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第42回人権交流京都市研究集会

  分科会

「水平社宣言の精神を受け継ぐ運動とは?」

 

                会場 大谷大学2号館2301教室  

 

シンポジウム

    「水平社宣言の精神を受け継ぐ運動とは?」

コーディネーター  

  訓覇 浩(真宗大谷派解放運動推進本部委員)

パネリスト

  宮崎 茂 (NPOあかしあふれあいネットワーク・部落解放同盟西三条支部)

  石田 房一(NPOふれあい吉祥院ネットワーク・部落解放同盟吉祥院支部)

  淀野 実(京都市文化市民局人権担当部長)

  浦川 治造(関東ウタリ会会長)

 

 

〈浦川治造〉

生まれは北海道の浦河町。名前も浦川です。アイヌの歴史について所々しか語れないが、聴く法がうまく聴いてほしい。俺は字が書けない。親から教わったこと自分で見てきたことやってきたことしか語れないのでよろしく。親は、狩猟民族であったアイヌ民族が、狩猟を禁止され大変な苦労をして、差別されたと言うこと。明治時代に土地をのっとられ、農業をやれということに逆らうとさらし首にされた。屯田兵には良い土地を与え、そのためアイヌは貧乏で、差別だけを受けた。俺の年代の頃は、アイヌとして育てると差別しかないから、アイヌ語も教わらなかった。逆に今の若者は、10年くらい前から、都会でもアイヌ語を学んでいる。北海道でも20年前くらいからアイヌ語教室を開いているようです。どこから語るべきか、迷うほどの15分ですので。

俺の子どもの時も、雨降りと、冬しか学校行けない。その時だけ行ってもさっぱりわからない。だから、先ほども行ったように学校には全然行っていない。

事業がオイルショックなどで、できなくなり、手ぶらで東京に出てきた。

昭和60年にやっと、自分でまた事業ができるようになった。少し余裕ができて、いろいろな人と話ができるようになった。話をすると、部落の当事者だって言う人がいた。同和問題とかはさっぱりわからない。アイヌ民族も同和問題も差別だが、50歳になるまで知らなかった。在日朝鮮人の問題も山小屋で知り合いが一晩過ごし、そのころ知った。

どういうわけか、内のムラに在日朝鮮人がたくさんきた。家族で引っ越して生活していた。自分たちも差別を受けていたから、お互い差別はしなかった。自分の山小屋で、今でも学校法人として認めないし。

今は、国に対して、北海道は貸したわけでもない、売ったわけでもないから、アイヌ民族に年金くらいくれよ、と言っているが、聴いているのかどうか。日本はまだまだひどい国だ。だから、こういう問題というのはみんなで協力してなんとかしなければと思う。

なぜ山小屋をつくったかというと、20年くらい前から、話し合いができる場所がほしいと思っていた。あと、世界の人が、そこに来て、ホテルのようにきれいじゃないけど、うちにきて、泊っていけ、と、そういう考えでつくった。1000坪ほどかりて、千葉に今、自分で働いた金で、いろいろ作って。去年から国際フォーラムとして相撲をはじめた。スポーツをしながら楽しい試合をしたいと前から思っていた。遊びに来てもらい、どうしたら世界の差別を受けた人々が、オーバーなこと言ったら、サミットをして、どうしていくべきか話し合う。それが、俺のたくらみ。今年は第2回目として、たくさんの人。1016日だと思う。3月中にはパンフレットもできますので、30人くらいは寝れるところはあるので、来てください。

昨日も、在日の人も寄り合うところ必要と言うことなので、土地さえあれば、俺で、この年寄りで良ければ何でもしますので、何でも声をかけてください。柱の何本でももっていきますので、俺を使ってください。

 

〈石田房一〉

 吉祥院の歴史を学ぶことで部落問題を考えていこうと言うことで、16年前に「吉祥院ふれあいネットワーク」というまちづくりの団体をつくり、そこで活動している。昨年41日に吉祥院六歳念仏の高校生や大学生をまきこんで、研究会を立ち上げ、運動の難しさ、人材育成の難しさ、吉祥院は伝統芸能と向き合うことで部落を学ぶ。会員13名「獅子のごとく」歴史的調査、歴史的意義を市民に知らせる取り組み。

パワーポイントで吉祥院の歴史について語った。

明治、清水に上がるとき京都市内の六歳が全て集まって、清水に上がり奉納される。六歳組に上がれるかどうかで、トラブルけんかがあった。大正時代、子どもが、わら草履、学校の先生から、そこの子どもは足でも六歳をしている、という言われながら登校した。

明治、桂川と西高瀬川に囲まれた吉祥院だったので、水害が多かった。六歳をやって、川が決壊しても六歳をやめなかったという熱い想いがあった。

人権文化として発信。いろんな団体を支援して、ふれあい交流の拠点にしていきたい。重要無形文化財に指定された。41日からのいきいき市民活動センター。六歳の展示や歴史的意義を発信していきたい。地域の活動と人材育成の取り組んでいきたい。差別の歴史が文化財の伝統を引き継いだという想い。部落問題は大事な取り組みなので、人材育成に取り組んでいきたい。

 

〈宮崎 茂〉

あかしやふれあいネットワークのきっかけ。1995年に京都市内の事務局長になり、自分の中で、このまま運動を続けてきたら必ず衰退がくる。弱い者は必ず、束になる必要がある。また、部落問題は、部落だけにかたまったら、かならずねたみがくる。改良住宅の建設に際しても、なぜ、この地区にこれが建つのかということを知らせる啓発予算をつけるべきだと言ったが、京都市は、属地属人主義で、施設を建設してきた。

1995年から学区に打って出よう。お年寄りの昼食サービスをはじめ、学区との交流をしてきた。各地区の生活支援構想を立ち上げた。私は運動というのは、考えていくと裾野を広げていかなければと思い、分科会パネラーとして出させてもらった。

