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第55回人権交流京都市研究集会

  3分科会

多文化共生・フィールドワーク

 

                会場 中会議室

               フィールドワーク/東九条地域  

           

 

 分科会責任者 :前田 恵美(京都市立美豆小学校)

 

 

●講 演 :前川 修

(希望の家[地域福祉センター希望の家/希望の家児童館]館長)

 

「東九条の歴史と希望の家の取り組み」

 

司会進行:小泉 茂雄(京都市立修学院中学校)

記録:石橋 沙理(京都市立勸修小学校)

 

  ●フィールドワーク

東九条地域フィールドワークに学ぶ

 

はじめに

本分科会は、これまで「共に生きる社会を目指して」をテーマに、議論を深めてきた。

具体的には、外国籍・外国にルーツをもつ市民に対する差別の実態から学び、民族や国籍の違いを認め、相互の主体性を尊重し、共に生きること、外国籍・外国にルーツをもつ児童生徒のアイデンティティの確立、学力保障、また生活をどのように支えていくか、さらにマジョリティーである「日本人」側の差別意識を如何にして払しょくし、共に生きられる社会・学校をどのようにしてつくっていくのかについて、議論を深めてきた。

近年は、在日韓国・朝鮮人の人権に関する問題に加え、多国籍化、多文化が進む中、所謂ニューカマーと言われる比較的最近日本社会で生活するようになった市民の人権、かれら/かのじょらが学校や社会で感じる課題についても議論を深めてきた。

今年度の第3分科会では、「多文化共生・フィールドワーク」をテーマに、東九条の歴史と東九条で生活支援、教育支援を実践されている希望の家(地域福祉センター希望の家・希望の家児童館)所長の前川修さんによる「東九条の歴史と希望の家の取組」と題した講演を聞かせていただいた後、東九条地域のフィールドワークを実施した。

以下、講演内容、フィールドワークの様子、そして参加者の感想を踏まえ、次回への引継ぎ事項の整理をするものである。

なお、前川さんの講演については、「戦前の東九条」「オールロマンス事件と東九条」「同和対策と東九条対策」「市営住宅建設と同和対策事業の終結、多文化共生の取組」の視点でお話を頂いた。以下、その概要を示す。

 

●戦前の東九条

1902年の地図を見ると、東九条地域は畑であったことが理解できる。しかし、1912年の地図では、少しずつ建物が建ち、人が住んでいたことが分かる。更に1936年の地図では、人家に加え、工場が多くみられるようになる。

また東九条地域と崇仁地域との関わりについて、1900年の「旧穢多ニ関スル調査」では、崇仁地域密集により、また1914年の「移転改築願書」では東海道本線の拡幅工事により、崇仁地域のお寺が東九条に移転したり、崇仁地域出身者が東九条に土地を持っていたり、住んでいたりしたことが理解できる。

米騒動後に行われた「細民集団地域調査」には、東九条岩本町とあり、崇仁地域と東九条地域を一体として捉えられていたと言える。

1937年実施の「市内在住朝鮮出身者に関する調査」では、すでに東九条岩本町、東九条上殿田町、東九条松ノ木町、東九条柳下町、東七条川端町には、多くの朝鮮人が居住していることが理解できる。更に、1940年に実施された「京都市に於ける不良住宅地区に関する調査」によると、京都市地域の被差別部落、またその周辺に在日朝鮮人が在住していた。即ち、鴨川は当時暴れ川と言われ、その周辺にはなかなか人が住まない、住みにくいところであり、日本社会から排除された朝鮮人は、結果として居住せざるを得なかったのである。

 

●オールロマンス事件と東九条

 オールロマンス事件は、1951年、京都市の職員が著した「特殊部落」に起因するものである。雑誌『オールロマンス』に掲載された「特殊部落」は、そのタイトルから、部落差別が取り上げられたように言われてきたが、実際に「小説」を読んでみると、登場人物のほとんどが朝鮮人であり、密造酒を製造する朝鮮人と警察とのやりとりが主要なテーマと言える。

事件当初、京都市の「オールロマンス事件関係昭和廿六年度同和係(下書き)」には「本事件の内容が虚偽誇張に満ちている(中略)又一方他区の実態が記事の中に断片的に事実存在している傾向があり、その地域が一般地域に比して生活環境の水準が低いことから差別問題が存在している」と記されている。当時の崇仁地域の住民は、この「小説」の内容に対して「事実とは異なる。」という憤りや異議を唱えたという。

