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第50回人権交流京都市研究集会

  分科会

部落と人権

  「私の歩んできた道」

次世代に伝えたいこと

                会場 大谷大学2号館2301教室  

             える  〜  つなぐ   〜  あゆむ

           ↓       ↓        ↓

         運動の厳しさ 全水百年を迎えて 次世代が進む方向

 

 

 

             パネラー 松井珍男子((公)朝田教育財団理事長)

 

           山本 栄子(部落解放同盟京都府連合会女性部)

 

           小笹 道子(部落解放同盟東三条支部)

          コーディネーター

          村上 光幸(部落解放同盟京都市協議会事務局長)

 

担当団体      部落解放同盟京都市協議会

  分科会責任者    谷口 眞一(部落解放同盟京都市協議会)

   

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村上光幸:今年は、本集会が50回目を迎える記念集会として開催され、同時に、「同対法」公布・施行から50年という節目の年でもあります。「同対法」施行を背景に、不良住宅や不就学、失業対策などが取り組まれ、以降、鉄筋コンクリートの住宅、高校進学率の向上、雇用促進事業などの成果として、被差別部落は大きく変貌を遂げてきました。しかし、住環境の「改善」はなされたが、差別の「解消」には至っていない現状があります。2016年に相次いで成立した「障害者差別解消推進法」「ヘイトスピーチ解消法」「部落差別解消推進法」の人権三法は差別を社会悪として、その解消に向けて国や自治体の責務を明確にし、市民には不断の努力を求めています。

他方、市内の各地区の現状は、2002年の法期限を境に京都市の住宅施策の変更やコミュニティセンター等施設の完全撤退などにより、急速に進む少子高齢化と新たなスラム化、人口減によりかつての活気が失われています。いま、老朽化した住宅の建て替えを新たな視点で、「福祉で人権のまち」として再生させる取り組みが進められています。3年後に迎える「全国水平社創立100周年」を解放の「よき日」とするため「ムラ自慢、支部自慢」運動を進めていきたいと思います。

このような視点で、幼少期から苦難の道を歩まれてきた各パネラーの方々に自身の体験や経験などを語っていただき、その生きざまを通して「伝える」「つなぐ」ことで、次世代の者が「まなび」「あゆむ」べき方向性を見出して、差別や偏見などによる「生きづらさ」をなくしていきたいと思います。

 パネラーを紹介します。

元京都市副市長で、朝田財団理事長の松井珍男子さんです。府連女性部の山本栄子さん。同じく女性部東三条支部の小笹道子さんです。私は、コーディネーターの京都市協事務局長の村上光幸と申します。

まず、被差別部落の原点は、日本の封建社会の身分制度のもと、他の身分と分離させられ、衣食住などあらゆる生活面で厳しい状態におかれてきた地域です。また、これらの地域を出発点としながらその後の社会体制の影響を受けながら、今日まで差別状態が続いている地域が被差別部落です。このように、歴史的、社会的に形成されてきた被差別部落に生まれて、育ったという理由だけで、人間としての当然受けるべき権利を長い間奪われてきた、幼少期から、青年期、その当時の住環境や教育の実態、仕事や家庭内の実態、そして、一つ目のキーワードである、伝える〜差別の厳しさについて、お話をいただきたいと思います。

  まず最初に山本栄子さんからお願いします。

山本:私は1931年年生まれ、資料では87歳になってますが、88歳です。昨日88歳になりました。最初にことわっておきたいのは、私は、学者でもないし、研究者でもないし、ただのおばさんなんです。だけど、私は、ここで第50回の研究集会ですが、一番最初からきております。何と古いなと思われますが、私がこれから話すのは、本当に古い、古い、まだ生まれてないという人がほとんどじゃないか。私の小さい時の話をさせてもらいたいと思います。

 京都市内の被差別部落で私は生まれました。私の小学校時代は、教科書は有償でした。経済的に苦しい家庭の子どもは、なかなか教科書を買ってもらえなかった。では、その教科書をどうしたか。近所のお兄さんやお姉さんのお古を貰うのです。教科書なしで勉強は出来ません。部落民全部がそうではないが、私の家は、親に定職がなく、仕事は日稼ぎで、肉体労働です。仕事のない日もあります。義務教育は6年間だけです。中学はなかった。教科書もない小学校時代は、先生によく怒られた。露骨な差別発言もありました。自分の置かれている立場がわからず、何で親に仕事がないのか、近所の家も同じような生活状態であった事が不思議でした。何故、うちの地域だけ、なぜ貧困なの?といつも思っていました。