これからの運動は「福祉で人権のまちづくり」というキーワードでやっていこうと。

同和行政がたたかれ、タブー視される傾向が京都市に蔓延しているが、これまでやってこられた方々は、誇りを持ち、やり方にまちがいがあったとしても、同和行政そのものを否定するべきではないと思っておられる。私もそう思っている。むしろ、まちがいは、運動側にあると言い続けてきた一人である。それは、運動側が解放が目的で要求は手段だといいながら、それが逆さまになってきた。自分たちの要求が貫徹していくことが目的になってしまい、それが、どう解放に結びつくのかという視点がなかった。理論的にも、そのことが、「差別の結果の低位性」と言ってきた。しかし、1995年くらいから、それは違うと。「差別の結果ではない」と。差別が原因でこうなったが、結果と原因は違う、と言い続けた。差別の結果をもって、役所と交渉したらそれは、差別賠償論になる。差別の結果、学校に行けなかった。貧乏になった、だから補償しろと言うことは、賠償論になる。むしろ、差別が原因してこういう結果になったんだ。そしたら、その原因を取り除くために、自分たちに非はないか、やらなければならない課題はないか。役所にやる課題は何なんだと、そうすると10対ゼロの関係から割合が変わってくる。そうすると、交渉で「10の責任を問う」という行政責任万能論でぶつけてきたことは、結果として要求は通ったけど、その過程の中で、魂が失われてきたと思う。それが、自力自闘という、水平社宣言の精神というところで欠落してきたのがここで書いた内容。行政の限界については、1995年、少なくとも新しい法律ができた1997年に感じていた。

行政の目的が格差是正であるかぎり、格差が縮まったら役所はそれでOKなんだと。これを自分たちも矮小化してきたし、行政も矮小化してきた。これは、解放が目的になっていなかった。もう一つは、同和行政の対象が、同和地区の対象になってしまった。これは、属地属人の問題ですが、同和地区を対象にやってきた。これは先ほどの、アイヌのひとたちが、東京や関東を中心に頑張っておられる、いわゆる、同化政策というのが進められていくのですが、私は、アイヌのウタリ対策と同和対策の大きな違いというのは、同和対策というのは、属地属人を引かざるを得なかったという限界性。もう一つは、同和行政の手法が特別対策の行政として偏ってきた。本来は、一般行政の補完行政と特別行政を併せてやっていくのだが、特別対策は目的が達成されたら終わっていかなければならないところ、これを役所は、特別対策でやって、一般施策でやってこなかった。今回、一般施策でやるといって、ほとんどやっていない。これが、同和行政の限界。

で、運動の限界は、行政万能論。役所に、「同対審答申読んだのか。そこに書いてあるだろ、特措法どうする?」と、役所にそれを強調する余りに、運動が行政を依存してきた。ここでまちがってはいけないのは、私は、住民が行政に依存するのは当たり前だと思っている。住民は行政を信頼するし、頼る。しかし、運動が行政に依存してはだめだと言ってきたけれど、結果的に、運動が行政に依存してしまったところがあるように思う。それを、今の京都市は、それもこれも全部込みにして、依存体質が問題だという。行政万能論の限界であり、運動の弱体化、衰退となってしまう。自分たちにできるだけの力をつけてきてなかった。この結果と原因をしっかり慎重に考査しないと、これからの解放運動というのは、続いていかない。差別について、原因を探ると、自分と相手とお互いに検証するので、そうなれば、学区の人たちと、地域生活圏域がこれからの解放運動のベースだと思っている。それには、周辺の人たちとの共闘が必要だし、結果という理屈で周辺の人たちとの連携はできない。原因はひょっとしたら自分たちの側にもある。そのことは、人権問題の重い軽いはないと言いながら、私たちの運動はこれまで「部落差別は最も重要にして重大な課題だ」といってきた。しかし、差別問題に、最も重要はない。全て重要だ。だが、役所の行政施策の優先順位として何をするかということを決めるだけであって、俺らの問題が全て大事なんだというと、他の問題は軽くなってしまう。それを意識したまんま、これから福祉で人権のまちづくり運動やっていこうと思ったら、障害者問題や、在日の問題や女性問題を自分たちの問題として真剣にとらえるかというと、それはなかなか、切り替えられない。

今言ったことを、実現するため2005年にNPO法人を立ち上げた。吉祥院と千本にも声をかけて、しんどかったけど、5年間、周辺のひとも呼びかけて、吉祥院は文化や教育を切り口にしたNPOでやる。壬生は、高齢者が多いので、高齢者問題。この取り組みで、繋がりの論理があらたなコミュニティを創出していくと、つくづく感じた。ここで、福祉で人権のまちづくりとは、まず、私たちの日常生活圏域とする。同和地区の支部だけでは大きくならない。これを大きく広げていくことが大事だ。このときに、自分たちの運動も、排除したり、同化をしたりするという暴力、これがどんな組織の中にも秘めたものとしてある。同じ事をしなかったら、無視する、排除する。で、同じ事をしていたらいいものだ。これは、同化政策なんですね。同化政策は、一見いいようだけど、やはり問題がある。排除するということがいけないことだとは、皆わかっているが、無視をしたり、強制して来させるということは、暴力だと思う。同化は、善人面した虐めだし、かえって良くない。ということで、僕があかしあふれあいネットワークをつくるときは、排除もしない、で、同化もしませんでした。昼食サービスで自信がついて、あなたの学区のお年寄りと交流会しませんかと言ったときに、学区連合会のお年寄りや一部の人たちは、「部落のもんと一緒に飯食えるか」という意見がありました。しかし「これは差別や」と、ここから前に進んだら、これは苦渋の選択でしたが、支部とも相談した結果、それを乗り越えようと、80代のお爺さんが、部落の人と飯食えないということは、今の時代からすると差別だ。しかし、そのお爺さんの背景が、どんな教育を受けたのかということで、そこは一歩我慢しようということで、それを乗り越えた結果、必ずこの人がえらいことを言ってしまった、えらいことを言ってしまった人の横にいて、聞いて聞かないふりをした人に、「ごめんな宮崎さんあんなこと言わして」と、後日絶対言わしめようと。で、私は、強要もしなかったし、「一緒にやりましょう」という声かけはしましたけど、当時は支部が前面に出て、支部と連合会が10万円ずつ出して、学区の体育館でいろんなことをやってきました。それが今、10何年間続いているんですが、私は、つながりは大事だけれど、繋がりを強要すると同化になるし、つながらない人間をほっとけというと排除になるので、私はまずやっていこうという中身からつくっていくことが大事だと思う。10人いたら2割は賛成、2割は反対6割は中間だという僕の理論がある。それでやっていくと、壬生にコミセンがあってよかったと、この頃やっぱり言ってもらえるし、自分たちがこの活動をやってきてよかったと、自負しています。それから、自助と公助と共助。福祉関係の方はよく知っているのですが、困難を抱えている問題を役所にふるまえに、誰かにやってもらうと言う前に、自分たちが何ができるかということを、運動がそれを考えなあかん。その運動を孤立させないためにも、NPOをつくったときに、連絡会をつくろうということでやってきました。なかなか自分たちができることも限度がある。そこではじめて、役所にもの言っていこうと。このへんを自分もせず、運動もせず、役所に言うというこれまでの万能論では、長続きしないし、周辺の人の活動とはなじまないと思う。

