第40回人権交流京都市研究集会
1 「部落解放研究集会」から「人権交流研究集会」へ 本集会は昨年度、その名称を従来の「部落解放研究京都市集会」から「人権交流京都市研究集会」へ変更しました。その理由を、改めて確認しておきたいと思います。 「部落解放研究」の名のもとに実施されてきた従来の集会においても、人権確立・反差別のためにさまざまな領域で活動している人々が結集し交流することは、当然意識されてきました。ここ数年の全体集会記念公演のラインナップにそれは現れています。しかしながら主要なテーマは文字通り「部落解放」であり、集会は被差別部落に焦点を絞って課題を明らかにし、その解決の道筋を模索することに重点を置いてきました。今、部落問題を取り巻く状況はにわかに好転したわけではなく、むしろ景気の急速な悪化で社会の逼塞感が増す中、鬱憤のはけ口を求めるかのように、部落に対する誹謗・中傷はむしろ増大しつつあります。また、もっともらしい正論を装った理不尽なバッシングが横行し、部落に対する差別・偏見は社会にいっそう蔓延し、強化されつつあると言っても過言ではありません。「部落解放」への道程はまだはるかに遠く、この言葉を死語にしてはならない状況は続いています。そのことを自覚しつつ、私たちが集会名称の変更に踏み切ったのは、次のような理由からです。 多くの社会的矛盾が主として被差別部落に集中的に顕在化する中、部落解放運動、同和行政、同和教育は、連携してこうした矛盾の解決に努め、部落の住環境改善、就学・就労保障、学力向上等の成果を上げてきましたが、一方でこの間、在日韓国・朝鮮人等の民族的少数者や障害者、病者、女性など、同様に多くの社会的矛盾を背負わされたマイノリティおよび彼らを取り巻く支援者、行政・教育関係者もまた、それぞれの立場から社会的矛盾の解決をめざして闘い、成果を上げてきました。しかしながらそれぞれのマイノリティには、互いの成果に学び、刺戟を受け合う機会こそあれ、対等な立場で同じ目的意識をもって連帯し行動する機会は、ごく限られていました。「被差別連帯」という謳い文句を通じて横並びであることを意識したり、二重三重の被差別性を抱えている存在(例えば障害をもつ部落の女性、というような)を通して、互いの領域が不可侵ではない現実に気づかされることはあっても、それでもなお部落出身者は部落問題を、障害者は障害者問題を、という具合にそれぞれの領分を越えることなく、それぞれの領分における主人公の立場に囚われてきたのです。被差別の当事者が自らの解放を優先的に志向するのは当然のことかもしれませんが、それはともすれば、自らの被差別性を最深刻と捉えるあまり、他者の被差別性をいつしか軽んずる傾向を生み出しかねないものでもありました。 しかもこうした傾向は、部落問題に携わってきた私たちにこそ最も強く見られるものでした。人権課題に大小、軽重はありません。もちろん各々の課題には特異性があり、決して一律に論じられるものではありませんが、いずれも同じ社会基盤から生起し、そこに同じように差別・被差別の構図が作り出されている以上、各々の課題に取り組む者同士が互いの課題の共通性を見出し、共通の目的に向かって対等な立場で連帯し行動していくことは可能なはずです。残念ながらそのための努力が、これまでは必ずしも十分にされてこなかったのではないかという反省が私たちにはあります。 この際の共通の目的とは、人権社会の確立、あるいは社会変革という言葉で言い表してもいいでしょう。部落問題だけが解決されたとして、それは真の社会変革と言えるのでしょうか。同時進行的に他のあらゆる人権課題の解決をめざしてこその社会変革ではないでしょうか。私たちの先人たちによる「水平運動」が、元来こうした真の社会変革をめざす運動であったことを、改めて思い返したいと思うのです。 こうした考え方に基づき、私たちは集会名称の変更に踏み切りました。私たちに今求められるのは、他の人権課題に取り組む人々との対等な立場での交流・相互理解・連帯・協働を通して、部落問題を解決に導き、他の人権課題をも解決に導き、そうすることでより幅広い社会変革の実現をめざすことです。換言すれば、部落解放運動とは本来部落問題に特化した運動ではなく、さまざまな被差別マイノリティとともに社会変革を志向する「水平運動」であったことを思い出すことです。これからの部落解放運動および同和行政・同和教育の拠って立つべきはこうした「水平」な共生・協働の場なのです。そのことを鮮明にするのが集会名称変更の狙いであり、意義だったのです。 2 これからの部落解放運動 (1)京都市の横暴な「同和」切り捨て 全国各地の部落解放同盟員や京都市職員の相次ぐ不祥事を受けて、昨年2月に行われた京都市長選挙では、「同和行政」が主要な争点となりました。ここでは、長年にわたり培われてきた同和行政・同和教育の成果は全く論じられず、「同和利権」「運動団体と行政の癒着」を批判するような議論ばかりがなされました。言うまでもなく同和行政・同和教育はこれまで、部落の劣悪な住環境の改善や地域福祉の増進、不就学・長欠児童に対する教育保障などに真摯に取り組み、大きな成果を上げてきました。しかし、市長選の論戦に象徴されるように昨今は、マスメディア等による部落バッシングに迎合して同和行政の《負》の部分だけを誇張し、部落に対する政策は全て終わらせるのが最善であるかのごとき風潮が蔓延しています。