 道路らしい道は1本だけ、地域の中は迷路のような路地ばかりで、勝手の知らない人が入れば、もとの道には戻れないこともありました。これが、昔、私が育った地域です。

 オールロマンス事件1951年におこります。京都市職員がオールロマンスという雑誌に、「特殊部落」というタイトルで書いた小説をきっかけに、行政を相手に展開された差別糾弾闘争です。 

 1965年、部落解放同盟による差別反対闘争が、政府に「同和対策事業特別措置法」を制定させます(10年間の時限立法)。そのことによって、地区は改良事業指定地域として線引きされ、それが部落として今日まで続いています。事業法によって、町内は改善され、住宅も集合住宅として建てられました。それまでは、水道、トイレは共同でしたが、小さい住宅ですが、トイレも水道も家の中にあることがうれしかった。でも、残念ですが、お風呂はありません。

 生活が少し落ち着いた頃から、満足に小学校も行けなかったお母さんたちが、我が子が学校へ行くようになり、学校から持ち帰ってくるプリントが読めない、哀しい、文字が知りたい。文字を取り戻そうという声が出てきました。文字で困っているお母さんはたくさんいます。地元校の先生と話し合い、何度も行政交渉をして、運動の力を借りながら我が家を開放して、隣保館事業として識字教室が開講しました。一年かかりました。識字教室で文字を習ったお母さんたちは、仕事が欲しい、小学校卒業の学歴しかない私たちが働くには、何か資格を持つ方が就職しやすいだろうと、識字教室で習った文字を労働につなげていきました。ヘルパー、調理師、運転免許を各々が取得した。生まれて初めて受ける試験は、心が震えました。合格は夢のようです。

 調理員に採用され、現場の先生と話していると視野が広がり、教育の必要性をますます感じ、また何をするにも文字が必要です。教育です。部落民に一番必要なのは教育です。私は「今だ」と思った。私の周りには教師がたくさんいる。教えてもらおう。月謝はいらない、有り難い場所です。このころは同和教育も活発に取り組まれていて、教職員校内研修は定期的にあった。部落問題、部落差別は部落民の問題と考え、自分には関係のないことだという教師もいました。部落差別は社会問題です。何時どこで、誰が遭遇するかわからない。被害者になり、加害者になるかも分からない。結婚を反対され自殺する人もあります。ただ部落民というだけで生命を落とす、そんな社会に矛盾を感じませんか?私の身近にも、結婚差別で相手を果物ナイフで刺し、救急車を呼んだが出血多量で死にました。彼は一般の人です。親兄弟に反対され生命を落としました。彼も部落差別の被害者です。

 話を戻します。識字教室で学習することで、ますます文字の大切さがわかりました。意思の疎通を図るのは言葉です。今皆さんは、ネットやスマホで話し、連絡を取っていますが、その文字には心がない、顔を見て話すことがどれだけその人を理解できるか。暖かい心が伝わります。

 その時、その都度出会った人を大事にしてください。人間関係を大事にしてください。その人から得るものは必ずあります。自分が頑張ることで、支えてくれる人があります。給食調理員で働きながら、文字を取り戻すことで、学校へいくことを考えました。自分を取り戻すために。

 1991年退職、すぐに夜間中学へ。京都市内唯一の夜間中学です。夜間中学には年齢の違い、様々なお国の人がいます。いろいろなお国言葉が交差します。そんな中にも残念ですがヘイトスピーチがあります。中学3年間のあとは西京高校定時制に入学しました。高校でこれだけの事を教えてくれる、大学へ行けばどんなことが習えるか、何もわからないままに大学受験しました。69歳、社会人入学で。大学のキャンパスが歩けるだけで、嬉しかった。

 当たり前のように大学に行ける人は幸せです。夜間中学から定時制高校へ行きたいと言った若者が何人もいました。だけど働くことを余儀なくされた人もいました。高齢の私が行くより、これからの若者と変わってやりたいと思いました。でも立場は変われません。私も好きで部落に生まれたのではない。人は、生まれてくるのに親を選べますか?生まれる場所を選べますか?何処で生まれようと、それは本人の責任ではないのです。責任でないことで、部落民だと言って差別される、矛盾していると思いませんか。