最後になるが、京都市で様々な条例や施策があるが、私は一般施策を活用してやっていくといっているが、何もない。やはり勉強して、自分たちの地域と学区に何が必要なのかということを的確な事実をつかまえてやっていくべきだ。京都市はいまさまざまなプランをつくっている。そうした切り替えを行っていくべきだと考えています。

同和施策はこれまで最高のグレードの施策だったが、これからは福祉施策だと思っています。その福祉施策を部落に取り入れることで活性化させる。部落にある社会資源を無にする必要はないと思う。住宅政策マスタープランを見ていたら、公営住宅2万あるが、改良住宅は都心部にある。住宅を建てずに余った土地を売ろうとしているが、こちらから提案するべきだ。

 

〈淀野実〉

 

この数年の変化はあまりにも急激な変化だったために、住民の方々をはじめ多大なご迷惑をかけた、また、部落解放運動に対しては少なくない影響を与えたと考えている。そういう意味で説明をさせていただければならない。確かに行政と運動体では違いがあるが、ただ、この理不尽な差別をなくす、個人の尊厳がまもられ安心安全に暮らしていくということは、共通の願いだと思います。法が切れ、特別施策同和行政は終結いたしております。法的政策的支援がないなかで、どのように自らの誇りを取り戻し、運動を築いていくのか、午前中にもありましたが、運動の取り組み、アイヌの取り組みをどう生かしていくのか。本日のテーマ、水平社の精神は、運動だけではなく行政の在り方も問うていると思います。そういう意味で、共通の願いを持つ行政として、これまでの反省に立ち、差別のない社会に向けてどう取り組んでいくべきかということを考えていきたいと思います。

京都市同和行政の総括。京都市は、ご存じの通り、全国の同和行政のトップランナーということで、オールロマンス事件以降、法律、国の補助もあった中で、文字通り市政の最重要課題として昭和27年度から平成13年度までに3350億円、市費を投じている。全庁挙げて膨大なマンパワーとエネルギーがつぎ込まれた。解放への住民の思いや熱意ある運動の成果として、かつて「道がある、細くなる、そこからが部落である」と言われた、きわめて劣悪な住環境、あるいは生活実態は飛躍的に向上し、押し並べて低位な実態、格差はほとんど見られない状況となっている。このことは、我が国の社会政策上、あるいは社会運動にとっても最高の成功例であったと思いますし、京都市政に於いても唯一縦割りを越えた総合行政が実現していたという成果があったと思う。ただ一方で、同和地区の現況を見ますと、人口がこの30年間で3分の1となっている。少子高齢化が全市よりも数年早く進んでいる。そしてまた市職員を中心とした中堅安定層の地区外流出によって、世帯の年収も500万円以上の世帯が大幅に減少し、低所得化している。また生活保護世帯や母子世帯も多く地域コミュニティが崩壊しているという指摘もある。このことは、属地属人主義行政の弊害であるとの意見もあるが、私は、属地属人主義というのは緊急かつ重点的に資本を集中投下して早期に地区内外の格差是正に大きく貢献したということで、ある意味その時代が必要とした者であったと考えている。むしろ現在の状況は、格差是正を急ぐ余り、例えば改良事業など画一的な手法で、集中的にまた偏重的にやってきたこと、それと、必要な時期が過ぎても漫然と同じ事を続けてきたという、そういったことが、部落の多様性やニーズの変化などに応えられなかった結果であると思います。つまり、居住者の8割を占める公営住宅では、30年経つと、必然的に高齢化、貧困化してしまいます。これは、住宅の性格としてそういうものなんです。それと併せて、地区の脆弱性ゆえ国全体の格差社会の進行、こういったものに飲み込まれた結果であったと言えるのではないか。この間の同和行政をどういう風に評価すべきかと言うこと、今言ったように、地区の中の実態、これだけではなく、やはり同和対策事業によって仕事を得た人、大学に行った人、住宅を得て転出した人、こういった方々も含めてトータルに見て、どのような成果、効果があったのか、あるいは課題があったのか、そういった観点から考えなければならないと思っている。ただ、半世紀以上にわたる同和行政を否定することにはならないと思う。部落に対する差別があり、特定地域の人が十分に教育が受けられない状態があるのは、社会正義に反している。特別な施策を講じなければならない実態があったから、その解決の為特別施策を実施してきた、そして、成果も充分にあったのも事実である。しかし、この数年を見ても、例えば市会から、法規言語も残ってきた特別施策的な事業の廃止を求めた決議が出されたり、あるいは同和補助金や自立促進援助金に対する違法判決が出されたり、そして、本市現業職員における不祥事の続発、そして、見直しても見直しても市長選挙の最大の焦点、政争の具とされるなど、同和行政や運動体に対するバッシングの嵐が吹き荒れていたというのが実情であります。同和問題は、社会問題でありまして、そういう意味では社会を構成する市民みんなの理解と解決に向けた行動があった始めて展望が開けます。逆に言うと、同和施策に対する不公平感、あるいは不信感、こういったものを持ったままでは同和問題の解決は絶対にできないということです。このままでは、これまでの同和行政の成果が無になってしまうとの思いで、総点検委員会、これは平成20年の4月に設置されたんですが、これがラストチャンスではないか。これをやりとげなければならない、というのが当時の私の正直な思いでした。総点検委員会に於いては、本市の同和行政の総括を行っていて、これは大きな成果をあげた一方、長年に渡り、過度な施策を漫然と画一的に続けたことが、行政依存を生み、また、円滑な実施を第一に、その対応・協議における閉鎖性が不信感を産んだと総括しています。この閉鎖性、市民への説得力ある直接的な説明が欠けていたゆえに今日多くの誤解にさらされていることは、行政・運動共に肝に銘じるべき事だったと思う。総点検委員会からの報告は、これまでの同和行政そのものに厳しく反省し、まずもって、市民に開かれた行政に刷新することが必要だとしている。そして、同和問題の解決は今後とも人権行政の重要な課題の一つとして、市民の共感的理解を得ながら積極的に取り組んでいくべきものとしています。総点検委員会では、6つの項目と今後の行政についての提言をいただきましたが、特に、今後の行政の在り方として、第一にオープンな開かれた行政、そして、第2に、オーディナリーな、市民の目線から見て、あらゆる意味で特別ではない普通の行政、そして第3に前例や既存施策にとらわれない、行政の行政依存からの脱却という、斬新な視点からの刷新が求められた。これは、市政全般に通ずるものであって、市政そのものの体質改善、意識改革をはかっていくべきというものでした。この6つの検討項目があるが、その中でも、運動や地域にとって最も関係の深いコミュニティセンターについて説明します。