京都市行政自体がこの風潮に便乗し、部落の今後はどうあるべきか、「人権」の観点に立った展望を明示することなく、問題の本質から目をそらしています。部落差別の解消どころかかえって差別・偏見を助長し正当化しかねないこうした風潮は、非常に危険なものと言わざるを得ません。 とりわけ大きな問題は、門川新市政誕生後に生じました。門川市長の諮問機関として「京都市同和行政終結後の行政の在り方総点検委員会」が発足し、第1回委員会が2008年4月23日に開催され、その後現在まで数回の会合が重ねられています。 常識的に考えて、委員の構成には大きな疑問を感じざるを得ません。委員構成について門川市長は、「市民的な理解を得る」ためとして、弁護士・企業経営者・学者・マスコミなどの代表を任命し、公正が保たれるようにしたと述べています。しかし、第1回会合では多くの委員が「同和問題については素人なので」と前置きしているのです。つまり部落問題について認識が不足していることを自覚している人々が、部落問題を議論するということです。もちろん、各方面から意見を求めることは大切ですが、こうした課題を議論する以上、当事者を委員に加えるのは常識的に考えて不可欠です。例えば、障がい者問題、アイヌ問題、女性問題など、他のマイノリティに関する課題を議論する際に、「当事者抜き」の委員会があり得るでしょうか。少数派=マイノリティに関する課題について多数派だけで議論を進めることは、「弱者切り捨て」や、多数派の独善に依拠した一方的な結果を招く危険性を孕んでいます。そうならないためにも、当事者が委員に加わるか、少なくとも十分な意見を述べ得る場が保障されなければなりません。しかし、「総点検委員会」の委員構成から当事者は除外され、部落解放同盟京都市協議会をはじめとする当事者団体に与えられたのは、11月の中間意見公表以前においてはたった一度、僅か20分ずつのプレゼンテーションの機会と、傍聴者アンケートに回答する権利だけでした。これは言い換えれば、「聴くだけ聴くが皆さんの意見は反映しません」と宣言しているも同様の、権力的な態度だと言わざるを得ません。 「総点検委員会」の議論の内容や進行のあり方には京都市の思惑が強く反映しています。言い換えれば、「総点検委員会」は門川市長の意向に沿った答申を速やかに出すことをあらかじめ義務付けられた機関のようでさえあります。一例を挙げるならば、自立促進援助金制度の見直しについての議論はたった数ヶ月間の、たった4回の委員会と3回の専門委員会で「中間報告」にまとめ上げられてしまいました。 この「中間報告」を根拠として、市議会では11月、かつて特措法があった時代に、子どもたちが高校や大学に進学する際、「返還の心配がいらない」と言われたことで「給付」と信じて受け取った「同和」奨学金について、法律が切れた今の段階で「債権債務関係は存在する」と結論づけ、新たに所得判定をして「返還」を求めていくことが決定されてしまいました。人によっては何百万円もの思いもかけない借金が突然、20代の若者たちに降りかかってくることになってしまったのです。 そもそも自立促進援助金制度とは、1982年、国の奨学金制度が給付制から貸与制度に変わり、京都市も貸与制度を採用した段階で、実質的に給付制度を維持するために、個人で借りた奨学金を返還する際に、「自立促進援助金」という名称の補助金を執行し、返還にあてるという方法を採用したものです。自立促進援助金の予算執行については、奨学金を借りた段階で、一括して京都市に委任するという方法をとっていたので、奨学金を受けた人の手元に(卒業後)その援助金が入り、借受者自身が返済するということはなかったわけです。その意味でも、本人の自覚ではあくまでも「給付」が保障されていたということです。 しかし、2002年12月以降、「市民ウォッチャー」というグループが、『自立促進援助金の支給は違法である』と、年度ごとにいくつもの裁判を京都市相手に提訴し、その過程で「特別法が切れたのに、まだ違法に補助金が支給されている」と、「同和特別扱い」の悪質なキャンペーンが執拗に繰り返されました。法律がある時代に学生であり受け取った奨学金は、本人の自覚が給付であってなおかつ、制度上は貸与であるという現実では、卒業後20年という期間を通じ「返済」されることになります。そして、卒業後法律が切れていることをもって、あたかも不当な補助金が支給されているかのように喧伝されることになってしまいました。実際は、本人達の手元にわたるたぐいの「補助金」ではないにもかかわらず、様々な誤解を世間に与えたのです。京都市職員の不祥事など、過去の「同和行政」に対する批判が高まる中、そのような情勢に敏感に反応した大阪高裁は、2006年3月に、「2001年度以降に打たれた自立促進援助金は一律支給の根拠がなく違法である」との判決をくだしたのです。敗訴した京都市は2007年、08年度の自立促進援助金について支出を凍結し、制度上の「返還」が止まってしまったのです。 そういった事態を解消するとして、「総点検委員会」では第1の検討項目としてあげられ、専門委員会の議論も交えながら、京都市と借り受けた人との間には、債権債務関係が存在すると結論づけました。