 世界には様々なお国があります。いろんな人が生活しています。肌の色の違う人、言葉の違う人、誰が良くて、誰が悪いという話ではない。皆さん、一生懸命生きています。日本にもアイヌがあり、沖縄があり、部落があります。あって何が悪いのでしょう。皆同じ人間なんです。

  私の小学校時代は戦前・戦中・戦後の動乱期で、英語は敵の言葉だから使ってはいけないといわれていた。今は小学校から英語の教科があります。私が大学にいるときに、経済学の先生が「お前ら、英語をしっかり勉強せいよ」と…。日本語しか話せなかったら、日本だけしか住めないし、仕事も日本だけになる。これからの若者は、世界を股にかけてはばたけ、親に感謝しろと言われた。感動しました。これが大学かと思いました。

 今、私が若い世代の人たちに伝えたいことは、部落差別について正しく理解してほしいということです。各々が置かれている立場は絶対に替わることはできません。自分の置かれている立場でしっかりと問題に向き合ってください。人が何と言っても、まず自分で確かめてください。今日という日は二度と取り戻せません。道の行きすぎは戻れますが、この世に無駄な物は何一つありません。今日までの自分を一度振り返ってください。やりたいこと、やらなければならないこと、そして、どう生きるか考えてほしいと思います。

 最後に部落の人は差別されるために生まれてきていません。互いに認め合う。そしてみんなが住みよいまちづくりが出来ることを願う。私は部落民だから。

 読み書きができないと貧困から抜け出せません。同和対策事業が33年間続きましたが、私たち部落民がどれだけ変われたのか、それは今後の課題です。

 

村上:ありがとうございました。次に小笹さんお願いします。

 

小笹:私は、1948年京都市の同和地区に生まれました。都市型部落に見られる狭い区画に多くの人が暮らす350所帯ほどで、主な仕事は、土方、靴屋、げた直し、失業対策事業の仕事などでした。父は同和地区の出身ではありませんでしたが母との結婚に反対され、母と結婚後は同和地区に暮らすようになりました。父の実家は兄弟も多く、それぞれ工場や会社を経営していて結婚するまで父は、裕福な暮らしだったようです。私が生まれるまでは、父の実家は父と母の結婚に反対で親戚づきあいも絶っている状態でしたが、私が生まれてからは少しずつ行き来が出てきたとのことで、私も父の実家に遊びに行ったことがあります。幼い頃の出来事なのですべてを記憶しているわけではありませんが、父の実家の敷地内には川が引き込んであり、広い庭の中を川が流れていたこと、その川辺で泳いだことは鮮烈に記憶に残っています。母は、父の実家で働いていたことで知り合い、結婚を誓い合う中になりました。

 しかし、父の親せきから、結婚に対しては強い反対があったそうです。結婚式を挙げて晴れ姿を披露することはできませんでしたし、私が生まれるまでは父の実家を訪れることもできませんでした。

 母は生まれも育ちも同和地区でした。差別の結果、教育の機会も奪われ、とても貧しい暮らしだったようです。

 結婚後、両親は小さな工場を作って働いていましたが、取引先の倒産などもあり経営的には苦しかったようです。父は、苦しい生活のせいで心労のため43歳で亡くなりました。父は普段は貧乏でしたが、クリスマスにはケーキを買ってきて精一杯の心づくしの贅沢をさせてくれ、とても愛情を持って子育てをしていました。その父が、部落差別の中で、大変な苦労をしたと思うと、とても心が痛みます。

 私には、弟と妹の二人の弟妹がいました。父の死後、母は生活に困窮し、夜の商売で私たちきょうだいを育ててくれました。母の苦労には今でも感謝しています。

1.     私が受けた部落差別の体験について

(1)職場での差別体験

 そんな暮らしでしたから高校へ進学したいと思っていても父から「おまえは女の子やから高校へは行かずに働いてほしい」と言われました。そして、大阪の松下電器の工場で働くことになりました。やがて1年が過ぎたある日、同僚から「あなた京都の三条ウラ出身なの」と尋ねられ「ハイ」と返事をしましたが、「三条ウラ」の意味がわからないまま家に帰ってから親戚の叔父さんにこの意味を教えてもらって同和地区出身だということだと分かりました。でも、「大阪と京都という地理的に離れているのになぜ」という思いと「それがどうした」という思いもありましたが、段々と卑屈になっていく自分を感じていました。でも、誰にも負けないように朝早くから遅くまで働きました。この話は母には言えませんでした。

