ごあいさつ

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第34回 分科会報告

                      第34回 第一分科会

第一分科会 【歴史】


           部落の歴史

        〜地域における部落史研究の試み〜

 

  日 時  2003年2月15日(土)午後1時30分〜4時30分

  場 所  京都会館 第2ホール

  テーマ  部落の歴史〜地域における部落史研究の試み〜

 

  構 成  司  会      丸山 義和(部落解放同盟京都市協議会)

        プレゼンテーション 石田 房一(吉祥院六斎歴史研究会)

        吉祥院六斎念仏実演 吉祥院六斎念仏保存会、子ども六斎会

 

 ■シンポジウム

       コーディネーター  灘本 昌久(京都部落問題研究資料センター所長)

       パネリスト      山内 政夫(NPO京都人権啓発センター・ネット

                           からすま理事長)

                    石田 房一(吉祥院六斎歴史研究会)

       記  録       篠田 康榮(京都市職員部落問題研究会)

                    林 眞佐男(京都市職員部落問題研究会)

       担  当       丸山 義和(部落解放同盟京都市協議会)

 

    参加者数 383名

 

 

内  容

 最初に「吉祥院六斎念仏には、どのような由来があるのか。部落差別との関わりは何か。また、地域の子どもたちが、その歴史を学ぶ中で立ち上がっていく経過」をプレゼンテーションしました。

 その後、吉祥院六斎保存会、子ども六斎会のみなさんによる「吉祥院六斎念仏踊り」の実演をしていただきました。そろいの浴衣を着て、笛、鉦を伴奏に太鼓の曲打、早打、踊打などの太鼓曲や笛、鉦、太鼓の囃子で行う獅子舞などが披露され、クライマックスは獅子と土蜘蛛で、土蜘蛛が獅子に蜘蛛の巣(せい)撒くシーンは圧巻でありました。

 そして、それらを踏まえて、部落の歴史を通じて「まちづくり・ひとづくり」にどうつなげていくのかを討論しました。

 プレゼンテーションと討論(シンポジュウム)の概要は次のとおりです。

 

1 プレゼンテーション

差別に挑む歴史を生きて−吉祥院六斎念仏踊り

石田 房一(吉祥院六斎歴史研究会)

 吉祥院六斎歴史研究会は昨年、立ち上げ、歴史の調査、特別展の企画・立案、子ども六斎会の支援等を行っています。

(1)吉祥院地域の概要

近郊農村地域でありましたが、1960年代に農地が宅地に変わり、工場、スーパーマーケットの進出で都市化しました。

(2)六斎念仏の歴史

吉祥院天満宮は菅原道真のゆかりの神社です。

吉祥院六斎念仏は、1953年に無形文化財、1983年に重要無形民俗文化財に指定されました。まず、吉祥院六斎念仏踊りを観てください。(上映時間は約5分間)

    

 六斎念仏は、空也上人が信仰を広めるため、鉦や太鼓をたたいて踊りながら、念仏を唱えたのが起こりと言われています。これが後に仏典に説く六斎日に行われるようになり六斎念仏と呼ばれるようになったと伝えられています。  

現在、吉祥院六斎念仏は4月25日と8月25日に吉祥院天満宮で演じられています。  吉祥院での六斎念仏のはじまりは、平安時代後期に獅子舞を奉納したとか、明智光秀の残党が討たれたことを弔ってとか、諸説があります。吉祥院部落では、明治15年の年号が入った鉦(一丁鉦)があって、それに17名の名前が刻まれていますので、それ以前から行われていたことは確かです。

  そのころ、8組の六斎組が吉祥院天満宮に六斎を奉納していましたが、被差別部落では奉納できなかったと聞いています。教えてもらえない、悔しい思いを繰り返していたそうです。吉祥院部落での六斎念仏は、部落の地主さんが小作料をまけるから、教えてほしいと言ったことがはじまりと聞いています。

 吉祥院六斎念仏は、差別とのたたかいのなかで、差別とともに生きてきた歴史があります。その後、8組の六斎念仏が次々に姿を消していくなかで、1960年代には吉祥院部落の六斎念仏だけが残りました。廃絶の危機はありましたが、差別を受けた屈辱を思えば、絶対止めるわけにはいかないとの思いで引き継がれてきました。

