へ移らなければならなかったという点です。

 2点目は、京都市は同和対策事業を、部落の中に住む部落出身者にだけ行うという、属地属人主義という行政手法をとってきましたが、その結果、原則的には改良住宅から出ていくことはできるけれど、新たに入るということができなくなったという点です。

 3点目は、京都市は就労対策として、京都市の現業職に部落民を積極的に採用してきましたが、その結果、地方公務員という経済的安定層が増え、それらの人たちが持ち家を求めて地区外へ転居しだした点です。

  4点目は、改良住宅の家賃値上げによって、特に応能応益家賃制度の導入が地区外転居を加速させているという点です。

 すなわち,改良事業に協力して地区外転居する人は別として、一定の経済的安定を得られた層が地区外転居するという傾向が近年特に強く表れていることが明らかになりました。結果的にみれば、地区改良事業を中心としたまちづくりで、大量に建設された改良住宅は現実的には通過住宅の役割を果たすこととなり、経済的安定層を流出させる構造ができあがっていたということになります。このままいけば、部落は高齢者と貧困者のまちとなり、「スラム」化していく危険性があります。その危険性を克服できる住民が主体となった新しいまちづくりが必要で、京都市内の各部落では、部落解放同盟やNPO団体がその模索をはじめています。

 また、持てる者には厚く、持たざる者には過酷な「構造改革」は、増税や社会保険料の増額、社会保障の低下や若年労働者の失業率の上昇など生活困難者を直撃し、生きる権利すら危ぶまれる状況になりつつあります。人間として生きる権利が、不当に圧迫されているのが差別であり、そのことが、最も集中的なかたちであらわれているのが部落であり、部落解放運動はそのことと果敢に闘ってきた歴史と伝統をもっています。

 格差社会がより強固になりつつある現実の中で、部落解放運動が勝ち取ってきた成果を、部落外の人たちにも広めるべき段階にきています。人権・福祉・環境を柱として闘ってきた部落解放運動は、周辺地域との連帯交流を推進し、共生のネットワークを構築し、部落解放運動の成果を普遍化していかねばなりません。 

 

V 京都市における同和行政の総括と展望(基本5施策を軸にして)

 

 京都市の同和対策は、米騒動の翌年である1919(大正8)年に、『居住状態、衛生状態、教育状態の不良悪風奇習等細部の密集地より生じる弊害尠少ではない、就中斯かる環境に無心に生育しつつある幼児を放擲して置く時には彼等が其の幣を踏襲するは自明の理である、この幣より救はんには彼らを託児所に収容し両親に代わって善良に保育するに如はない、且つ幼児を通じて父兄母姉の教化を為たし併せて託児所を中心として該地区の教化事業を行わん』(「京都市社会事業概要」1921(大正10)年)を目的として三条に託児所を開設したのにはじまります。以来、1945(昭和20)年まで、隣保館、浴場等の地区施設の新設、整備を行い、生活環境の改善に努め、隣保館事業にも着手してきました。また、1942(昭和17)年には、地方改善地区整理事業として、不良住宅の改良および道路の拡張を計画しましたが、戦時経済の影響により中断しました。

 戦後、京都市は全国に先駆けて同和行政を実施しようとします。1948(昭和23)年に「京都市隣保館条例」を施行するとともに、市長の諮問機関として「京都市同和問題協議会」を設置し「差別観念払拭について当面市が採るべき具体的方法如何」を諮問します。1949(昭和24)年に協議会は答申を出し、それを受けて1945(昭和25)年に京都市内の部落8地区を対象にした「京都市同和地区実態調査」と、同じく部落4地区を対象にした「京都市不良住宅実態調査」に着手します。

 1951(昭和26)年には、京都市職員によるオールロマンス差別事件が生起し、それを契機として1952(昭和27)年には「今後における同和施策運営要綱」を策定し、全庁的な執行体制が整備され、錦林地区ではじめて改良事業が着手されました。

 1969(昭和44)年に同和対策事業特別措置法が施行され、国は同和対策長期計画を策定しました。京都市では「今後における同和施策運営要綱」を基本指針としつつ、「環境改善」「教育の充実」「職業安定」「生活相談・指導」の基本4施策を定め、更に、「京都市同和対策長期計画(一次試案)」を策定しました。その後、同和対策事業特別措置法が延長された1979(昭和54)年には、同和行政をより総合的観点から実施するため、「京都市同和対策総合計画(案)」を策定し、従来の基本4施策に「市民啓発」を新しく加えました。