(2)結婚差別の体験

 20歳になったとき、結婚を前提に交際を始めました。しかし被差別部落出身者であることは常に頭から離れず、このまま結婚までいたるかどうか不安でしたが「でも大丈夫」と自分に言い聞かせていました。そんなある日、交際相手の叔父さんから「彼の親は反対しているので結婚はできないかもしれない」との話が出ました。その理由は「あなたが三条ウラという同和地区出身だから」ということでした。でもその叔父さんは「何とか説得するのでしばらくの間、駆け落ちをして身を隠してくれ」ということでした。すごくショックでした。同時にこんな話、自分の親にすることはできないとも思いました。

 相手の親は私と一度も会った事もないのに、「結婚に反対」と言われたことがとても悔しかったです。松下で差別を受けた時も、気持ちは大変落ち込みましたが、「何クソ」という思いで頑張りました。朝は6時に家を出て、工場に通い、14人の班の「指導員」資格も一番早く取りました。そういった私の存在の、何も知ろうともせずに、ただ、住んでいる場所だけで差別されることが受け入れられませんでした。交際相手の叔父からは「一度(結婚に反対している彼の)父親に会ってくれ」とも言われましたが、「自分にも親がいます」といって、断りました。結婚の話はなくなりました。被差別部落出身であることは、常に気にかかっていましたが、でも何とかうまくいくと思っていたのに、まさか自分がこんなつらい目に合うなんて、思いもしなかったです。一度目は松下電器という会社に就職して、被差別部落出身であることをあばかれ、二度目も同じ理由で差別されました。特に結婚に反対した相手の両親には一度も会った事もない、私がどんな人間かも知ろうとせず、ただ同和地区出身であるということだけで反対されたと思うと許せない気持ちでいっぱいになりました。その時はあまりのショックのためその叔父さんとの話し合いの時は、涙ひとつでなかったのに、一人になった帰り道、ポロポロ涙がこみ上げてくるのです。親には心配をかけられない!悲しませたくない!との思いから必死に涙をこらえていたのを、今でもはっきり覚えています。

 (3)部落差別の中で解放運動と出会って

 このような体験から同じ地域の相手と結婚し二児をもうけましたが、相手は、何をしてもうまくいかず段々と酒に溺れ借金をするようになり、家庭内での暴力は絶えませんでした。その時、自分の身の危険もありましたが、それ以上に子どもが私を守るため父親に反抗するのではと思い、子どもを守りたい気持ちから離婚を決意しました。離婚後も借金取りが押しかけてきて「金返せ」と玄関で怒鳴っていました。

 満足な収入を得るだけの仕事に就くことができず、離婚したとはいえ連帯保証人になっているため逃げることもできません。いろんなアルバイトやパートをつないで少ないながらも収入を得てきましたが、苦しい毎日でした。

 そんな時、すでに部落解放同盟の運動に参加していた弟に勧められ解放運動に参加するようになりました。弟から公務員の採用選考があることを聞き、応募したところ選好されて就職することができ、ようやく安定した暮らしができるようになりました。

 解放運動に参加するまでは「部落差別は仕方ないことで自分一人が努力しても解決できるものではない」とあきらめていました。しかし、解放運動に参加して、当たり前のことですが、差別する人がいるから部落差別はなくならないことを知りました。Mさんは「いま部落差別はない、それは被害妄想だ」とおっしゃっているようですが本当にそうでしょうか。私の周りには被差別部落以外の人と結婚になった場合100%により近く反対されています。この現実でも被害妄想だといえるでしょうか、被害妄想と言える根拠は何ですか。

 「部落解放同盟関係一覧」に私の名前が載っていると友人から聞かされました。

 金儲けのために、あなたはどれだけの責任が取れるのか。世の中にどれだけ悲しい思いをしている人がいるのか、わかっていますか。

 私の友人は結婚を反対されたことが原因で仕事を辞め家に引きこもり、その生活は拒食症・過食症を繰り返し、体調を崩し精神的にも追い込まれていきました。そして、最後は、飛び降りて自死しました。あなたのやっている行為は多くの人々の命を奪う行為です。あなたは、なんの権利があって部落差別を残していく行為に加担しているのですか。人としての心があるなら、部落差別によって苦しんでいる人の立場を理解すべきです。