 過去の差別事件を紹介しますと、清水寺で奉納の順番を決めるときに差別発言があって、それがきっかけで吉祥院の六斎念仏とその他の六斎組が大喧嘩をした事件がありました。大正初期には、小学校に行くときに、他の町内の子ども達はカバンに下駄か靴でしたが、部落の子ども達はぼろぼろの風呂敷にわら草履という格好でしたので、雨の降るときにはぺたぺたと音をたてて歩いていたことから、先生の方から部落の子は足でも六斎をしているなと言われました。そこで、部落の子が全員集まって、窓ガラスを割ったとか、全員登校否定した事件もありました。

 

(3)子ども六斎の取り組み

 学習センターで六斎の歴史を学ぶなかで、子ども達、学校の先生達が立ち上がって、子ども六斎というかたちで、3つの課題に取り組んできました。

  @ 地域の文化財を引き継ぐ。

  A 思いをしっかり持ち、思いや考えを他者に伝える。

  B 六斎を通じて差別とたたかってきた歴史を子ども達に知ってほしい。

 そして、楽器、衣装、道具を作り、手作りの獅子で演じていくという目標に向けて取り組んできました。獅子頭を作る計画を立てて、実際の獅子頭を見て、作っていきました。そして、永松教育記念センターで、すその学習の全市交流会が1995年3月に行われたときに獅子舞を演じました。さらに、努力を重ね、吉祥院デイサービスセンターの竣工式で子ども六斎を披露するまでになりました。そうして、子ども達は自信をつけていきました。

これらの取り組みを通じて、子ども自身が感じ学んだことは次のようなことがありました。

  @ 生まれ育った地域の人々の姿勢から差別に立ち向かう姿勢を学び取ったこと。

 A 地域の人々の自信を誇りに触れ、自分達の中にもそれらを芽生えさせたこと。

 B 人々が助け合い、励ましあってきたあたたかい心を感じ取ったこと。

 C 地域の人々が守り、育て、大切にしてきたことに対する愛情とか地域を大切に 思う心を育んでいること。

この4つのことが子ども達の成果として現れてきました。

 その後、子ども六斎会というかたちにして発足したのです。子ども達から、ぼくらも六斎がしたい、太鼓を叩きたいという声が自然にでてきました。そして、子ども達に六斎を習わせてあげたいという先生方の熱い思いが地域の人々の心を動かしました。

 子ども六斎は、単に技術を習得するだけではなく、子ども達に人権を守り育てる力、連帯する力を育て、さらに、我がまちに誇りを持てる子どもを育てていこうという目的で取り組んできました。

 1995年に子ども六斎会をサポートするために、六斎保存会を中心にして保護者会、隣保館、小学校、中学校、学習センター、同盟吉祥院支部といった人々が、吉祥院子ども六斎運営委員会で、継続的に練習内容、指導方法、目指すべき方向性について毎月2回の練習の後に運営委員会を開催して議論し、バックアップが図られています。

 六斎保存会と子ども六斎会とは別々の組織ですが、活動はいっしょにさせていただいています。現在は小学校から高校の生徒までの30名が在籍しています。子ども六斎OBや保存会の指導でめきめきと上達し、リベレーションフェスタや京都市バス開業70周年記念イベントにも呼ばれて、出演しています。ボランティア活動としての出演も行っています。また、8年前に立ち上げた人権啓発組織の地元のふれあい吉祥院実行委員会では、イベント事業、学習会事業、組織強化事業の3つの事業を行っていますが、イベント事業のふれあいジャンボリーにも子ども達は毎回出演させてもらっています。

 児童公園を再整備する運動が立ち上がったときに、子ども達が「わがまちの誇り、吉祥院六斎念仏」という陶盤壁を作って公園に設置したりして子ども六斎会の活動を盛り上げてきています。

 ここで「子ども六斎会」を観てください。(上映時間は約3分間)

 

(4)吉祥院六斎念仏資料室の紹介

 地域でワークショップを開催して、意見交換を行ってきて、昨年に子ども達のテープカットで資料室をオープンしました。コンセプトは次のとおりです。

   @ (伝)人権文化を伝えるスペース

   A (知)地域の歴史を知るスペース

   B (触)伝統文化に触れるスペース

   C (感)人権文化の大切さを感じるスペース

 小学校、中学校のフィールドワークの場、周辺企業の啓発の場等に利用されています。今後、吉祥院の六斎念仏をアピールすることで、まちづくり、ひとづくりを考えていくきっかけとしたいと思っています。

(5)獅子の如く 

 結びに、吉祥院子ども六斎会の詩「獅子の如く」を高校生の高橋佐枝さんに朗読していただいて、プレゼンテーションを終わります。

 