 1987(昭和62)年に「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」が施行されたのを受け、「同和問題の解決に向け、今後何が真に必要か」の視点から、「同和問題の解決に至るまでの普遍性を備えた京都市同和行政の基本的指針」として「同和問題の解決をめざす京都市総合計画(案)」が策定されました。

 1996(平成8)年に地域改善対策協議会は『特別対策は、事業の実施の緊急性に応じて講じられるものであり、状況が整えばできる限り早期に一般対策へ移行することになる。一方、教育、就労、産業等の面でなお存在している較差の背景には様々な要因があり、短期間で集中的に較差を解消することは困難とみられ、ある程度の時間をかけて粘り強く較差解消に努めるべきである』という認識を示し、『従来の対策を漫然と継続していたのでは同和問題の早期解決に至ることは困難で』あると指摘し、部落問題の解決に向けて一般対策を活用した同和行政を推進することを意見具申の中で提言しました。しかも、『同対審答申は、「部落差別が現存するかぎりこの行政は積極的に推進されなければならない」と指摘しており、特別対策の終了、すなわち一般対策への移行が、同和問題の早期解決を目指す取組みの放棄を意味するものでないことは言うまでもない。一般対策移行後は、従来にも増して、行政が基本的人権の尊重という目標をしっかりと見据え、一部に立ち遅れのあることも視野に入れながら、地域の状況や事業の必要な把握に努め、真摯に施策を実施していく主体的な姿勢が求められる』と、法律失効後の安易な同和行政打ち切り論がおこらないように警告を発しています。

 2002(平成14)年3月末をもって、「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」が失効し、特別対策としての同和対策事業は打ち切られました。これからは一般対策を活用して、地域の状況や事業の必要な把握に努め、真摯に施策を実施して行かねばなりません。それは部落民だけを対象にするのでなく、施策を必要とする全ての人を視野に入れたものでなくてはならず、同和行政の成果の普遍化こそが人権行政の確立につながっていくものです。

 

1 環境の改善

 

 (1) 「不良住宅地区改良法」から「住宅地区改良法」へ

 

 現在は1960(昭和35)年に公布された「住宅地区改良法」に基づいて主に改良事業が行われていますが、この法律が制定されるまでは、1927(昭和2)年に公布された旧「不良住宅地区改良法」に基づいて改良事業が行われていました。

 「不良住宅地区改良法」の制定は、日本の近代化と密接に関わっています。

 日本の資本主義は、1914〜1919(大正3〜8)年に起こった第一次世界大戦を通して急速に工業化の度合を強め、農村から都市への労働力流入によって本格的な都市問題、住宅問題を顕在化させました。

 当時、日本の大都市における一般的な住居水準は、封建時代の遺制をそのままにきわめて劣悪な水準におかれており、中でも、「旧穢多町」、「非人町」、あるいは「穢多部落」などといわれる部落を核とする不良住宅地区、及び農民、職人、下級武士などの没落層から構成される都市下層貧民・不熟練労働者の居住する不良住宅地区は、″貧民窟″とも″スラム″とも形容され、低位な一般労働者街よりもさらに隔絶した劣悪な状況のもとにおかれていました。しかしこの段階では、国は何ら対策を行わず放置したままでした。

 しかし、1923(大正12)年に関東地方一円を襲った「関東大震災」は、木造家屋の密集した日本の過密都市が、災害に対していかに脆弱であり無防備であるかを一瞬にして曝露し、我国はじまって以来という大惨事が引き起こされました。被災地では、避難民が一時しのぎに建てた応急仮設住宅、バラック住宅が密集し、その後建替えもない中で急速に荒廃して、震災後10年経過した段階でも、東京・横浜両市の集団バラックは10万戸をこえたといわれています。また、これらのバラック街には旧来のスラムの住民が流入し、またスラムには厖大な被災者が沈殿して、それらが渾然一体と化した″震災スラム″が各所に出現したのです。

 さすがにこの様な状況を放置できず、国は「不良住宅地区改良法」を制定するのですが、この法律の第一条に『公共団体ハ不良住宅密集シ衛生、風紀、保安等ニ関シ有害又ハ危険ノ虞アル一団地ニ付本法ニ依リ改良事業ヲ行フコトヲ得』と書かれているように、そこに住む人たちの生活環境をよくするというよりも、その地域から伝染病や災害、犯罪や米騒動のような暴動が広がらないことを目的とした、社会予防法的なものでした。この点については、1945(昭和25)年に実施された「京都市同和地区実態調査」の報告書で、京都市は『これまで同和地区は,例えば不良住宅地区改良法第1条が、「不良住宅密集し、衛生・風紀・保安等に関し有害または危険のおそれある一団地」と規定しているように、地区が一般社会に対して与える衛生・風紀・保安上の有害または危険性という観点からのみ問題視され、それ以前に、まず地区の住民に対して地区の実態が与えている衛生・風紀・保安上の有害または危険性という点がとかく閑却視されがちであった』と厳しく批判しています。その上事業内容、事業の手続きにおいて不十分であり、国庫補助の分野で現実との不適合が目立つものでした。