 何もわからない小学生や中学生が将来に不安を感じて暮らしているのです。部落差別があることで周りの人たちよりも何倍も努力して生きていかなくてはならない現実をあなたは知っていますか。

 まだまだ言い足りませんが、Mさんが1日も早く私たちの人権を守る立場の運動へ改心されることを願います。

 ※「全国部落調査」復刻版出版差し止め裁判 陳述書より

 村上:ありがとうございます。では、最後に松井さんお願いします。

 

松井:去年、「終わった人」という映画がありましたが、私は終わった人で、小笹さんが1938年生まれで、もう、80代の大台にのりました。パネラーの話は、宮崎議長からありまして、50年の記念集会になるんで、報告をお願いしたいと。それくらいのことは、と出てまいりました。原稿はメモ書きで書いているんですが、部落問題に参加してというところを話します。私は実は和歌山の生まれで、農村地帯で、先ほどの映像のような都市部落の密集したような部落ではなく、全く小さい頃は、部落だということを知りませんでした。初めて知ったのは、小学校5年生でして、小学校の先生が、部落の歴史の話をして、そういう被差別の問題があると、それがこの小学校の杭ノ瀬という地域だ、という話が、授業の中であった。部落の中は、その頃はいわゆる「寝た子を起こすな」ということで、そんなことを言う教師はけしからん、ということで部落の大人たちが立ち上がって、糾弾闘争に発展していった。しかし、この先生はよくよく考えたら、そういう部落差別は許せないという立場で、「積善教育」に熱心な先生であって、そのうち、部落解放同盟支部がつくられて、そして、うちの親父が同盟の支部長になって、部落解放同盟岡山県連杭ノ瀬支部という看板がかけられました。

僕は、部落というのは、集落が農村地帯にありますから、そういうものを言うんだと思っていましたが、初めて知ったのは、そういうことでした。高校に行ったわけですが、同級生が、30数名いたんですが、高校へ行ったのは、たったの3人でした。1番お金持ちの地主さんの娘さんが行って、僕と、市会議員の娘さんが定時制高校へ行った、1割に満たないものが高校へ行ったということです。そのことも、部落差別だから高校へ行けなかったということを、その時はわからなかったんですね。どうしても勉強したいということで。ある日学校の図書館で、部落問題研究所が発行している雑誌がある、その中に、紀北地方の高校生の部落問題研究会の記事が出ていました。私はその当時高校の生徒会の書記長をしていて、紀北の研究集会、高校生全日、定時制含めた高校生の研究集会を高野山でやろうということで、その時の講師に西光万吉さんに来ていただいて、水平社の創立のときからの話をいろいろ伺って、はじめて、部落問題を知りました。そして、高校を終える頃になって、どうしても部落解放運動を積極的に取り組みたい、そのために京都に行きたい、ということで、たまたま京都の三木一平さんとか、活動家が来ていまして、県連に推薦され、立命館大学の二部の枠で行った。

立命館では、部落問題研究会、あるいは、学生の自治会活動、あるいは60年安保、そして、朝田学校に学んで、学校で勉強したというよりも、その他のことで学んでいたということでした。このとき、私の目の前で、差別事件がおこったんですね。

立命館大学が府立医大の前で今はもう、なくなりましたが、そこで、ある期末テストが終わって出てきたら、私はその頃市役所に行ってましたんで、同じ年で市役所に行っていたM君が出てきて「M君今どこにいるんや」と聞いたら、中京区役所におるという話になって、「中京保健所には〇〇という千本支部の子がいる。あいつはこれや」と、四本指を出した。「だいたいこれのやつは、顔を見たらわかる」と。こう言われたんです。で、僕は、「俺の顔を見ろ」と、「俺も部落の人間や」と。「これは決して許せない。差別発言をしたが後で、言った言わないとなってはいかん。」たまたまそこに同級生で沖縄問題研究会をしていた人が出てきてまして、盛くん、実は今Mにこういう指出されて、絶対僕は許せへんし確認しといてくれと。Mにはお前、言うてへんいうんやったらね、今ここで言え、と言ったら、「いや言った。すまなかった」となった。