         「獅子の如く」

      差別に挑む 歴史を生きて

             自らの手で 熱き想いで

      さら地に返り 新たに創り上げた文化

 

      わたしは その想いを引き継ぐ

 

      舞台に上がれない 悔しい想いの中

      身体が震え 涙が流れた

      差別と共に生き 闘いの中で生まれた

 

      私たちは誓った この火を消すまいと

 

      不安を吹き飛ばし 希望を育み 新たなる 歴史づくりへ

 

      六斎は伝える 差別の厳しさ つらさを

 

      獅子の如く 闘いを挑み 差別と闘うために

      もう涙は流すまい この姿を見てほしい

 

 

2 シンポジウム

(1)吉祥院六斎念仏踊りの獅子実演の解説

 獅子の頭と後ろを演じている若者2人が、解説を交えながら、獅子の実演を行うとともに、思いを語りました。

(2)吉祥院六斎念仏の歴史

灘本 吉祥院六斎念仏は、部落の中からできたというわけではなくて、京都の中にあって、そこに部落は参加できませんでした。おそらく、明治の解放令を足がかりにして参加することができたと思います。その後、周りの六斎念仏は廃れていって、吉祥院六斎念仏だけが残りました。部落固有のものとして出発したのではなく、一般的な日本の文化として存在したものが部落のなかにできてきました。その経緯が部落差別と深い関わりがあって、現在の地域の活動も歴史的教訓として今に至っているということです。

(3)子ども六斎を立ち上げた経過

灘本 まず、子ども六斎を立ち上げた経過を石田さんから紹介していただけますか。

石田 学校の裾野学習の一環として地区の文化を調べようとしたことがきっかけです。学習センターで子どもたちが手作りの獅子、服、鐘を作りながら、始めていきました。子ども達が受け継いでいこうという気持ちが高まっていきました。そして、本物の太鼓を叩きたい、獅子を触らしてほしいということになって、六斎保存会に協力してもらって始めたのが8年  前です。技術も上達して、今後、本物の子ども六斎をやっていくためには笛、鉦をクリアーしていかねばなりませんが、六斎保存会とともに活動しているところです。

(4)部落問題の認識との関わり

灘本 六斎念仏と部落問題の認識との関わりはどうでしょうか。

石田 子ども六斎を始めるときに、活動すれば、部落の子と分かるということで、親が反対したこともありましたが、学校の先生方からの部落差別に打ち勝つようにならなあかんよという教えもあって、子どもたちに意識が芽生えてきました。それに親もついてきたんです。大人の六斎保存会では、1980年に解放同盟の支部を立ち上げたときに、この町内では部落解放運動はいらないということで、町内から脱退していった人がいました。中心的に六斎をやってきた人が脱退したことで一気に六斎の火が消えていきます。そこで、当時の青年達が保存会に入って、盛り上げてきました。吉祥院が農村部落で古く、大きな家が多く、また。改良住宅が建たなかったということもあって、六斎念仏の資料が残っていたことも幸いしました。部落解放という意識も強いです。

(5)子ども達が感じた六斎念仏の魅力

灘本 子ども六斎の子ども達はどこに魅力を感じているのでしょうか。

石田 学習センターで子ども達が手作りで獅子、服、鉦を作ったり、歴史を学んだりした経過があるから、続いていると思います。また、太鼓を叩けるということも魅力だと思います。

(6)改良住宅が建たなかったことによるまちづくりの影響

灘本 吉祥院地区には改良住宅はありませんが、改良住宅が建たなかったことによるまちづくりの影響はありますか。

石田 吉祥院は改良住宅が無い地域です。支部も人口流出を防ごうと改良住宅を要求してきた時期もありますが、住宅地区改良法の手法が合わなかった。若い人が結婚でいろんな所に住むんですが、地域の中に六斎念仏という部落の文化があることによって、出て行った人たちが文化を継承しようという思いで集まってきます。独特なまちづくりだと思います。改良住宅がない地域・吉祥院では、地域間の交流ができるんです。農地が宅地になって、マンションとか建て売り住宅ができ、地域外の人が転入してきて、交流ができてきます。こころふれあうまちづくりというスタンスで、ふれあい吉祥院実行委員会を立ち上げて、部落問題やいろんな問題を取り上げています。