そして「そもそも貸付と補助を一体のものとして運用してきたことが、事情を複雑にし、市民理解を妨げる大きな要因になっている」との理由で、いったん自立促進援助金制度を廃止して新たに返還免除制度を設けることで、奨学金の返還と免除というわかりやすい関係に改めるべきである」という提言(中間報告)が出されました。 昨年12月の京都市議会で、免除規定に係わる法律が可決され、2001年以降に卒業した若者は所得判定を求められることになったのです。しかもその免除基準は、国基準と同様の生活保護世帯収入の1.5倍以下という厳しいものです。 自立促進援助金と同じ性質の補助金を京都府は「奨学金償還対策資金」という名称にしていました。名称のわかりやすさが、誤解を生じさせなかったこと。また要綱の文言がただ一カ所違い、府が「知事の決定により償還対策資金が支給される」、としたのに対し、京都市は、「奨学金等を返還することが困難であると市長が認めた者に対し、支給する」としたことで、裁判では一律支給を違法とされてしまいました。あからさまな表現を嫌い、文言の体裁を整えたことがあだになったということです。しかし、主旨も内容も同じ制度でありながら、府と市で判決が分かれること自体が大きな矛盾であり問題です。そして、同趣旨の制度を活用した子ども達が、京都市民であるというだけで、今になって返済を迫られることになってしまったのです。 特別法のあった時代に、進学が困難だった子ども達に対し「将来に心配のいらない奨学金制度があるのだから、がんばって上の学校にいこう。」と、先生や親に促され進学し、卒業後の20代半ばで「同和行政批判」を一手に引き受けることになってしまうということに対し、社会全体がその責任を負うべきです。そうした若者達に負担を強いることに対し平然としている社会そのものが、まだまだ冷たい社会だと言わざるを得ません。 コミュニティセンター(旧・隣保館)のあり方についても、その歴史的経過や成果を総括することもなく、市当局の提出した「過度な行政依存を生み出した」「住民相談件数も減少している」等のマイナス面を強調した資料に沿って議論が進められました。11月の中間意見ではコミュニティセンターについて「抜本的見直しが必要」との見解が明らかにされましたが、少なくともこの時点で「総点検委員会」は、廃止の必要性までは明言していませんでした。ところがここで信じられない出来事が起こったのです。「総点検委員会」の最終答申すら待たず、門川市長は11月20日の市議会で「コミュニティセンターから今年度末を以て職員を撤退させる」「2010年度を持って廃止する」と表明したのです。当然のことながら大きな衝撃が走り、部落の住民やコミュニティセンターを活用している周辺の住民の中からも疑問と不安の声が噴出しました。 現在、各地域のコミュニティセンターでは、従来の部落内だけの取り組みに限定することなく、周辺地域の住民たちと共に進める地域交流事業が取り組まれてます。貸館業務を通しては、配食サービスグループ、高齢者のダンスサークル、子育て世代のママさんバレーサークル、青少年育成のキッズダンスサークルなど、地域内外を問わず幅広い市民の利用が具体化しています。特別事業としての各種講座、イベント、人権問題学習などの分野でも実費負担で参加できることもあり、応募者が殺到して抽選になることもしばしばあります。こうした事業の一部では、住民主体の地域NPO法人が企画・運営に主体的に関与し、学区単位の各種団体等と連携しつつ、部落内外の住民の相互交流・共生・協働の橋渡しの役割を担っています。「福祉と人権のまちづくりの拠点」としてのコミュニティセンターの役割は、地域によって差はあるものの、一定程度果たされていると言えます。これまで本集会でも述べてきたように、同和行政・同和教育の普遍化をさらに推し進めることが差別を許さない地域づくりの近道なのだという見方からしても、コミュニティセンターを拠点としたこれらの取り組みが、そのための重要な役割を担っていることは間違いありません。 こうした取り組みは、京都市が「人権文化推進計画」の中でコミュニティセンターを「人権文化の拠点」と位置づけていることとも響き合っているはずです。にもかかわらず、取り組みの具体的成果については何ら省みず、京都市自体が位置づけた「人権文化の拠点」という役割をも何の説明もなく放棄して、「市財政が厳しいから」「部落の環境は変わり、役割を終えたから」と決めつけてコミュニティセンター廃止を表明するとは、全く横暴だと言わざるを得ません。 (2)今後の部落解放運動の展開 このような「総点検委員会」での議論やコミュニティセンター廃止の流れに対して、部落解放同盟京都市協議会は、地域住民、学区の各団体、利用者、PTA、労働組合など各方面に理解を求め、「コミュニティセンター存続についての署名」活動を展開しています。 行政は、部落バッシングの風潮に煽られて、「コミュニティセンター廃止」をはじめ安易で拙速な判断に基づく「同和」切り捨てを焦ってはならないと思います。歴史を振り返り、現在の社会状況をしっかりと見据えた上で、行政のとるべき責任について明確なビジョンを定め、部落解放・人権確立を希求する全ての市民に納得のゆく形で、部落に関する施政方針を明らかにしていかなければならないと思います。