 90年に及ぶ隣保館コミュニティセンター地区住民のよりどころとして歴史的な役割を十分果たしてきたが、この3月をもって、廃止されることになる。廃止ばかりがクローズアップされているが、これは、同和問題の解決に向けて、コミセンがこれまでの役割を終えるという逆転の発想であり、まず、同和地区の特別の施設という壁を取り除き、その上で、区域全市を舞台に、より広域的に理解を深める交流や、啓発事業を展開し、あわせて、コミセンをより開かれた施設、市民が主体的に活動する場として再生させ、地域力の向上や、市民との交流が深まることで、同和問題解決のスピードアップをはかっていくとの考えでした。この4月から隣保館は、市民の活動交流拠点として、いきいき市民活動センターとして生まれ変わります。このセンターは様々な市民活動を支援する施設として、単なる貸館だけでなく、指定管理者が主体的に運営し、地域コミュニティや市民活動の活性化に向けた地域の特色を生かした事業を実施していくことになります。そして、いきいき市民活動センターは、地域住民の自主的なまちづくり運動を支援し、市民相互間の協働の場を広げ、多くの市民が足を踏み入れ、交流理解を深めることによって、行政に対する不信感の払拭、住民の自立、ひいては部落問題の解決へつなげていくもの。今年度の同盟市協の運動方針でも、地域と周辺住民との積極的な交流をはかる可能性や、住民主導のまちづくり運動としての活動など、多くの可能性が秘められていると述べられています。具体的に、今二人からお話があったが、石田さんからは、いきいきセンターを拠点として、地域の文化である六歳念仏の保存と全市展開、差別の歴史の伝承、地域の諸団体のネットワークを土台とした人材の育成、まちの活性化を進めるという話があった。また、宮崎さんからは、いきいき市民活動センターが、さまざまなつなぎ役となって、これまでのネットワークをベースに行政施策や社会資源を活用して、福祉で人権のまちづくりを進めていくという話もあった。こういった形で、いきいき市民活動センターを活用していくということが示されたわけだが、また、それ以外の地域に於いても、あるいはまた、指定管理者としての取り組みとはならないケースもある。そういった地域に於いても、施設は残るので、地域のこれまでの活動を続け、まちづくりの拠点としての活用をしていっていただきたいと考えています。

最近は、無縁社会ということが言われている。そういった中で、共同体の繋がりを回復すると言うことは、よりよいまちづくりの大切なキーになると考えています。各支部で地域の要求に根ざして、様々な活動をされ、地域で交流を進めていることがますます大事になってくると思います。地区内外の利用により真の交流を深めていくためにも、地域の活用にその成否がかかっていると思います。廃止というのはショッキングなことだと思います。しかしこれまで意義のあった施設、あるいは施策についても必要とする時期が過ぎれば変わっていくということは仕方がないことだと思う。特別な対策の終了は主体的なまちづくりのスタートでもある。オール市民の施設に生まれ変わること、また地域が主体的に活用していくことで、あらたな展望が開かれるものと考えている。

3の同和行政終結後の取り組みについてだが、同和問題は残っているのになぜ、同和行政をやめたのか、あるいは総点検委員会は打ち切りありきの議論であって、そのシナリオ通り何でも廃止してきたという声をよく聞きます。これは、本意ではなく、一旦リセットして再構築、あるいはやり方を変えるということでありました。委員会の報告でも、京都市はこの報告にもとづきすみやかに必要な見直し改善を実施すべきであるが、単に全ての施策や施設の廃止を求めているのではなく、特別であると受け取られるあらゆる状況をなくし、必要な者は普通の行政として、市民的理解のもとで実施されることを求めていました。ここで、普通の行政という言葉にちょっと違和感を感じると思います。ただ、この真意は同和問題という社会問題の解決に向けて、市民に誤解を招くような特別扱いはやめて、その上で、普遍的な行政、つまり一般施策を駆使して、課題の普遍的な解決、全体のレベルアップをはかっていこうという考えです。ここで言う一般施策化というのは、やめるとか後退を意味するのではなく、行政としてはずせない問題とするということです。また、社会的交流の壁を取り除いて、住民が主役の多様な人が住み、コミュニティが形成された普通の当たり前のまちにしていくことであって、具体的には、属地属人主義がもたらした、同和地区内外の条件をとりはらい、人的社会的垣根をなくすことで、住民による主体的な福祉、まちづくりを支援することによって、地域力、自治能力を高め、住民の自立や市民の交流により、同和問題の理解を深め、解決のスピードアップをはかっていくということです。ただ、今申し上げたのは、私個人の考えです。ただ、これまでの同和行政というのは、いつまでたっても先が見えてこなかった。マイナス面ばかり言っていてもなかなか展望が見えてこないというふうに思います。このシンポジウムにおいてもアイヌの闘いから学び、また立場は違っても共に展望を切り開き、共に前を向いていくような議論をしていきたいと考えております。