 で、翌日報告しなければと言って、中京保健所に行った。そしたらMは外勤してて、、その頃の彼の仕事は、集鼠班というのがあって、鼠を集める仕事。その係長がおって、その人が松井さんという人やった。で、こうこう、と説明した。その中で、一番問題なのは、彼と話をする内容で、上から言われているということ。上というのは直接上司であるあなただ。あなたがそんなこと言うたんか。と言うた。で、そうこうしているうちに、正木が帰ってきた。で、こっち来いと言うて松井さんと、そんなこと言うたんか。てっきりそんなこと一切言ってませんとまた言うんや。そこで。いや、そうやろと。お前がそういうことを言うやろと思って、あの時ワシは盛君を呼んで確認してるやないかと。証人になってもらってるやろと、それやったら今から盛君に来てもらう。約束してあるから。そしたら、謝り出しよったんや。悪うございました。言いました。そしたらその松井さんがね、正木お前腕出せ。ワシも腕出すと、ここでカミソリでお互い切ろうと。で、お前の血が赤くて、ワシの血が黒かったら差別があってもいいけど、ワシも今まで誰にも言ってないけど、三条や、言うてね。まあまあ、そういう認識をしている真面目な人やったけど、そんな事件があったんです。

その当時、朝田学校で学んだことは、解放理論(部落差別の本質・部落差別の存在意義・社会意識としての差別観念)国策樹立国民運動・同対審答申・特別措置法・同和対策事業の全国展開でした。支部としては千本支部に行って、往時の千本部落の状況・15年史の編集に関わりました。昭和36年に千本支部が再建されたとき、再建というのは水平社当時に南梅吉さん、初代委員長の家、連盟の本部があったところに水平社連盟本部発祥の地という碑を創りました。いったんここまでにします。

 

村上:お話をうかがって、その当時の部落差別の厳しい現実をあらためて認識しました。私から、いくつか質問し、また、会場からも質問や感想をいただいたらいいのかなと。

まず、松井さんにお聞きしたいんですが、今回、50回目の節目を迎えた集会ですが、基調提案にもあった第1回部落解放研究京都市集会は、実はまだ私が生まれていない時から、19702月に開催された。この時、松井さんは第1回の基調提案の事務局長であって、メインスローガンが「部落問題をみんなのものに」ということで、部落差別の解消のためには、市民一人ひとりが課題を自分のものにしなければ解決しないよ、というスローガンだったと思います。当初から、今、当たり前のように50回を迎えているわけですが、それを立ち上げるまでのプロセスには、相当のパワーが必要だったと思います。もう少しそのあたりを詳しくお聞かせいただけたらと思います。

 松井:50回記念ということで、第1回京都市研究集会は、1970年ですね。その3年前に部落解放全国研究集会というのが開かれていまして、そして、その申し合わせの中に、これからは、全国研究集会だけではなく、各地域でこういう研究集会をしてくれという呼びかけがあり、当時部落解放同盟委員長が朝田善之助委員長でしたので、まずは京都からやろうということで始めました。その頃の事務局の中心部隊は解放同盟府連というよりは、京都市役所部落問題研究会というのを組織していまして、その頃会員が40数名の会員がおりまして、その連中が中心になってやりました。それから、この研究会には賛助会員として市役所の幹部の方たちも入っていただいて、研究会は研究会で定例の研究会から、京都市集会開催のための準備の役割もしてやりました。この京都市研究集会が1000名を超える参加者があって、非常に盛会だった。さきほど宮沢先生にお声かけいただいたんですが、その先生のお父さんが解放教育の基調提案した。そういう、市の職員、学校の先生方の協力の中で開催した。また、その京都市研究集会の下に、各地域の研究集会も立ち上げようということで、私がいた千本支部では北区集会というのをやりまして、これも、関係4校の先生方や地域ぐるみの集会ということではじまりました。そういう意味で、京都市研究集会が大きな意味があった。

 

村上:ありがとうございます。あと2点ほどあるんですが、資料の中に「部落差別の存在意義」とありまして、僕なりに考えていたんですが、潜在的に差別意識を持っている人がそれをはっきり自覚させないようにするために、どのような方法で、差別の歴史を伝えていけばいいのか。

 松井:この部落差別の社会的存在意義というのは、単に部落差別が部落民をいじめ、苛むためにあるものではなしに、今の日本の資本主義が部落の者をおいておくことによって、搾取のために部落差別が了されている。したがって、部落解放というのは、部落民だけの問題ではなくて、全国民的な課題として力を合わせて戦っていかなければならない、というのを解放理論として提示したんだと思います。

