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第46回人権交流京都市研究集会

第5分科会

   「部落の歴史」

―学校現場で、地域で、ありのままの歴史理解のために―

 

 

 

講 演:「映像と史料から知る新しい部落史」

講 師:上杉 聡(大阪市立大学人権問題研究センター)

 

支部活動としての部落史研究

木下 松二(部落解放同盟京都府連合会東三条支部長)

 

講 演:「ふるさと“あまべ”の歴史」

講 師:辻 ミチ子(元京都文化短期大学教授)

 

 

司会進行  廣瀬 光太郎(部落解放同盟京都市協議会)

   録  町野 覚(京都府庁部落問題研究会)

分科会責任者 松田 國広(京都市職員部落問題研究会)

 

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  司会者から、第五分科会は部落差別を始めとする色んな差別や人権問題について、市民が自由に本音で語り合う場として持ってきたが、今年は京都に係わる部落の歴史と新しい部落像について語り合うとの分科会の趣旨が説明された。

 

 上杉 聡さん(大阪市立大学人権問題研究センター)から「映像と史料から知る新しい部落史」と題した講演があった。

 今、学校の社会科教科書において、江戸時代の身分制についての記述が大きく変わっている。「士農工商」の序列と「士農工商の下」に「エタ」「非人」被差別身分が「つくられた」との従来の記述が、「武士・百姓・町人」の主要三身分と、「それとは別に」あるいは「他に」差別された集団が「あった」と変わっている。「あった」とは、今日の被差別部落に連なる身分制が江戸時代に初めてつくられたのではないという最近の歴史研究の成果を反映している。

従来、教科書には記述がなかった中世における「河原者」「屠者」「穢多」等と差別された人々の存在、その「河原者」による庭造り等の東山文化への貢献が新たに記述されている。

「河原者」とは税の掛からない河川敷きに住む者、「屠者」とは鳥獣の処理をする者が語源である。同じ被差別民を表現している。その名称が、江戸時代になると「穢多」に集約されていく。

様々な理由から税の掛からない河川敷きに住むことを余儀なくされた人々が、税の代償として街の清掃、警吏の役などを請け負った。また生活の糧を得るため、庭園造りなど土木作業に従事した。当時は寺院における庭園造りが盛んであった。庭園造りに秀でた僧の指導の下、土木作業に従事する中で、庭園造りの知識、技術を習得した集団が生まれた。銀閣寺、龍安寺等の多くの庭園が、そうした河原者により造られた。優れた美意識をもつ将軍義政は世間の差別を無視して、庭園造りに秀でた河原者を重用した。差別意識から河原者の重用に抗議する動きがあったことも記録に残されている。

 

辻ミチ子さん(元京都文化短大教授)から「ふるさと“あまべ”の歴史」と題した講演があった。

 人それぞれに歴史があるように、地域にもそれぞれの歴史がある。同和地区の学校で教える内に、地区の子供達に元気を与えること。そのために地区の歴史を調べることに興味を覚えた。

 京都の同和地区には固有の歴史が

あるが、今日は、“あまべ”の歴史について話す。“四条あまべ“とは、どんな所か。秀吉より前の時代、今の高島屋の南の辺りに”あまべ“はあった。当時を描いた洛中洛外図に、”あまべ屋敷“と藍染の仕事をしている女性の様子が描かれている。四条通りを挟んだ北側にあった時宗の寺、金蓮寺は見せ物小屋が立つ盛り場のようなところであった。”あまべ“に住む人は様々な呼ばれ方をしたが、まとめると「四条河原細工丸」と言われていた。四条河原に住む細工物を生業とする人というような意味である。

しかし、お上から公役として「清目の役」を受けていた。「清目」とは、清掃と警察の仕事である。掃除の仕事とはゴミを掃除することではなく、牛や馬の死体処理、そして皮なめしの仕事である。その他、庭作りに係わる仕事をする者もおり、四条御庭者とも呼ばれる。

「穢れ」は、「気が枯れる(死ぬこと)」が語源だそうだ。死に係わることが穢れ意識を生み、差別に関係してくる。

 寺町、御土居の建設など秀吉の都市政策により、“あまべ”は四条から三条へ移転させられた。今の東三条地区である。三条天部村は、徳川幕府の京都所司代、町奉行の下で、刑吏・行刑の公役を担い、二条城の庭師を始めとする造園業、太鼓、鼓、雪駄など皮革業が村の産業であった。皮を鞣すのは部落の専業であるが、皮を材料に革に加工するのは一般の町人も行う。三条天部村では朝廷に納める雅楽の鼓や太鼓を作っていた。それなりに財力もあり、旦那寺の円光寺には地域の金持ちが寄付した素晴らしい文化財が残されている。

 また、村は教育に力を入れており、協同夜学校が第二次世界大戦中まで維持されたいたことも、これからの研究課題と思う。

 

 

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