私からの報告はこれで終えさせていただきたい。ありがとうございます。

 

訓覇 

それでは、全体の半分ほどが経過しましたので、休憩します。

 

 

前半では、それぞれ的確な御意見をいただきました。第2部ということで、もう一度水平社宣言を確認して、今回のあらためて、分科会のテーマにそった議論を、さらに進めていきたい。

淀野さん、最後の今後の具体的な取組と言うことを少し残したまま終わっていただきましたので、レジメの最後の部分、少しお時間をとっていただいて、ご発言をいただきたいと思います。

 

淀野

すいません、続きをさせていただきます。さきほどの解決の展望、これをどう道筋をつくっていくかということになるんですが、まず、法律が切れたと言うことで、属地属人の線引きが切れたということ、つまり、普遍的な行政として取り組んでいくと言うことが、スタート、ベースになるのではないかと思います。そこから具体的には、さきほど申し上げた、コミュニティセンターあるいは学習施設など地区施設につきましては、オール市民の活動拠点へと変更し、平成23年度から、たとえばいきいき市民活動センターとか教育の施設、福祉施設などに転用し、だれもが自由に使える施設、市民相互の交流や住民の自立につながる活動の場として活用していくと言うことが一つではないか。また、住民の8割を占めている改良住宅については、漫然と建て替えによる再生産を行うのではなく、中堅層がもどってこられるように定置借地権による一戸建て分譲、あるいは方別メニュー選択による住宅供給、また、お年寄り向けのストック改善、さらに空き家への留学生、子育て世帯入居などスラム化を防ぎ、若年層が流入し、多様な階層が住みコミュニティが形成されたまちを目指していくべきではないかと思う。そして、同和問題が解決した社会、差別意識の解消に向けて、いわれなき偏見を取り除き、同和問題の理解を深める啓発、交流事業の実施、あるいは市民の自発的な啓発活動の支援をすすめて、間違った考えが受け容れられない社会、こういった社会をつくっていくこと、これに対する地道な努力を続けていく必要があると思う。さらに多くの中堅所得者層、安定層の流出に伴う、地区内の貧困化、少子高齢化、低所得化などの問題については、特に同和地区に集中的にあらわれているという実態、それと、このコミセンの廃止、こういったことをふまえると、施策が○○しないようきめ細かな周知、生活現場での施策の総合化あるいは先導的な取り組み、こういったものによって、的確な対応を行っていく必要があると考えている。最後に、同和地区が、その特徴でもある共同体意識、地域の相互扶助、こういったものが、薄れているという実態がある。そういったことから、運動団体と地域団体も地域の世話役との運動の原点に返り、いきいきセンターや社会資本である地区施設を活用し、きめ細かな福祉活動、住民活動をリードしていくことで、地域力の再生、自治意識の向上をはかっていくことが望まれている、こういったとこらへんが、解決へ向けた一つの道筋になるのではないかと思う。

 

訓覇

石田さん、宮崎さんも、いい足りない部分があったと思います。何か補足があれば一言ずつどうぞ。

 

石田

同和行政の限界と解放運動の限界について提案させていただきたい。若干観点を変えて、私は、解放運動の人材育成が、本当に各支部で行われているかということを提案したい。やっぱり、すばらしい解放運動で、リーダーとして活動している方が各支部でたくさんおられるんですが、本当に、いろんな問題があり、各地域で人材が育っていないというのがあります。吉祥院でも支部員の数も減り、そういう意味では、六歳念仏で、部落問題、差別の問題、継承問題を学ばせることによって、同和問題に向きあうという取り組みをしているが、非常に社会情勢がころころ変わっているので、各組織のリーダーもターンオーバーを常に考えて運動を進めていかないといけない時期なのかと思う。私も支部に入って30数年になるが、その30年前と今では、解放運動の、活気も違うしリーダーも変わっている。その中で、宮崎さんをよいしょするわけではないが、本当に社会情勢の急激な変化の中で、本当にターンオーバー、今、やっているけれども、急に守らなければならない。ラグビーやサッカーでも、そういう意識でゲームにのぞんでいるが、解放運動もそういう状況がものすごくある。同和行政も、今、淀野さんからもありましたが、11年で変わっていますので、運動がついていっているのかな、ということもありますし、先ほど報告させていただいたように、吉祥院では、伝統芸能があるので、高校生大学生を中心にして、彼らを巻き込んで勉強させているんですが、今、あの青年を支部には行って運動しろ、というのは、なかなかきつい話です。どこか部落問題と向き合わせる環境をつくらなければということで、自発性をうながすような環境作りというのが、リーダーには必要だと思っている。そういう意味では、吉祥院の支部でも活動しています。また、NPOでまちづくり各種団体といろんな話をしているが、先ほど言ったように昨年41日に六歳歴史研究会を立ち上げて、子どもたち学生と一緒にやっているが、私の妻は教師ですが、私は教師でないので、子どもの扱いは全然わからないが、学校の先生とも一緒に話しながら勉強しているが、地域の文化をいろんな人に相談して。先ほど休憩時間に山内さんとしゃべっていたんですが、七条は柳原銀行で文化を守っていると、ノウハウを私たちの地域でもまきこんで、なんとか継承していきたいと思っています。先ほども言ったように、吉祥院だけでも8団体があったんですが、後継者問題があって、どんどんつぶれている状況があります。そんななかで、そういう状況をきちっと把握した上で、吉祥院の部落は何をしなければならないのか。先ほど宮崎産からも3つの同和地域の例が出されました。西三条については、福祉、千本は教育、吉祥院は文化と、こういう取り組みを一つ軸にして人材を育成して、まちづくりにつなげていきたいということがあります。また、いろいろ各団体と話をするなかで、くやしい思いもありましたし、差別的な意見もありましたが、先ほど宮崎さんも言いましたが、それを云々するよりやはり、わかってもらおうと。こういう取り組みをすることが非常にしんどい時期もありましたが、今は、青年も組織的にも人材がきちっとできつつありますので、淀野さんがおっしゃったいきいき市民活動センターで、どう、この思いを引き継ぐのかというのが一つの吉祥院については課題だと思っています。