 それらの不備を改善すべく施行されたのが「住宅地区改良法」でした。この法律は、第一条で『この法律は、不良住宅が密集する地区の改良事業に関し、事業計画、改良地区の整備、改良住宅の建設その他必要な事項について規定することにより、当該地区の環境の整備改善を図り、健康で文化的な生活を営むに足りる住宅の集団的建設を促進し、もつて公共の福祉に寄与することを目的とする』と示されており、改良住宅の建設だけではなく、道路や公園、緑地等の公共施設、隣保館、保育所、公設浴場などの地区施設の建設など、面的な整備ができるようになり、「地域ぐるみ」のまちづくりを図れるようになりました。環境改善事業は、この法律によって著しく進展しました。

 

 (2) 環境改善事業の進展と新たな課題

 

 京都市は1952(昭和27)年に錦林地区の改良事業に着手しました。この時は、極めて差別的で不十分な法律でしたが、「不良住宅地区改良法」を根拠とせざるを得ませんでした。それゆえ事業の方法は、老朽建物住宅を買収除却し、第三種公営住宅を建てるという方法でした。そのため、雨が降れば雨がもる、もれば重なりあって寝なければならないというような、老朽化した危険な住宅に住む人たちに、鉄筋の中層耐火住宅を建てることによって、なんとか雨露だけはしのげる条件を作ろうというものしかできず、これからのまちづくりをどのようにしていくのかという展望をもてるものではありませんでした。面的な整理のできる手法が必要だということで、京都市会の環境改善委員会や西日本の不良住宅地区改良事業連絡協議会等が、国に対して強く運動を進めた結果「住宅地区改良法」が施行されました。

 その後環境改善事業は飛躍的に進展し、崇仁地区を除く京都市内の改良事業実施地区は、改良住宅の建設をはじめとして、道路や公園、緑地等の公共施設が整備され、各種公共施設が建設されるなど、部落の劣悪な住環境は大きく改善されてきました。

 その結果、改良事業実施地区の住居は8割以上が公営住宅が占め、1980(昭和55)年代以降の大量人口流出による人口減少、高齢化率の上昇、貧困化が顕著になってきました。しかも、部落民の住み替え対策として建てられた改良住宅の位置づけが、一般公営住宅に変えられ、家賃も応能応益制度が導入され、収入の高い人ほど高い家賃を負担しなければならなくなり、部落の中に安定収入層が定着しにくくなるという構造ができあがりました。しかも、それと同時に部落の村落共同体意識が、改良事業によってその基盤を崩し、時代の大きな変化とあいまって希薄化しつつあり、そこへ、公営住宅の一般公募を進めていくと、必然的に地区外の低所得者層を吸収することとなり、部落の「鉄筋スラム」化を進めることになりかねない危険性すらもっています。

 これからは、「住宅地区改良法」のみの手段ではなく、あらゆる手段を考慮に入れて、まず高齢化率が高いという実態をふまえて、高齢者が住みやすいということを基本にすえた、安全性で利便性の高い、また、多様な階層が住むことのできる住宅建設を可能にする、新たなまちづくり計画を策定し、実現に取り組む必要があります。

 

2 教育

 

 (1) 同和教育の目指してきたもの

 

 「今日も机にあの子がいない」― 1950(昭和25)年から1951(昭 和26)年に行われた「京都市同和地区実態調査」によりますと、京都市内における義務教育の不就学率は、小学校で全市0.46%に対して部落は6.5%、中学校では全市2.77%に対して部落は28.7%もありました。その原因は、貧困、いやがるから、家事手伝い、働かせるためというものが九割以上を占めていました。国民の義務教育就学率が100%近いといわれていた中で数多くの部落の子どもたちが不就学のまま放置されてきたのでした。

 この状態を放置できないという教師の思いとオールロマンス差別事件を契機にした特別就学奨励費や補習学級の開設など京都市の施策が、不就学児童・生徒の解消と学力補充に向けた取り組みとして動き始めました。これが京都市における「同和教育」の出発でした。