仮にコミュニティセンターを手放すとしても、市民がこれを「人権文化の拠点」あるいは「地域文化の拠点」として十全に活用し得る環境づくりや人材育成に手を貸し、引き継ぐ者たちへのしっかりしたレールを敷いた上で手放すべきではないでしょうか。引き継ぐ者たちとは、具体的には主として部落の住民たちということになるでしょう。言うまでもなくコミュニティセンターの運営や活用を引き継ぐ住民たちの側にも、責任と自覚が求められます。NPO法人を立ち上げ、行政に依存することなく、主体的に「まちづくり運動」を進める資質や能力を涵養することは、住民にとって喫緊の課題であると言えましょう。 「まちづくり運動」は、福祉・教育・人権啓発・文化などの分野で、各地域でNPO活動として実践的に取り組まれています。千本地域では、学区各種自治団体がNPO法人を立ち上げ、学区全体を網羅する高齢者の会食会、千本の文化と歴史を伝える夏まつり・盆踊り大会、障がいを持つ子どもたちと一緒に行うダンスサークルの青少年育成などのコミセン事業の交流事業が展開されています。東三条地域では、配食ボランティアや在宅デイサービス事業などの福祉活動が行われています。西三条地域は、見守り安全活動を通じた学区全体の高齢者実態調査とその活動の支援組織化が進められ、学区を単位とした広範な夏まつりイベント事業が進められています。七条地域でも、学区自治連合会が核となり発足した町づくり委員会が、教育問題・住宅建設の促進・高齢者福祉問題に取り組み、柳原銀行記念資料館のような人権啓発と歴史保存活動にも力を入れています。吉祥院地域では、ふれあいジャンボリーなどのまちづくりイベントに加え、吉祥院六歳念仏踊りを継承するための伝統文化活動が進められています。改進地域でも、教育問題を研究する組織が立ち上げられ、連続講座事業などが取り組まれています。 これらのNPO活動は、部落だけでなく学区や京都市内などの広い地域や団体と交流する活動へと発展してきています。またその活動の拠点は、各地域でのコミュニティセンターであり、重要な情報発信の場所となっています。言い換えれば、部落にある社会資本としての公共施設からより普遍的な人権と福祉を大切にする「まちづくり運動」が展開されています。これらの運動が差別という垣根を取り外すための、未来へ向けた部落解放運動の重要な柱の一つとなっています。 3 同和教育の現状と課題 (1)同和地区児童・生徒の現状と課題 その結果,「今日も机にあの子がいない」といわれた長欠・不就学の課題は大幅に改善され,同和地区生徒の高校進学率は全市平均と差がないまでに縮まり,さらに大学などへの進学率の上昇においても一定の成果をあげてきたといえます。 この成果は,かつておしなべて低位であると言われてきた同和地区児童・生徒の学力における格差が確かに縮まっているように,数字上見ることができ,全体としては確かな成果として捉えることができます。 このような中,2002年3月をもって「地対財特法」は終了しました。それ以降,同和地区児童・生徒のみを対象とする同和特別施策は打ち切られ,すべて一般施策へと移行されました。さらに,2008年4月より,「学習施設においてこれまで実施してきた学習相談事業は行わない」ことになり,同和地区児童・生徒の学力を保障する取組のすべてを,学校教育の中で取組として推進していくことになりました。 しかし,学力調査などを通して,現在の同和地区児童・生徒の学力状況をみたとき,残念ながらいまだ基礎・基本となる学力が十分に定着していない状況が見られます。さらに,このような状況にある児童・生徒の割合は,地区外と比較して高い傾向にあり,今日もなお学力格差が存在していることをはっきりと語っています。このことは,目の前にいる同和地区児童・生徒の実態を把握したとき,個々の児童・生徒の大きな課題として存在していることを実感せざるおえない現実があるのです。学力における格差は解決したとはいえない現状が今日もなお存在しているのです。確かな学力をしっかりと身につけ,自らの将来に見通しをもって進路を切り拓いていくことのできる同和地区児童・生徒は確実に育っています。しかし,依然として同和問題を背景に,低位な状態に置かれている児童・生徒も確実に存在しているということなのです。すなわち,同和地区児童・生徒の学力において,はっきりとした二極化の状況が,浮き彫りになってきたのです。 子どもたちにとって「生きる力」を育む土壌ともいえる乳幼児期においては,基本的生活習慣の確立やよりよく生きていくために必要な意欲,生活を切り拓いていく力やなかまとともに生きていく力を身につけていくために耕しておかなければならない大切な活動が不十分であるという問題があります。この問題は,小学校入学時の児童の様子にも,学習・活動意欲の低さ,興味・関心の狭さ,言語力・表現力の弱さなどとなってあらわれています。そして,同和地区児童の基礎基本となる学力が定着しにくいといった低学力の状況や,基本的生活習慣の確立,人間関係などでのつまずきにつながっています。 そして,中学校では,このような実態に置かれてきた同和地区生徒が,学力において低位な状態に陥ったり,なかなか進路展望を持てず,進路先未定という不本意な状況のままで卒業していくケースもあるのです。また,高校進学率では,地区外生徒と差がなくなっていても,現実として第一志望である高等学校に入学できていない同和地区生徒も少なくありません。