 

宮崎

これは、アイヌ問題も部落問題もいっしょですが、若手の育成というのは苦労するところなんです、これは労働組合もですがすべてですが、若手の育成、若手にとって組織の魅力を取り戻すことは、これは、それだけを目的にしたら難しいと思う。かつては京都市の雇用、現業職の採用ということで、運動に入ったら、ひょっとしたら京都市に入れるのではないかと、そういう気持ちで入ってこられたことも否定できない事実だが、やっぱり、僕は人間は教育が大事だし、若い子にとっては就職だし、そして結婚だし、所帯を持っていくんですが、次ぼくは何をするかと言ったら、やっぱり結婚問題を、解放運動は、青年を育成するんなら、結婚問題を柱としてやっていこうかなと思っている。けっこうウチらの地元でも、全体もそうですが、晩婚化が進んで、なかなか結婚するのが大変だというのが事実あるので、こういうことを運動の一つの柱にしていくことも、そう言うと、また変わった男だと言われるが、そういう具合に、従来の運動スタイルでやっていても今の子どもはなかなかついて来ない。ついて来にくい、であれば、今の子の現実問題を聞いたらそれかな、と、一つかなと思っている。結婚や友情や恋愛という問題をテーマにして、青年部の子におろしていかなければと思っている。そうすると、ウチのような猫の額のような地域で、あの子とあの子が付き合うということがなかなか無理である。やはり、解放運動は市内にエリアがあるので、それを大きく広げていくのも方法だし、それが運動にプラスになったらいいし、いい意味で、家庭が成長したらいいかな、と思っている。

 

訓覇

運動と行政というある意味緊張感ある対話をしていただいた。今回分科会そのものに、単に運動と行政の在り方を考えるというのでなく、「水平社宣言の精神を受け継ぐ運動とは」というある意味普遍的なテーマを掲げている。そういう意味で、私は、行政にかかわる者でもなく、直接解放運動に身を置いているわけでもありません。いわゆる宗教者として、私なりに差別問題に向き合っているというニュートラルな立場なんですが、そういう私がコーディネーターをさせていただくということは、ひとつ、誰もが向き合い、誰もが自らの足下で、解放運動というものを照らし出してくれる働き、そういうものの象徴が全国水平社宣言ではないかと思います。そこで、ここからは、もう一度全国水平社の創立宣言と、その当時出された、決議、さらに今回は浦川さんに来ていただいておりますので、もう一度水平社創立と同じ時期に展開された、北海道旧土人保護法の同化政策というものの性質というものを共通の鏡として確かめて、そしてあらためて、もう一度みなさまにご発言を求めていくという形をとらせていただきたい。

別紙に、宣言、綱領、決議を出しておりますので、それをご覧になっていただいて、水平社宣言を朗読しますので、ここに書いていることをご確認いただきたいと思います。

 

同化政策、1899年に北海道旧土人保護法が制定されることが一つの総括、集約的な事となるんですが、これは明治に入って、すぐに具体的な施策が行われていきます。その中の象徴的なものとして、この出している資料ですが、

C(〔九年〕九月三十日達本支庁宛 1876年)

アイヌ民族に対して、風俗風習を改めるように通達したが、守られていない。いよいよこのままでは、開明の民とならないから、処分も含めて厳重な取り締まりをしていかなければならない、そういう文章なのですが、ここに「漸次人たるの道に入らしめんがため」という言葉があります。こういうような、同化をすることによって、アイヌ民族を人たるの道に入らしめようという発想がここにある。

D『北海道治概況』『北海道概況』1936年

こういうように、行政というものが同化政策をすることによって、アイヌ民族を救済していくんだということですね。それが旧土人保護法の使命だというようなことが、堂々とそのまま語られています。このような政策が1997年の旧土人保護法の廃止まで続きアイヌ民族振興法の制定でも十分この政策がもたらした被害は回復されていないのではないか、また回復することがいえない法律なのではないか、そういうことが、現在提起されています。このような歴史と、そういう歴史の中で発せられた水平社宣言、まさしく過去半世紀になされた救済を名とした行政施策、「ライ予防法」もそうだと思いますが、そういったことに対して今私たちが、もう一度、本当の行政施策とは何か、また、そういうものに向き合った本当の運動とはどういうことなのか、この水平社の運動を本当ということは別のこととして、少なくとも、今回はこの素弊社宣言を鏡にすると言うことであるならば、そういうところからもう一度、自らの運動の在り方を照らしていく、そういう作業をしていかなければならないのではないか。そのことが、このだ1分科会の趣旨であろうと思っております。

 本来は、最初に趣旨説明が行われるべきなのかもしれませんが、まずは、ご自身のおとりくみのお話をしていただいて、改めて、この宣言を確認する中で、もう一度これからの運動をどういうふうに考えていったらいいのか、そういう議論をしていただきたいと思います。それで、行政ということと、解放運動というものが具体的に出ている中で、今日は、私たち全体がアイヌ民族び取り組みからどう学ぶのかというもう一つ大きな課題をいただいております。そこで、浦川さんにご発言をいただくのですが、まずもって、私たちのアイヌ民族への同化政策、そして、そこから何を学ぶのかということを私たち側が発言しなければならないと思いますので、それを淀野さんの方から一言ずつ率直におはなしいただきたいと思います。

 