 取り組みが成果をあげ、ようやく部落の子どもたちが中学校に就学できるようになると、中学生の問題行動が頻発するようになってきました。1959(昭和34)年に、次のような見出しの新聞報道がされました。「いらだった心が爆発」「同和地区暗い就職も響く」ここには就職差別の壁にぶつかり、自暴自棄となった中学生が部落の子どもたちを中心に荒れ出す姿が浮かびあがってきます。そんな中、1962(昭和37)年、伏見職業安定所主催の求人説明懇談会で、某会社の担当者の「私のところは、今まで第三国人や部落の人はきていないし、今後についても遠慮してほしい」という発言が、ある中学校の教師の告発により、大きな問題となりました。同時期に他の会社でも同じような就職差別事件が問題となり、事態を深刻に受けとめた京都市教育委員会は、翌1963(昭和38)年に「中学校卒業生の進路実態」という調査を行いました。同委員会は調査の報告書の中で、この一連の就職差別事件について次のように総括しています。『…今日の学校教育において、部落の子どもたちの基礎学力や社会的適応性といったものが、日本社会の現段階における技術革新を伴う社会進歩に直接寄与し得るものとして保障されているかどうか、という反省をしなければならないと思う。もしそれが保障されていないとすれば、そうした保障を不可能にしている具体的な条件を明らかにし、それに伴う行政責任の所在も明確にすることが必要であろう』

 この総括の上に立って、同年に進学促進ホールを開設し、翌1964(昭和39)年には『教育の全分野において、それぞれの公務員が、その主体性と責任において同和地区児童生徒の「学力向上」を至上目標とした実践活動を推進する』という「同和教育方針」を策定し、取り組みが始まりました。同時に「同和奨学金」制度が実施され、その相乗効果で1962(昭和37)年度では34.6%(全市75.0%)しかなかった部落の生徒の高校進学率は1972(昭和47)年度には全市93.9%に対して部落は92.8%と、遜色ないものになりました。また、センター学習や高校生学習会の取り組みが、部落の子どもたちの将来展望を支えてきました。

 その後も高校進学率は全市と変わらず、現在も高い進学率を示し、一見、格差はなくなったかのように見えます。しかし、その内実を見ると、今でも格差が明らかにあります。進学の内訳は、常に私立が公立より上回っており、中途退学率も同和地区外生徒の2〜3倍もあります。また大学進学率においてもはっきりとした格差があります。このことは、部落の子どもたちに確かな学力を保障しきれていないことを示しています。高校進学については、現場の教師の取り組みはもちろんありますが、高校増設により、ほとんどの生徒が入れるようになったことと、「同和奨学金」制度という施策があったからこそ可能であったという事実を示しているのではないでしょうか。

 現在、同和教育におけるさまざまな施策がなくなり、今後、社会の動きの中で課題を背負わされた子どもの教育条件は悪化し、部落の子どもたちの高校進学率が低下していくことが予測されています。また、「格差社会」の中、過激な競争が「自己責任」の名のもとで求められています。それは、経済力や豊かな「文化資本」を持つ家庭の子どもには有利ですが、そうでない子どもにとっては「競争に参加する」権利さえ奪われてしまうことを意味します。だからこそ、『技術革新を伴う社会進歩に直接寄与し得る』基礎学力や社会的適応能力を就学前教育から学校教育の一貫教育の中で保障することを目的にした同和教育のこれからのあり方を、部落の子どもたちの教育実態(小・中学校での学力実態や不登校等)や進路の状況(高校での学力実態や非卒業率、進路状況等)を明らかにする中で、模索していかねばなりません。

 

 (2)  学力向上に向けて

 