戦後、崇仁・東九条地域の密集化が進んだ。バラックが多く立つ1959年に、希望の家が東九条地域に誕生し、神父は子どもたちを集めて遊んだり、勉強をしたりした。

バラックが並ぶ状況を変えたのが、東海道新幹線の建設と言える。新幹線建設による立ち退きでは、多くのバラックが撤去され、あらたに改良住宅が建てられることになる。東九条にも北河原市営住宅(現在は解体)が建設された。また新幹線建設とともに立ち退きが進むことで、手狭になった崇仁地域には人の流入する余地がなくなったため、東九条地域に、仕事を求め、また住まいを求めて人が流入し、密集化が更に進むこととなった。

 

●同和対策事業と東九条対策

1967年富井京都市長(当時)は東九条の実態を踏まえ「私の在任中、今の任期中に解決とまではいかなくても、対策を軌道に乗せるつもりだ。」と発言し、1968年『東九条地区予備調査報告』(以下:「調査報告」)が発表された。「調査報告」には、「東九条地区住民の生活上の実態は、憲法に規定する基本的人権並びに社会福祉に係る重要な問題である。」と記されたが、実際に問題解決のための対策実施には至らなかった。

これは、1965年の「同和対策審議会答申」の後、1969年「同和対策事業特別措置法」施行により、全国的に推進された同和対策事業と重なっていたこと、さらに1971年京都市が作成していた「東九条地区社会福祉パイロットプラン」には、「同和地区に芽をふき、培われていった社会的秩序ないしは道徳的紐帯は、スラムにはなく、ましてみずからが誇り得べき同和地区に伝わる伝統的風俗習慣や、文化遺産というべきものの数かずは、かってスラムに生まれたことはなかったし、今後も生まれることは非常に困難なことである。(中略)(東九条においては)社会的秩序の喪失、道徳的規範の欠如、地域の歴史とかかわりの少ない存在、文化ないしは遺産との無縁、近隣との疎外性―これらの克服の努力の過程をスラム対策の基本に盛り込むことは重要なことである。」とされ、東九条地域の実態は自己責任であり、住民の道徳的・倫理的問題、文化的問題であり、それらに対する涵養が必要であると述べられている。

即ち、同和対策事業は推進された一方で、東九条地域の実態は、自己責任とされ、公による対策は無視をされたといっても過言ではない。

 

●市営住宅建設と同和対策の終結、多文化共生の取組

 バブル期当時、東九条地域においても地上げが行われ、市営住宅建設とともに地上げ対策が課題となり、住民運動が盛り上がった。その後、市営住宅が建てられていくこととなる。19957月東九条市営住宅、2002年南岩本市営住宅、2004年高瀬川南市営住宅がそれぞれ竣工した。

 20023月の同和対策事業終了の後、2008年にはコミュニティーセンター(旧隣保館)と生活館(東九条)から市職員が撤退することとなる。

2011年7月に京都市地域・多文化交流ネットワーク促進事業を公募型プロポーザルで希望の家が受託し、現在、外国人と共に生きること、外国の文化を知り尊重する多文化共生だけではなく、「障がい」のある市民など幅広い多文化共生のさまざまな取組を行っている。

「パイロットプラン」で東九条に文化がないと言われたが、東九条春まつりや音楽祭、東九条地域・多文化交流夏まつりを実施するなど、多くの文化が育っていることを知ってほしい、そして東九条で行われる取組に、より多くの市民が参加してくれることを願っている。

 なお、朴実さんによる全体集会の記念講演「共に生きる社会を求めて〜東九条マダンに託す願い〜」で語られた「東九条マダン」は、1993年10月にはじめて行われ、2023年までに31回開催された。毎年11月に行われる東九条マダンは、東九条に根づいた文化ということができる。なお、東九条マダン趣旨文には「民族的立場の違いだけでなく、様々に立場の違う人が生活しています。被差別部落民、障害者、老人、子供……。もちろん、それらの人々を含めた総体として、この街はあります。立場の違いによって私達を隔ててきた壁を取り除き、相互交流、相互理解、相互発見にもとづいて”他者”同士がともに生きる共生の場こそ、喜びと希望に溢れた場なのだと思います。すべての私たちの共生を確かなものにし、一人一人が自らの生を確かなものにするために、この東九条の地に文字通りの”一つのマダン(広場)”を実現できればと思います。」と記されている。