さらに,高校進学後,同和地区生徒が学校生活に不調をきたし,中途退学していく割合は,今日もなお決して低くないのです。第一志望の高校に入学できなかったために,入学当初から高校生活に意欲が持てないケースもあります。学力の不振や人間関係のつまずき,集団への不適応などが原因で高校生活に不調をきたし,その後,安易に退学を選択してしまうことも少なくないのです。 当然,高校や大学進学に関しては,家庭の経済的な問題も大きな影響を与えます。特に一昨年度からは,同和地区生徒のみを対象とした奨学金が打ち切られました。現在の社会情勢を考えると,今後,不安定就労等で就学援助や生活保護を受ける家庭が増えることが予想されます。この影響は,課題を多く抱える同和地区家庭にも顕著に現れてくると考えられます。同和地区児童・生徒が,第一志望である高校に進学するという目標を達成していくためにも,確かな学力を身につけることと奨学金制度の充実を訴えていく必要があるのです。一方で,長期的進路展望を持てるよう,家庭の教育力を高めていくためのはたらきかけも重要です。 一方,同和問題をはじめあらゆる差別の解決をすべての人たちの課題とし,人権文化を築いていく確かな認識を培い,反差別の生き方を育んでいくために取り組んできた同和・人権問題学習に関わっても,同和地区児童・生徒の置かれている実態をもう一度しっかりと把握し,系統だった新たな同和・人権問題学習の展開を考えていく必要があります。 残念ながら,同和地区児童・生徒が,差別が存在する社会で生きていかなければならないという現実があります。将来差別にであったときにどう乗り越え,打ち勝ち,克服していくか,そのための力が必要です。また,同和問題解決の主体者として,社会をしっかりと見つめ,反差別の生き方を貫きつつ自らの人生を切り拓いていく力も必要です。 しかし,家庭環境の多様化などにより,同和地区児童・生徒の自分の出自や同和問題に対する認識が育ちにくい現状があります。この傾向は地区外居住が進んでいる地域ほど顕著に表れており,地区住民のコミュニティーのあり方が影響を与えていると考えられます。その中で,同和地区児童・生徒が自分のアイデンティティーをどのように身につけていくのかという課題に対して,学校はどう取り組み,同和・人権問題学習を展開していくべきかを考えていかなければならないのです。 私たちは,もう一度,目の前にいる同和地区児童・生徒一人一人に目を向け,実態を把握し,一人一人の同和地区児童・生徒に焦点をあてた教育活動を展開していく必要があるのです。そして,それぞれの同和地区児童・生徒が,部落差別を乗り越え,自分を価値ある存在として実感し,自分の立場と生き方に希望と誇りをもてる,そんな教育と,そのために必要な確かな学力の定着,進路の保障をそれぞれの学校の中で再構築し確かに実践していく必要があるのです。 (2)保育所の取組 保育所においては,従来から同和保育の中で保護者支援として,家庭訪問や相談活動等に積極的に取り組んできました。就学前の子育ての実態としては,子どもの生活リズムが十分に確立できていなかったり,絵本の読み聞かせなどの具体的な方法が根付いていなかったり,生活そのものに困難を抱える家庭もあります。なかには,保護者中心の生活に陥っている実態も見られます。今後とも,保護者が子ども主体の子育てができるよう,また,子育てを通して,親が親として育つことができるよう,状況に応じたきめ細やかな支援の取組が必要です。 保育内容では,乳幼児が生涯にわたる人間関係の基礎を培うことを大切に捉え,子ども一人一人の発達をふまえた援助,指導をしています。その実践にあたっては,一人一人を大切にする「子ども主体の保育」を行うための環境づくりや,保育士の関わり方に重点を置くよう努めています。 乳幼児期には,人への基本的な信頼感を育てるため,一人一人の子どもに応じた一貫性のある丁寧な関わりが重要です。 乳児期から幼児期を通じては,保育士が子どもの姿をしっかりと見守り,その子の行為の意味や興味・関心を知り,子どもの思いを受け止めることで,保育士や友だちとの共感的な関わりを深められるように支援しています。子どもは自分が受け止められることで自信がつき,友だちへの関心が広がり,一緒に遊ぶ楽しさを経験することから,人と協調することの大切さや,集団生活におけるルールを学んでいきます。このように,人や物との関わり,体験を多く持つことで,基本的な生活習慣や社会生活に必要な基本的能力,感性を身につけることを大切にしています。 さらに,さまざまな交流体験事業等に参加した小学生,中学生と交流し,高校,大学等の保育体験,インターン・シップを積極的に受け入れるなど,多様な世代間の交流や連携をも図っています。 そして,同和保育所での実践をいかして,入所児童に限らず地域の子育てを支援するさまざまな事業を行う中で,より実践的で継続的な相談や子育て教室,ふれあい体験,子育てサークルの支援等にも取り組み,地域内外の子どもや在宅の親子を含めた幅広い交流が行われつつあります。保育所は,子ども支援センター,学校,保健所などの関係機関と連携しながら,人権を大切にする,保育と地域の子育て支援の拠点となっています。 今後とも,保育内容を一層向上させるとともに,一時保育,延長保育,休日保育等の多機能型保育や,地域の特色に根ざした取組を行い,地域交流の促進することで,地域に信頼される保育所となり,そのことが,同和問題の解決につながっていくことをめざしています。 (3)小学校の取組 小学校においては、これまで京都市が掲げる「子どもたち一人一人を徹底的に大切にする」という同和教育の理念のもとに、取り組んできました。個々の課題を明確にして焦点化する授業においては、焦点を当てるべき同和地区児童を念頭に置き、その子に届く教材研究、授業展開を長年継続して実践してきました。この、「焦点化」の手法については、これまでの同和教育を象徴する取組であり、同和地区児童の学力向上に有効な手立てであると考えています。 昨年度より「学習施設における学習相談事業は行わず、学力定着・向上に関する取組は学校でやりきる」という京都市教育委員会の方針のもと、同和地区児童の学力向上に向けた取組を展開しています。これまでも取り組んでまいりましたが、改めて学力向上に向けた取組を学校教育活動の中でやりきることが必要になってきました。 現在、すべての学校で独自の「学力向上プラン」を策定し、同和地区児童の課題を中心に据えながら、全児童の学力向上に向けて取組を進めています。具体的な取組としては、授業の中で少人数指導や、TTを活用した学習、習熟度別学習など様々な工夫を凝らした取組を行っています。また、始業前や放課後の時間を利用した課外学習も同和地区児童をはじめ全児童の学力を保障すべく、個々の課題に応じて取組を進めています。家庭学習においては、基礎基本の定着を図るとともに、児童の生活実態や学力実態にも対応した取組となるよう、とりわけ支援の必要な子については家庭との連携を密にしながら進めなければなりません。 こうした状況のもと教育活動を進めるにあたっては、「学力向上」を至上目標とした「同和教育方針」に立ちもどり、「低学力に悩んでいる児童はいないか?」、「安定した生活が送れず、苦しんでいる児童はいないか?」、「なぜ、そのような実態であるのか?」など、その子のおかれた背景を考え、実践に結びつけることが不可欠になってきます。 そのため,今改めて家庭訪問の重要性も問われています。同和関係の特別施策の法が失効し,今後において学校も家庭も現実を厳しく捉える必要があります。そして確かな将来展望に向かう日々の活動につながるよう,じっくり話し込むことが大切ではないでしょうか。狭義の学力を大切にしながらも,「生きる力」の育成,自立の促進が必要です。その中で,保護者の同和問題認識をつかみ,保護者との信頼関係を構築することが大切です。保護者の同和問題認識を聞き,そのとき教職員として,我々がどう判断し行動するか,自分自身の人権感覚が問われるときです。家庭訪問でこうした話を聞くことは,自分自身の教育に対する評価であるとも言えるのではないでしょうか。 学力向上に向けた取組は、ひいては子どもたちの将来につながる生き方を学ぶ、生き方探求につなげるという視点も大切にしています。自分の将来展望を持つことができ、自己実現に向けて、それを支える基盤としての確かな学力を小学校段階でしっかりと身につけておくことが大切だと考えています。 また、子どもたちが望ましい生き方を展望していく上では、確かな学力を身につけると共に、鋭い人権感覚をもつことが大切であると考えます。全ての児童が同和問題をはじめとする人権問題解決の主体者となるためには、正しい知識を学び、偏見や不合理を許さない強い意志と感情をもつことが、不可欠であるのではないでしょうか。小学校の低学年から人権学習を計画的・組織的に進め、様々な人権に関する問題や6年生での同和問題指導へとつなげていくことが大切だと考えます。 これまで小学校では、「同和問題に関する学習」、「外国人問題に関する学習」、「障害者問題に関する学習」、「男女平等に関する学習」を中心に、毎月テーマを設定し系統立てた人権学習を進めてきました。とりわけ、同和地区児童については、人権学習を通して、あらゆる差別を見抜く目、差別を許さない心、差別に負けない力を身につけさせたいと考えています。どれだけ実践的態度の育成を図れたかについてはまだまだ課題が残りますが、同和問題を中心とした人権学習を積み重ねることで、児童一人一人に届く教育実践を今後も推進していきたいと考えています。 (4)中学校の取組 中学校では,高校進学率の格差の是正を大きな目標としてさまざまな取組を行ってきました。同和教育の現状と課題にあるように,高校進学率における格差は解消され,是正されたかのようにみえます。 しかしながら,「高校進学後の不調」「大学進学状況」などにおける格差は依然として現存し,その格差は加速化しているのが現状です。こうした現象は,同和地区生徒に確かな学力を保障しきれていないことを明確に示すものといえます。それを改善するには,高校進学後の大学進学や社会進出を含め,自ら進路を切り拓いていく力をつけることが大切です。 現在,同和教育における様々な施策が無くなり,今後,社会の動きの中で同和地区生徒をはじめ課題を背負わされた生徒の教育条件は悪化することが予想されます。個々の同和地区生徒に焦点を合わせた積極的な是正措置(affirmative action)が必要とされる理由です。私たちは,不平等を解消し,差別に立ち向かっていく生徒を育てるための取組を中学校で進めています。