 柏倉康夫氏は「エリートのつくり方―グランド・ゼコールの社会学―」(ちくま新書)の中で、ピエール・ブルデュー氏の『文化的な環境が遺産のように相続される現実のなかでは、エリートの再生産が行われ、機会は世代を経るにつれて平等でなくなる』という指摘を紹介し、『社会生活をおくる上で一種の資本として機能する文化的な要素、例えば書物やテレビなどの情報を通して獲得された教養や趣味、あるいは絵画や音楽から身についた感性を指し、こうした知識、教養、感性、技能といった蓄積物を「文化資本」とよんだ。「文化資本」はこうした無形のものだけではなく、書物や絵画、ピアノといった物として所有されているものももちろん含まれる。そしてこれらは、親から子どもへ資産として相続される』『文化資本が問題となる最初の場はいうまでもなく家庭であり、子どもは親の文化資本の枠の中で成長し、意識する以前からその傾向をそのまま受け取ることになる。したがって大量で良質の文化資本に恵まれた環境に成長する子どもは、知識だけでなく感性や趣味についてもそれを受けついで育っていく』『こうした家庭での教育を次に学校がひきつぐ。教育制度が発達したところでは、子どもが高学歴になる確率が高く、文化資本の多寡が確実に子どもにも継承されていくのである』『ブルデュー氏が指摘するこうした世襲化がますます進むとすれば、国家が受験の機会をすべてのものに平等にあたえることを要とするフランスの教育制度は、社会の固定化を助長することになりかねない』と書いています。多くの部落の子どもたちの文化資本は脆弱で、そのまま部落の親や家庭、地域に依拠していけば、低学力の再生産につながるのではないでしょうか。そこで重要になってくるのは、保育所、幼稚園や小中学校による子どもの成長発達を支援する体制です。まず就学前は、基本的生活習慣の確立と言語の発達を促す上で、きわめて重要な時期です。例えば、幼い頃に絵本の読み聞かせをよくしてもらった子どもには、読書好きの子どもが多いというデータもあり、保育所、幼稚園は家庭、さらには小学校との連携を深めつつ、保育内容の充実を目指していく必要があります。

 小中学校では、人権を基盤とした学級作りを最重要課題とした上で、研究を核とした授業の質の向上、基礎基本の徹底、自学自習の習慣化、人権学習の充実など学力向上に向けた取り組みを「見直しと徹底」を念頭に置きながら進めていかなければなりません。それに加えて、基本的生活習慣を確立させ、家庭学習に向かう習慣を身につけ、将来展望を持たせていくように家庭と連携していく必要があると考えます。

 そして学校教育に加え、現在では同和地区外の児童・生徒にも開放されている学習施設の意義・目的を踏まえた上で、これを有効活用し、文化資本の脆弱な子どもたちが自らの学習課題をもって、自発的に取り組む態度を身につけられるように育てていくために、学校・家庭・地域が連携していくことが必要であると考えます。

 社会に出て自立するには働かねばなりません。そのためには、社会に適応できる能力・学力が要求されます。文化資本が高く、経済力の強い家庭の子どもたちが優遇されつつある社会のなかで、「一人ひとりを徹底的に大切にする」という同和保育や同和教育が育んできた実践こそが、今、最も求められているといえます。

 

3 職業安定対策

 

  京都市が行ってきた就労対策は、まず部落民の能力を高めるための職業補導事業をあげることができますが、その内容は、時代の変化に伴ったものではなく、今日の時代にふさわしいものが創設されることなく打ち切られています。

 次に、国や企業への働きかけがおこなわれ、特に企業には啓発活動をおこなってきましたが、それがどれだけの効果を上げたかはわりませんし、企業の採用時に興信所を利用した身元調査が行われることも後を絶ちません。

 続いて、京都市の職員として採用することであり、これは多大な成果を上げ安定収入層の増大に寄与しました。しかしその施策も2000(平成12)年に打ち切られ、以後部落の京都市職員が占める割合は下降傾向を示しています。

 最後に、部落の産業対策ですが、部落の企業に低利の融資や、経営指導・経営相談を行ってきましたが、未だに経済基盤が弱く、近代的経営への転換と発展が阻害されたままです。

 今日のように、先行き不安定な経済情勢や就労環境の極端な悪化、京都市職員への採用の打ち切り、部落民の低学力からくる低い能力のため、2000(平成12)年度の京都市の調査では、部落の中の不安定就労者の割合が20歳台前半の方が30歳台後半より多く、若年層の就業状況の悪化が指摘されるまでになっています。また、部落の高齢化、経済不況の影響で、就業状態は前回調査から約11ポイント低下していることも明らかにされています。

 その上、若年層の無業者の就職希望において、20歳代で34.3%、30歳代で42.6%もの人が就労を希望していないとの結果まででています。社会で自立して行くには、何よりも経済的な自立が必要であるのにも関わらず、これらの事実は社会的自立を困難にしている事を示しています。

 このような実態を生み出している要因は、経済や社会の大きな変化に、部落民が低学力からくる知識や能力の低さのため対応できていないためだと思われます。

 そこで、今社会が求めている知識や能力を開発する人材育成や、関係機関と連携した就労支援活動の積極的な推進、新たな産業育成が必要だと考えられます。

 

4 隣保館を拠点とする各種施策

 