●東九条地域のフィールドワーク

  前川さんの講演での学びを踏まえ、実際に東九条地域に存する 「コミュニティカフェ・ほっこり」「京都市地域・多文化交流ネットワークサロン」「東九条市民文庫・マダンセンター」「在日大韓基督教会京都南部教会」「京都コリアン生活センター・エルファ」「旧松木町40番地および東松ノ木市営住宅」の6施設を3つのグループに分かれ、朴実さん(ハンマダン・京都東九条CANフォーラム)、村木美都子さん(NPO法人東九条まちづくりサポートセンター)、宇山世理子さん(京都市地域・多文化交流ネットワークサロン)による案内で、フィールドワークを実施した。

また、「コミュニティカフェ・ほっこり」では、小林栄一さん(NPO法人東九条地域活性化センター)から、また「京都コリアン生活センター・エルファ」では、南c賢さん(NPO法人京都コリアン生活センター エルファ事務局長)からそれぞれ説明を受けた。

なお、各施設に関する説明については、「第55回人権交流京都市研究集会」冊子P.81を参考にされたい。

 

参加者の感想

本分科会ではフィールワークの人数集約のため、事前予約をお願いしたものの、午前中の朴実さんの話を受け、「是非フィールドワークに参加をしたい。」と当日参加された方もおられた。以下参加者の感想を一部抜粋して示す。

「私は在日コリアン3世ですが、朴実さんの生きざまは在日朝鮮人の歴史そのものです。たくさんの方にお話しを聞いて頂きたいです。ワダサムの公演最高でした。」「全体会で朴実さんのお話を聞きました。私自身在日朝鮮人3世で日々活動しながらも、日本社会の行き辛さを痛感しています。1世や2世の方の話を聞く機会も少なくなっている中、今日のお話を聞くことが出来、とても良かったです。より多くの方に聞いてほしい話でした。とても心ゆさぶられました。」「大変充実した内容でした。朴実氏の講演、実際に経験されたことをお話くださり、もっと学ばないという思いが強くなりました。「これは差別だ」といえなかった、そのことが恥ずかしかったという言葉が忘れられません。音楽、講演など多様なアプローチもよかったです。」「朴さんのご講演が、これまで知ることのなかった厳しい実態をお話されていたので、その苦しい状況を思うと身につまされる思いになりました。これからの時代二度とこのような社会、生きたいように生きられない人々がいるような社会には絶対してはいけない。差別のない社会をつくるために、これらかの時代生きる私たちの責任は重いと考えます。そして誰もが自分に誇りをもてる、尊重される社会を創りあげる責任を果たすことが、この集会に参加する意義だと思います。」と午前中の朴さんの講演会の感想が示されるとともに、「心を動かされ、知識を得、実際に歩いて確認ができる大変学びを多い分科会であった。」「全体会、分科会で自分の視野がすごく広がりました。」「もっと時間がほしいくらいでした。朴さんのお話は大変心にひびきました。ぜひ生かしていきたいです。」という感想が寄せられた。

このように、午前の全体会での朴さんの講演と、午後からのフィールワークとがつながった学びの多い分科会となったと言えよう。

本分科会では、差別の実態から学び、外国籍および外国にルーツをもつ市民と共生できる社会づくりのための発信に引き続き努めていきたい。

 

最後に

京都市地域・多文化交流ネットワークサロンが、2012年4月に研究事業として聞き取り調査委員会を設置し、東九条地域で生活されてきた方、東九条に関係する方への聞き取りを行い、その体験や記録を伝えるため次世代に残すため、2013年に『東九条の語り部たち』が、2016年に『東九条の語り部たちU』が刊行されている。今回講演をお願いした前川さんも委員会の一員である。東九条在住の人々が自分史および生活史を語っておられ、多文化共生が強く問われる現在、ぜひ手に取ってほしい研究成果である。(冊子については京都市地域・多文化交流ネットワークサロン075-671-0108にお問い合わせください)

  

 

 

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