 淀野

 私、先ほど、同和行政が終結されてあらたな問題に解決に向けた取り組みということで、普通の行政という言い方をしました。これ、言葉を換えて普遍的なという言い方をしたんですけど、この言葉は、ちょっとわたし自身個人的に違和感があるのも事実なんです。「普通」というのがなんなのかという、そういう価値基準がどうなのか、と、言葉にひっかかりがあるんです。それで、今お話がありました、同化政策といいますか、融和政策といいますか、そういったものとの比較で言ったときも、一歩間違うと、同じようなニュアンスで捕まえてしまうのではないかと、危惧している。あの、1点だけわたし自身が思う違いというのは、例えばアイヌ民族の同化政策で見るように、アイヌ民族という生きてこられた文化とか歴史とか、そういうものを否定していわゆる、倭人、日本人に全てを合わせていくような、そういうものだと思うのですが、そこでは、歴史や文化を否定する、そこが一番問題なのではないかと思う。我々が言っている、普通というのは、これまでの同和地区の歴史や文化を否定するのではなしに、当然それは生かしていき、かつ、例えばまちとして見たときに、これまでの同和地区というのは、いわゆる同和対策事業でつくられたまちであります。そういう意味でいうと、ある意味優れている点もありますが、まちとして、欠けている部分とか、そういう部分もあるのではないか。それが、住宅政策に誘引されて広がっているというのが実態なんですが、そういった点を鑑みたときに、いわゆる普通のまちとしての機能、自治能力やそういったものを取り戻していくことが、普通の町になる。ちょっとこれ、言葉が悪いと思いますが、そういったものではないかと思います。同化政策と我々がめざす普通というのは、そういった文化や歴史といったものをどう評価するかというところに相違があるのではないかと思います。

 

ありがとうございます。

石田さんおねがいします。

 

全体集会で、映画を見させてもらったんですが、やはり印象に残っているのは、部落問題と同じで文字が奪われたと、いうことが、非常に印象に残っています。やはり、子どもにもそういった寂しい思いをさせたくないと自ら立ち上がった、というのが印象的だったことと、もう一つ、浦川さんが最後映画の中で、やはり、アイヌ民族同士でも仲が悪かったと、やはりいろんな取り組みをすることで、発信することで仲良くなれた、そういう所が印象に残りましたし、また、水平社宣言を読みますと、人間という言葉が10カ所出てくるんですよね。やはり水平社宣言も人間の生き様とかそういうところを訴えているのかな、と思っていますので、浦川さんもこれまで、言葉は奪われましたけど、生き様というのを生きている中で知らせているな、という、熱い思いが映画で感じました。

 

〈宮崎 茂〉

僕は、20年ほどまえに萱野茂さんか野村さんの講演を聴いたことがあって、そのときに同化政策の問題が出ていました。同化政策は、僕もあかんと思っている。文化や生活をすべて抹殺して、いわゆるアイヌ側に和人になれと、これは、すべての人格を否定することなので、同化政策には反対なんですが、どちらかの方が、融和政策だったらという印象があるんですよ。融和政策。それはね、引き合いに出されたのが、中国は少数民族の集まりだと。中国が、同化政策したら持たない。だからここの民族の習俗や言語や伝統は守りながらしているということ。そういう印象があるので、あとから浦川さんなりの考えを一度聞きたいと思っている。で、解放運動の側から見れば、同化政策も融和政策もあかんと。それは何かというと、さっきの「勦るがごとき運動が多くの兄弟を堕落させた」と。この文言というのは、水平社ができる前というのは、融和政策があって、さまざまな問題に対して、あのおっちゃんに言おうか、わしにまかせとけと、人を頼ったそういうことで、庁内に大ボス小ボスがあって、やってあげた、やってもらったという上下の運動だと。この運動では自分たちは進歩しない、だから自分たちで立ち上がって水平の運動をつくって移行じゃないか、これが、若いときに教わった水平社の理屈。そうなると、解放運動の側から見るとどっちもあかんということになるんですが、同化政策あかんと。アイヌの団体が割れているということなんですが、その辺を今日は聞いてみたい。

 

訓覇

私も発信させてもらいたいのですが、特に東本願寺は、北海道開拓に一番乗りをしたんで、まだ開拓史ができる前に北海道に入っていきました。そして、さらにハンセン病隔離政策にしても隔離政策が始まると同時に療養所の中に入っていきました。で、そういうことの中で一貫して私たちが掲げてきたことは、救済と言うことですね。で、これはアイヌ民族の方々に真宗を伝えることが彼らの救済になるんだという発想です。そして、療養所のなかでも同じ事を言ってきました。そして、療養所の中で言うならば、他の人たちがほとんど療養所に入らないような時にも、積極的に入って行って、多くの信頼を得る中で、隔離を受け容れることがみなさんの救いなんだ、隔離政策がみなさんの救済法なんだ、同化政策こそがアイヌ民族のみなさんの救済なんだということを言ってきたわけなんですね。したがって、自分たちが悪いことをしているなんていう気持ちは微塵も受け止めることがなかった、そういう歴史があります。そういうことで、私たち自身も、今日改めて、この映画を見たときに、本当に同化政策はいったいアイヌ民族の何を奪ったのか、同化政策はなんであかんかったんか、ということをきちんと今反映させるならば、どういう取り組みをしなければならないのか。まだまだ不明確なんじゃないのか。そういうことをわたし自身も感じさせてもらったということがあります。今、そういうことで、浦川さん、4名の話を受けてコメントをいただきたいと思います。

 