 京都市において隣保館は同和対策の拠点として、今日まで重要な役割を果たしてきました。それは、1936(昭和11)年に『従来、託児所とその付属的事業としての家事見習所がそれぞれ幼児対策と婦女青年対策として実施されてきた』ものを、『「隣保館」という形で改組設立し、地区全体の教育、相談、自治の機関として内容充実』がはかられたことが出発でした。

 1948(昭和23)年に「京都市隣保館条例」が施行され、オールロマンス差別事件を契機に、京都市は「今後における同和対策運営要綱」を策定し、京都市の重要施策の一環として同和対策事業を位置づけました。そして4点の基本施策を定めて具体的な施策を実施してきましたが、その基本施策の一つが『隣保館を拠点とする生活相談および生活指導』であったことをみれば、隣保館の存在がいかに重視されていたかが伺えます。

 隣保館は、京都市同和行政の総合窓口として、行政と住民のパイプ役として住民ニーズの把握や、住民の生活実態の把握、各種施策の進行管理を担ってきました。その役割は、部落の高齢化と貧困化が顕著になってきている状況下、従来にも増して高くなってきていると考えられます。

 一方、住民の人間形成の最も身近な実践の場として、生活相談・生活指導を通じた人間形成、各種施策を通した人間形成のための効果測定、各種事業・サークルへの参加をよびかけによるグループを通した人間形成も担ってきたはずですが、それは充分効果を上げたとはいいにくい状況です。

 2002(平成14)年度から、名称がコミュニティセンターと変更されました。今日の部落の実態、社会の状況をみるとその役割はますます重要になってきています。

 これからのコミュニティセンターは、部落およびその周辺地域の住民を含めた地域社会全体の中で、福祉の向上や人権啓発のための住民交流の拠点となる地域に密着した福祉センター(コミュニティセンター)として、生活上の各種相談事業をはじめ社会福祉等に関する総合的な事業及び国民的課題としての人権・部落問題に対する理解を深めるための活動を行い、もって地域住民の生活の社会的、経済的、文化的改善向上を図るとともに、人権・部落問題の速やかな解決に資していかなければなりません。とりわけ、今日の社会は生活困難者にますます厳しくなってきており、部落内外の生活困難者を支援する人権行政の確立は急を要し、コミュニティセンターはその拠点になるべき存在です。

 コミュニティセンターが本来担うべき役割を果たすため、以下の三点の取り組みが必要だと考えられます。

@ 一般施策の積極的活用により地域住民の生活自立支援に向けてコミュニティセンターがその一翼を担えるように諸活動を展開する体制の確立。(自立支援センター機能)

A 人権・部落問題の解決に向けて周辺地域との日常的な啓発・交流活動の展開。(啓発・交流センター機能)

B ボランティアや民間諸団体との連携による人権と福祉のまちづくりに向けた共同作業を実施できる条件作り。 

 2002(平成14)年に「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」が失効し、特別対策としての同和対策事業は終わりました。これからは、一般対策をいかに活用していくかが大きな課題となっています。

 その中でも、地域と密着したコミュニティセンターの役割は今まで以上に大きなものがあります。地域改善対策協議会の意見具申では、工夫の方向として『社会福祉の分野においては、隣保館について、周辺地域を含めた地域社会全体の中で、福祉の向上や人権啓発の住民交流の拠点となる開かれたコミュニティセンターとして、今後一層発展していくことが望まれる。地域の実態把握や住民相談といった基本的な機能に加え、教養文化活動の充実や地域のボランティアグループとの連携など地域社会に密着した総合的な活動を展開し、さらにこれらの活動を通じて日常生活に根ざした啓発活動を行うことが期待される』としており、この期待に応えられるようなコミュニティセンターに変革していくことが急務とされています。コミュニティセンターを「人権・部落問題の解決に資する施設」と位置づけ、その具体化を進めるための生活・福祉・教育・啓発・産業・労働対策などの総合的施策を実施する条件整備と、関係団体と連携した活動の推進をどのように進めていくべきか模索していかねばなりません。

 

5 市民啓発活動

 

 京都市は市民の部落問題の正しい理解と認識を促進するため、啓発活動を行ってきました。それは一定の成果を上げてきましたが、格差社会の強化は、その成果を後戻りさせるような役割を果たしており、まだまだ差別事件は頻発しています。

 とりわけ、就職や結婚の時の身元調査を目的にした、司法書士による職務上請求用紙を使った戸籍の不正取得が多数発覚しています。京都市内でも、2003(平成15)年に司法書士による戸籍の不正取得による結婚差別事件が起こっており、その後の加害者の態度をみても、啓発だけでは解決しにくい状況があります。差別を受けた人の人権が救済される、「人権侵害救済法」の法制定が一日でも早く望まれるところです。