同和地区生徒をはじめ社会的に厳しい状況におかれている生徒が「自分が大切にされている」と実感し,進路展望の持てる学級や授業づくりをすすめるために,新たな教育の創出を目指しています。学校での学力保障に専念し,学校でやりきる本来のあり方の構築を目指して,同和地区生徒を中核に置いた焦点化授業や補習学習の取組,「学びの共同体」などの新しい手法,家庭学習の徹底に全力を挙げて取り組んでいる多くの中学校があります。 課題学習・家庭学習の充実による基礎基本の学力と自学自習の習慣の定着を図るために,家庭学習点検指導を,各校の情報交換を密にし,その研究を進めている多くの中学校があります。 さらに,進路実現にむけ,個人選択制習熟別分割授業や少人数教育の実施,TTを活用する学習,始業前や放課後の時間を利用した学習,高校見学や職場体験など進路展望を培う取り組みもあわせて実践しています。現在,学習の大切さや進路展望が持てるように大学生との交流を行ったり,基本的生活習慣の確立や基礎基本の学力の定着をめざして小中連携に取り組んでいる中学校もあります。 一人一人の生徒の変容を通して教育実践は積み重ねられねばなりません。「一人一人を徹底的に大切にする」「背景にまで迫る徹底した指導」「生きる・自立する力をつける」ことをめざして,学力向上プランに反映させることで,学校でやりきる姿勢を確立する努力をし続けていかなければならないのです。 一方,生徒に正しい同和問題認識を培う上で,学校での同和問題学習と家庭での保護者の意識・言動は車の両輪といえます。そして保護者の学校教育への理解と協力,教職員への信頼が啓発を可能にする土台となります。生徒の背景に存在する同和問題をはじめとする人権問題に対して,生徒・保護者にどのように取り組んでいるか,人権尊重のための取組が問われています。また,全ての生徒の進路実現のために,生徒だけでなく家庭の教育力をつけるための取組も必要です。現在,保幼小中の連携を強化し保育所・幼稚園・小学校・中学校が合同で進路保護者会を開き,進路実現に向けての心構えや,その準備などについて一緒に学習する取組を行っている地域・学校もあります。 次に,同和問題を中心に据えて行ってきた人権学習に目を向けてみたいと思います。現在,全ての中学校で同和・人権問題学習が実践されています。そうした中,厳しい生活などを題材とした「差別の現実から学ぶ」という学習が減ってきましたが,現在の社会での同和問題を取り巻く状況に即した学習を築き,全ての学校で正しい同和問題認識を培うことのできる人権同和学習を充実していかねばなりません。全ての生徒が,例えば部落差別による予断や偏見に直面した場面において,矛盾や問題点に気づき,それらを払拭する行動を起こすことができる勇気と力は,同和・人権問題学習によって育まれた鋭い人権感覚によってこそ与えられるものです。 「差別が偏見を生み出し,偏見が差別を正当化する」こと,そして「そこでの差別意識が差別を再生産すること」が指摘されています。同和・人権問題学習をすすめるにあたっては,部落史研究の成果を取り入れた同和問題指導の研究を引き続き深めていくなか,差別構造の本質を再認識していく必要がある一方で,「子どもの実態を背景にまで踏み込んでとらえる」という同和教育が培ってきた理念が十分に活かされなければならないのです。このような同和・人権問題学習をあらたに創造していくためには,小中の連携が絶対に必要です。9年間一貫して,児童・生徒の実態に基づいた課題を明確にした具体的な取組における連携が重要なのです。毎月定例で校下の小学校と合同の主任会を持ち,また夏季には小中全教職員の合同人権同和研修会を持ち、小中での学習内容・学習方法などにおける相互理解を深め,情報交換に努めるとともに,同和・人権問題学習のあり方について論議をし,その成果を具体化している中学校もあります。 「人権という普遍的文化」の担い手の育成をめざして,いままでの同和教育の成果を踏まえ,これからの同和人権教育は創造されなければならないといえます。同和問題の解決は「教育に始まり,教育に終わる」ことを忘れてはならないのです。 (5)同和教育の普遍化 今まで取り組んできた同和教育は,京都市で実践されている教育の基盤となっています。 この長年にわたり培われてきた同和教育の理念と取組は,1981年の「外国人教育の基本方針(試案)」の策定をはじめ,外国人教育や男女平等教育などさまざまな人権問題の解決を目指す取組を推進させてきました。今もなお,京都市では人権尊重の視点に立っての課題解決のための取組が続けられています。 とりわけ,在日韓国・朝鮮人への民族差別の解消を目的とした外国人教育においては,1992年に「京都市立学校外国人教育方針−主として在日韓国・朝鮮人に対する民族差別をなくす取組の推進について−」によって京都市公立学校での取組を明確にし,現在も引き継がれています。その内容は,「違いを認め,相互の主体性を尊重する」「民族的偏見の払拭」「学力向上,進路保障」「民族的自覚の育成」であり,その理念は,わたしたちが同和教育で目指してきたものと同じです。昨年度に京都市中学校教育研究会外国人教育部会から出された冊子「あゆみと研究(No.22)」の中の「外国籍及び外国にルーツをもつ児童生徒に関する実態調査のまとめ」では,外国籍及び外国にルーツをもつ児童生徒の現状が調査され,課題を明らかにしています。