(7)吉祥院のまちづくりと文化の継承

灘本 吉祥院は、六斎念仏という文化を継承されて、それをまちづくりにつなげてこられたわけですが、吉祥院のまちづくりと文化の継承をどのように考えますか。

山内 部落の「技」を久々に観た気がします。本物を伝えるということで、本日は良かったと思います。部落の者が技術を後世に伝える代表的なものとして、中世の庭造り、近世の解剖技術がありますが、本日も本物を観ました。

石田 部落の歴史という点からみて、文化というところにしぼっていくと、七条には柳原銀がありました。吉祥院には六斎念仏が伝承されています。柳原銀行は静の文化、六斎念仏は動の文化です。六斎念仏は、いろんなところに出て行って、アピールできます。同じ文化でも違うところかなと思います。

灘本 部落に固有の文化はないという話もありました。文化財の指定を受けているのは、柳原銀行と六斎念仏ぐらいです。その他の地域でもあったと思うんですが、例えば竹田の子守唄とか。これからの啓発とか歴史の研究となると、各地区の特徴を捕まえたものを考えていかなければならないと思います。もっと自由に議論ができれば、何かでてくるのではないでしょうか。

石田 吉祥院のまちづくり、ひとづくりを数年前から取り組んでいます。六斎念仏も継承しています。資料室もできました。これを地域の中だけに収めるのではなく、アピールできるというところに繋げていきたい。具体的には、地域に8つの六斎念仏がありましたが、これを復活できればいいかなと思います。NPOの吉祥院の六斎念仏を作って、企業の方とかにも支援をしていただいて、文化の伝統を地域で盛り上げていきたいなと思います。もう1つは、以前は清水寺とか東寺とかに六斎念仏が出演していた時期もあったという資料が残っています。これをプロジェクトを組んで、復活させたと考えています。

灘本 外向けにアピールしていこうということは、力強く感じます。20〜30年前の部落研究は、いかに差別されたかという資料発掘があって、差別を掘り起こしてきたんですが、これは  これで意味がありました。1980年代になって、部落の歴史の中に誇りを見出そうということになって、文化のことを拾い出してきました。意義があったと思います。吉祥院について、部落の固有の文化だから値打ちがあるということではなく、他が廃れる中で、高い水準のものを継承発展させてきたことに意義があるのです。子ども六斎にとなりまちの同じ小学校に通う子どもが参加したいと言ったらどうなるのですか。

石田 8年前に子ども六斎を発足させたときに、そういったことも目的にしていました。大歓迎です。8年前に初めて子どもを舞台に上げようとしたときに、女の人は舞台に上がれないということがありました。「獅子の如く」という詩を読んだ子が初めて吉祥院天満宮の舞台に上がりました。

灘本 これまでは、吉祥院の六斎念仏は、差別の歴史を背負ってきましたが、今後、差別意識が薄くなってきたときには、部落差別との関わりはどうなっていくのでしょうか。取り扱いがむずかしくなってきたなと思います。闘いによって、差別をなくす段階は終わっているかなと思います。

石田 思いは持っていきたいなと思います。ただ、部落差別があったから、こういうものをやってきたという売り文句はしないでおこうかなと。NPOを立ち上げたときは、気持ちとしては持っていきたいが、表には出す必要はないと思います。

山内 実演を観て、六斎念仏をめぐる吉祥院の差別を跳ね返すという100年ぐらいの問題については、一定のけりがつきました。次のストーリーをどうするかを考えますと、NPOということで社会貢献するんだと方向があります。いったん廃れたところに、これは良いものだから伝えていこうという次のストーリーに入っているんだと思います。これを我々は生かしてどう他の人といっしょにやっていけるのかと。

(7)まとめ

灘本 いよいよ新しい道を模索していく時期に入ってきました。六斎念仏の話を聞いて、新しいことが見えてきたかなと思います。ここ何十年かの部落解放運動は同和事業の推進と表裏一体としての運動だったというものさしでいけば、吉祥院は比較的地味だったと思います。ところが、長い目で見れば、同和問題を解決していくにはどんな道筋がいいのは、渦中にある我々は見定めがたいところがありますが、従来の箱物中心でやってきたところは、失速してきています。これまで、地味だとみられてきたところでの取り組みは、これから光が当たってくるのではないでしょうか。特に吉祥院の試みは、部落差別をなくしていく力にもなるけれども、それにとどまらず、社会に貢献したり、社会に認められていく方向性をもっていると思います。そこに惹きつけられて、若い人が入ってくるのです。

吉祥院の試みは、非常に面白いし、吉祥院に続く地域なり、活動なりが、どんどんと生み出されてくれば、良いことだと思います。

 

                                                          以 上

 

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