 また、部落問題の啓発から人権問題の啓発へと変化してから、啓発内容が拡散され、その効果も逓減してきているように思われます。それも当然で、「人権教育のための国連10年」に関する国内行動計画をみても、重要課題は女性、子ども、高齢者、障害者、同和問題、アイヌの人々、外国人、HIV感染者、刑を終えて出所した人、その他と10も列記されており、知識の吸収だけでも莫大なものとなります。このような時期だからこそ、系統だった、実効性のある市民啓発活動を構築していかねばなりません。

 

W これからの研究集会

 

 部落解放研究京都市集会は、部落に社会的な矛盾が集中してあらわれているのが差別だということを明らかにし、部落解放運動や同和行政、同和教育の前進に貢献してきました。しかし、社会的な矛盾は部落だけではなく、多くの人たちを覆っており、その解決は部落民にだけ必要なことではありません。むしろ、少数の富める者はより豊かに、多くの貧しい者はより貧しくという、「構造改革」が作り出している格差社会の強化の中で、より多くの人たちが社会的矛盾をかかえてきています。

 このような時代だからこそ、多くの社会的な矛盾を解決してきた部落解放運動や同和行政、同和教育の成果を普遍化していく必要があります。人権確立、反差別のために何が必要なのかを、人権確立、反差別のために活動している人たちが結集し、その実践に学び交流し連帯していくことは、急務を要することです。

 そのための場として、2008(平成20)年を目途に部落解放研究京都市集会を以下のようにしていきます。

@ 名  称 人権交流京都市研究集会

A 構成団体 現構成団体を軸に、人権団体、NPO、宗教関係、各種団体へと幅広く募集し、より広範な京都市民が創り、参加できるものにしていく。

B 内  容  基調報告、実践報告、分科会

C 会  場 京都会館ならびに近辺

D 規  模  現構成団体を軸に人権交流京都市研究集会準備会をつくり、構成団体を募っていく中で規模を確定する。

E 後  援  京都市、京都府をはじめ各種団体に依頼する。

 

 

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資料

雇用促進要求斗争要綱

一、はじめに

  われわれ部落民にとって仕事の問題は、部落差別の本質にせまるもっとも重要な問題である。

 このことについて部落解放同盟は、第十六回全国大会以来、部落差別の本質は、市民的権利−就職の機会均等、教育の機会均等、居住の自由等の権利−の中でもとくに、就職の機会均等の権利が行政的に不完全にしか保障されていないこと、すなわち、主要な生産関係から除外されているところにあるとのべている。

 したがって、あらゆる日常要求斗争は、すべて部落差別の本質を解決する斗い、すなわち、部落民に就職の機会均等を行政的に保障させることに奇与する斗いの一部として位置づけて斗われてきた。

 部落解放運動の成果として、「同対審答申」が出され「特別措置法」が制定された今日、同和施策は国および地方自治体の最重点施策であるといわれながら、現実には、そのもっとも基本となるべき、部落民に対する雇用の問題について「答申」および「特別措置法」の具体化については、無策であるといわざるをえない。

 京都市においても例外ではない。京都市は、革新市政の立場から、部落差別の本質を解決すべき雇用促進の問題については、革新市政らしい姿勢で「答申」および「特別措置法」具体化の方針を打ち出し、公正かつ適確な方法と形態で、部落民を雇用すべきである。

 しかし、現実には、旧態依然の雇用の慣行を、そのまま堅持している。そのことが、革新市政にはあるまじき、雇用にからむ多くの問題と混乱を生み出し、今や、革新市政としての真価を問われるべき状態にまで進展している。

 われわれは、次にいくつかの雇用促進についての問題点を指摘し、その解決と、革新市政にふさわしい雇用形態を確立することを要望するものである。

 

二、雇用促進における問題

 

  現在、京都市でおこなわれている雇用形態は、決して、部落問題を前向きに解決するものではない。すなわち、行政執行者は、議会での自己に対する責任追及をのがれるために、議員と政治的取り引きをし、議員の選挙基盤を強める手段としての就職斡旋口をもうけたり、差別行政に対する部落大衆の怒りをおさえ、分裂を固定化するために、部落の大ボス、小ボスに就職斡旋口を作ることに終始している。このような、旧態依然とした不正常な雇用制度が、今日の問題をひきおこしている。たとえば、部落民としての自覚を高める行政効果とは逆に、ダミンをつくり、ヒロポン中毒、アルコール中毒者等がチェックできなかったり、雇用後の適正なる生活指導ができていないために、職場において種々の問題をかもしだしている。このことが、差別を拡大、助長、再生産しているのである。