そこには,学力格差の問題に加え,アイデンティティの多様化や韓国・朝鮮以外の国にルーツをもつ児童・生徒に関わるあらたな課題などがあげられています。学力や進路展望の問題,アイデンティティの多様化などの課題は,現在,同和地区児童・生徒が抱える課題と同じなのです。また,冊子では,これからの外国人教育の在り方を見据え,そのための新たな枠組み構築の必要性が提言されています。外国人教育も,同和教育と同様,新たな取組や方向性を考えていかなければならない時期にきているといえるのです。 2002年に策定された「学校教育における人権教育をすすめるにあたって」では,同和教育で培われた理念や取組が,男女平等教育,養護育成(総合支援)教育,外国人教育においてだけでなく,心の健康,いじめ,不登校,LD,ADHD,HIV感染者等に関する内容にも広げられていくことが,学校における人権教育の重点課題としてあげられています。そして,今では京都市のすべての学校で取り組み,実践が積み重ねられています。今年度,京都市教育委員会から出された「学校教育の重点」にも,「学校教育の柱」の一つとして,「人権文化の構築(人権教育)」が掲げられています。そこには,われわれが今までの同和教育で実践してきた「家庭・地域と連携した人権教育の推進」「学校における人権教育の重点課題」が引き継がれています。また,2008年4月に文部科学省より出された,「人権教育の指導方法等の在り方について[第3次とりまとめ]」でも,今までわたしたちが取り組んできた同和教育の実践と同様の指導方法や考え方が記載されており,その具体化においても同和教育の成果をいかしていかなければなりません。 2002年に京都市より出された「特別施策としての同和対策事業の終結とその後の取組」では,次のように書かれています。 『義務教育段階では,基本的な学力が十分に身につけられていない児童・生徒が多いことや,高校 同和地区のみを対象とした特別施策の終結で,学習施設などの学習の場もなくなりました。学力保障はすべて学校内でやりきることになり,今,各学校ですべての生徒に学力を保障する取組が実践されています。このように,時代の変化とともに,学力保障のための方法や手段はさまざまな形に変化してきてはいますが,その取組は,差別の結果厳しい状況にある同和地区児童・生徒に焦点をあてたものでなければなりません。かつて行われていた同和教育施策が,同和地区児童・生徒の学力保障の取組が,差別を乗り越えていくことや自己の実現に向かっていったように,これからの同和教育においても,厳しい状況にある同和地区児童・生徒を中心にすえた取組でなければなりません。 また,かつてわたしたちは,「部落の子どもたちの立場の自覚」「アイデンティティの向上」「自尊感情の育成」などをめざし教育内容の創造を行ってきました。それは,被差別の立場にある同和地区児童・生徒が,同和問題解決の主体者として,差別の解消にむけて自ら行動できることをめざしたものでした。その達成にむけ,わたしたちは,同和地区児童・生徒をはじめ他の被差別の立場にある子どもたちが軸となった集団づくりやなかまづくりを行ってきました。人権意識や人権感覚を育むために,同和地区児童・生徒をはじめ他の被差別の立場にある子どもたちがいきいきと生活できる,そのままの自分を表現できる集団をつくり,なかまを育てることで,同和地区児童・生徒だけでなくすべての子どもが成長することを大切にしてきました。そのような取組は,現在多くの学校でさまざまな同和・人権問題学習や人権総合学習の実践の中に見ることができます。もちろん,それらの実践は同和地区児童・生徒や他の被差別の立場にある子どもたちが,自分の生き方に希望と展望を持てるようになるためのものでなければなりません。残念ながら,同和問題をはじめ他にもまだ解決していない人権問題があります。それらの問題を完全に解決し,すべての人権が保障される社会を構築させるために,差別の不当性を認識し,差別への怒りを引き出し,差別解消への意欲と行動を育てていく同和問題学習・人権問題学習が必要です。 最後になりましたが,同和教育では,「子どもの事実から出発する」ことを最も大切にしてきました。これまでにも述べてきたように,同和地区児童・生徒の中には,いまだ厳しい教育状況に置かれている子どもたちも少なくありません。同和問題が完全に解決していない中,同和地区児童・生徒は,まだまだ差別と向き合わざるをえない状況にあります。かつてあった課題も,現在ある課題も,その要因は同和問題にあるのです。子ども一人ひとりがどんな暮らしの中でどのように育ってきたのか,どんな思いで学校にきているのか,親や身近な人たちの願いは何なのかという事実と現実をしっかり見つめ,そこに学び,同和地区児童・生徒に確かに返っていく教育を創造していくことが重要なのです。 そして,その教育を,差別の結果,厳しい環境の中で暮らしているすべての子どもたちに広げていくこと,これが同和教育の普遍化といえるのではないでしょうか。「同和教育」が「人権教育」と名前を変えても,同和教育の理念を大切にした教育実践を行っている限りその教育は同和教育であり,同和教育はすべての子どもたちに教育を保障するものなのです。
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