浦川

今のみなさんに答えるのは大変難しい。さっきも言ったように、俺はアイヌ問題を親にあまり知らされないで生きてきて、で、何を親に教わったかというと、アイヌの心として、物を粗末にするな、川や泥や道におしっこするな、それと、弱い者をいじめるな。弱い者にゆだんをするな。まあ、どこにでも親が言う言葉だと思うけど、男は一旦外に出ると敵が多いから、そういうことに気をつけろ。そういう親の教えを、俺は、本の読み書きできないから、親とか、先輩のことで、東京に出てきても、人に押し負けないで生きてきた。それはなぜか。小学校1年生頃、物心ついた頃から畑にいて、力仕事ができて、腕力が強くて、たまに学校に行っていじめられ、1,2年くらいは、周りに石ぶつけられて、アイヌ、アイヌと差別されたけど、4,5年になるとつかまえて殴られるから、俺に差別しなくなった。やはりそういうことが、やはり、勉強しないで、家の仕事を手伝い、男4人だったんですけど、三男坊なんだけど、なぜか、跡取りという名前をつけられ、それで、中学校も行けない夏場は、三男坊である俺が、田んぼ、その頃は2町ぼほどあって、馬を使って田んぼおこし、田植えまで、ずっとやってきた。それが、仕事として、どこに行っても負けるなという教え、そういうことが、どこに行っても、俺の身について、どういう仕事も1週間在ると覚え、都会に来てもやはり、仕事が負けないことで差別も受けなかった。そういうことが自分を守ってきたのかなと、思っているので、やはり、今になって、そういう山小屋を作って3カ所目なんですけど、今、山梨にも最初に立てた。そこは自分で土地を400坪買い、そこへ35坪の山小屋だけど、アイヌだけでなく世界の民族が東京に来た場合は泊ってほしいという思いでつくってあるので、2カ所目は、借りた土地だったので、5年で引き払って、今3カ所目が千葉県です。やはりそういう親から受けた教えを心に持ち、一旦言った言葉は守らなければならないという、そういうことから、始めて金がなくなると失敗したな、と思うけど、やり通してきたのは、親の教えだと思う。先ほども言ったように、50坪のようなウチは、材料持ってきて応援するというのも今もいつでもそれくらいの材料は製材で持ってますので、自分で言ったことは何とか守りたいという、子どもの頃からの心が今も持ち続けているという、それが親、アイヌの教えかなという思いを持っています。だから、やはり狩猟民族であるアイヌは、獲物を殺さなければならないわけで、獲物を殺して食うんですけど、鹿でも熊でもどんな動物でも半殺しにするな。半殺しにするのは罪になる。ちゃんととどめを刺せ。それは子どもの頃からの教え。小学5年生から、山へ行って鳥を撃ったりしていたので、そういう親の教えを守ったのが自分の身になっているな、という思いで過ごしていますので、難しいことは言えませんが、先ほども言ったように自分の見たもの、聞いたことをみなさんに伝えることです。

 

訓覇

ありがとうございました。先ほどの水平社宣言を確認する中で、もう一度これからの運動の展望をということでお話をお願いします。

 

石田

水平社宣言という宣言ですが、西光万吉さんが27歳で一気に書き上げたと聞いています。その時の社会情勢も今とは違うんですが、先ほど淀野さんと、宮崎さんの方からもありましたが、やはり、きちっと法律の整備は必要である。まだまだ差別は残っているので、我々もそういう運動、同和行政をもう一度問う必要があると思います。もう一つは、地域でそういった精神、水平社精神というのをもう一度確認して、きちっと人材に引き継いで継続して行けたらな、と、思っているんですが、やはり今、同和行政も解放運動も限界が来ているというのは、私もやはり感じている。そういう意味では、もっと、同和問題、人権問題については、双方が同じ目線で、やっていく必要があるのではないか。もっと、違う団体や各種団体も巻き込んで、やはり議論する必要があるのかな。運動も広い意味でやっていかなければならない。ただし、運動もきちっと焦点を持ってやっているので、ぶれることなくやっていきたいとは思うんですが、やはり状況を見て、先ほども言ったように、世の中というのは急激に変わっていますので、その時のターンオーバーを状況を見ながら、行政、解放運動もまきこんでいきたい。取り入れていきたいと思っています。

 

宮崎

私は、水平社精神を引き継いでやっていく一番の拠点は、やはり隣保館だと思っています。で、名前が、コミセン、いきいき市民活動センターに変わろうとも、私は、自分たちが人的配置をしている限り、学区各種の団体の人たちと協働して深化した事業をしていく。施設は福祉と人権の砦として守っていきたい。京都市にその拠点は、隣保館しかない。私はその新年は15年前から変わらない。

 

淀野

私もこれまで、何十回か水平社宣言を読んできたつもりでしたが、その意味をもう一度かみしめている。その中で、二つほど大きな衝撃を受けた。一つは、ここにある「人類最高の完成」ですね。これは冒頭宮崎さんが言われた。人権問題に軽重はない、全ての人権問題を、全ての差別をなくしていこうという、それが運動の原点と言いますか、中核だということが一つ。もう一つは、始めて知ったんですけど、第3回の大会の決議。この3つめに、「政府その他一切の侮蔑的改善策及び恩恵的施設を拒否し、その徹底的廃滅を期す」ですか。意図している意味としては、そういう,水平社そのものの決議は、運動の在り方と同時に、行政に対しても警鐘を鳴らしていると受け止めています。例えば、行政が施策を実施するに当たって、恩恵的あるいは救済的、そういった思いがあるということは、これは、正直言って否めないと思う。いまよく、「説明責任を果たせ」ということが言われますけど、税金を使っている以上この施策は何のためにするんだというときに、例えば、困っている人にあるいは、上下関係にで言ったら下の方に対して税金を使うという言い方をすれば説明がつきやすいという、そういった意味も含めてあったのではないか。言葉から言えば、施策とか施設とかの施は、ほどこすという意味ですよね。ほどこすというのは、まさしく、水平社宣言の言葉で言えば「勦るがごとき」という言葉だとおもう。すなわち上下関係という目線があったのではないかと思う。行政にとっては、そういった目線、考え方から、施策については、個人、一個の人格として対応していくという。個人の尊厳を守というそういう立場に立ち戻らなければならない。それが水平社宣言の精神に立ち戻るということなのかな、と、感じました。

 

ありがとうございます。

確かにここにあるように「侮蔑的改善策及び恩恵的施策を拒否」するのであって、行政の取り組みそのものを拒否する、廃滅せよと言っているわけではないんですね。そうすると、そうではない行政施策とは何なのかと、当然出てくると思います。

 

 

 

 

  

 

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