(イ) 行政から就職斡旋口を委託された議員と部落ボスは、部落大衆の義理、人情に厚いことにつけこみ、自己の選挙や政党の党利党略、私利私欲にこの就職斡旋を利用している。

  その結果、部落内の派閥や人閥の分裂を固定化して、部落民をダミンにしている。

(ロ) 雇用方針のないこと、一般公募がなされていないことのために、就職のパイプが狭く、議員、部落ボスの間で、雇用人員の割当の奪いあいがおこなわれたり、さらには、職員の昇格までも、行政と議員、部落ボスの政治的取り引きによっておこなわれている。

 その結果、部落大衆は、議員、部落ボスに金銭、物品を贈って、就職、身分の昇格を頼むという、全く不正常な競争が生まれている。

(ハ)  教育委員会や交通局が一般公募しているのは、一部の職種だけである。他はすべて一般公募していない。しかし、就職希望者の少ない、清掃局のごみ取り、肥汲みだけは隣保館に窓口を開き、公募している。

 これは差別行政の最たるものである。

 また、一般公募をしていない職種で、試験が行われていても、これは形式的な選考試験であり、決して、公平に採用するためではない。行政執行者が政治的に不採用者をつくりだすことと、雇用に関する不公平さを追求されない条件をつくるためである。

 

三、問題の本質

 

  このような問題が生じている原因は、口を開けば、部落問題の解決は行政の責任であるといいながら、部落問題解決にとって最も重要な雇用促進の基本方針をなんらもたず、人事委員会から、選考採用を委任された任命権者(各局の理事者)の個人的な人間関係で、議員、部落ボスに就職斡旋口をつくっている差別的雇用制度にある。これは部落問題に対する認識の低さと欠如に起因する。

 

四、問題解決の基本方針

 

(イ) 今日までの行政と議員、部落ボスの不正常な関係を打切り、「答申」「特別措置法」の具体化として、行政の雇用促進の基本方針を明らかにさせる。

(ロ) この不正常な関係を打切るために、部落解放同盟、行政、教師、部落代表者等で組織する「雇用促進委員会」(仮称)をつくり、公正にして、かつ行政効果を考慮した雇用促進がなされねばならない。

(ハ) 人事委員会はこの方針にしたがって、職員の任用を委任された任命権者(市長部局の職員局、水道局、交通局、教育委員会)の指導・監督をする。

(ニ) 識字学習、高校、大学生の学習会、調理師免許取得の学習、職業訓練等の諸事業と結合させる。

 

五、雇用促進要求斗争の基本的態度

 

 今日まで行われてきた個人的な就職斡旋ではなく、「雇用促進委員会」(仮称)なるものを組織し、仕事よこせの求職斗争を行う。この斗いの中で部落解放同盟が民主的討議を行い、指導的役割をはたすことである。

 みずからの仕事よこせの斗争なしには、利己主義や個人的な義理・人情の段階にとどまり、派閥・人閥が部落に固定化される。ましてや、組織の拡大強化はおろか、組織の民主的運営すらおこなわれない。

 最近、個人が、一般的にいわれている低い職種から高い職種に変わることや、階級制の係長・課長等社会的地位が高まることがあたかも部落の完全解放につながるという出世主義的な思想が横行している。

 これは、個人的な就職斡旋と運動の停滞のなかから生まれた敗頽的な個人主義で、解放運動となんら関係のない有害な思想である。

 これらの思想が、一部落内の分裂を強め、組織を小さくしている。大衆団体である解放同盟は、能力を持つ個人が、職種を変えることや出世することをよろこびこそせよ、否定はしない。しかし、組織を利用し、任命権者との政治的取り引きで、組織と部落大衆を売りわたす行為は断じて許されない。

 我々は、就職した同盟員に、個人的な出世でなく、職場全体や職種そのものの労働条件や賃金等を改善し、社会的立場を高める労働組合運動のなかで積極的役割をはたす義務をあたえなければならない。このような労働組合運動と地域の解放運動との結合こそが、部落の完全解放をかちとる部落民としての自覚と労働者との連帯感が生まれてくるのである。

 したがって、雇用促進要求斗争の目的の第一点は、仕事よこせの斗争と、学習活動を通して、部落民としての自覚をよびおこすことである。第二点は、解放同盟員としての自覚のもとに、職場での労働組合運動に参加し、解放運動と労働組合運動の有機的な結合と連帯をかちとることである。

 

《1972(昭和47)年作成

 

  

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