 

村上:もう一つお聞きしたいのですが、資料の中にある、勤評反対闘争というのがあるんですが、実は私も養正小学校出身で高野中学卒業、子どもたちが主体となった闘争に松井さんだけを朝田さんがまぎれこませたとありますが、そこをもう少しお話ください。

 松井:ちょうど僕が京都に出てきた大学1回生のときに、勤評反対闘争がありまして、養正小学校の子どもと、高野中学の子どもが同盟休校で、子どもたち自身によって、京都市教育委員会と京都府と交渉をもった。大人は誰も入ったらあかん。お前はまだ子どもみたいだから、お前だけちゃんと子どもたちがはねんように、指導しろと言われて入ったんですね。それが、この、朝田委員長の「差別と闘い続けて」という本に私の名前入りで載ったんです。本当子どもたちは、しっかり、交渉をやり闘いました。

 

村上:次に小笹さんにお聞きします。先ほど、全国部落調査復刻版のインターネット掲載に関して、裁判が提起され、いかに部落差別を拡散、助長するもものかを裁判官に理解してもらう、鳥取ループの行為がいかに罪深いものであるかを理解してもらうことが大切であると。報告をいただいた資料の中に、小笹さんの経験、体験がリアルに描かれていますし、差別は人の一生に大きなダメージを与えるんだということが、この中にも表現されています。この裁判で、全国からカミングアウトできなかった方々が、つらい体験を初めて語るという状況が生じている、裁判官にも謙虚に耳を傾けてほしいなと思います。この闘いは単に解放同盟だけのものではなくて、全国の部落出身者を差別から守っていく闘いだと思っています。部落差別をなくそうと努力してきた部落解放同盟はもちろんのこと、国や、地方自治体、企業、宗教団体、労働組合、長年闘ってきた成果を守る闘いであるとも思うんですね。そういう意味で、連帯する仲間がいますので、それに向けてメッセージがあればお願いしたい。

 小笹:私の時代は、あからさまな目に見える差別がありました。今は、いろんな情報が流れているけど、それが本当の情報かどうかわかりにくい。間違った情報もすべて流れてくる。中央本部もいろいろ考えてはいるが、追いつかない。やはり、一人でも多くの人が現状をしっかり把握してもらって、それぞれが考えていただくことが大事だと思う。本当に何も知らない子どもたちが、これから先どんな思いをするかと思うと、不安になります。そんなことは絶対させたくないし、差別はいけないということを一人でも多くに伝えたいと思っています。

 

村上:続きまして、山本さんにお聞きします。お話の中で、教科書も買えず貧しかったとありましたが、オールロマンス事件以降、大きく変化してきた。同和対策事業特別措置法が制定され、みるみる町の様子が変わっていくというのを見てこられて、その当時の地域の方々の思いや、地域の気運がどのようなものだったかお聞きしたい。

 山本:私が運動をやりかけて、いろんなところに連れて行ってもらい、部落差別について、解放運動について学んで、とにかく、自分たちで何とかせなあかんやろう、という気運はありました。今度部落差別解消推進法ができましたね。これは、部落差別は社会問題だという位置づけがはっきりと法律の中に書き込まれた。今まで、いろんな法律があったけど、部落差別をそんな風に位置付けた法律は初めてです。それはすごいなと思ったんです。部落の人のためだけの法律ではないよ、ということをまず、私たちは知らなければならない。部落差別は社会問題だということについて、私たち当事者が、どんなに立派な法律ができても、まず、当事者が頑張っていく、知らせていくこと、この法律はみんなのものだということを浸透させていかなければならない。それは、私たちが言うていかなければならないと思います。

 

村上:もう一つ、識字教室を開放したということで、山本さんの資料の中で、僕が一番印象に残っているのは、部落民に一番必要なのは教育だというところで、そこに集約されているのかな、と思いますが、文字を取り戻すために、いろいろとご苦労をされてきたと思います。識字教室で学習するなかで、文字の大切さを知り、夜間中学、定時制高校、大学へと進まれた、すごいパワーを感じたんですが、行くところ毎に人権感覚を発揮してこられたと思うんですが、それはどのようなものだったのか、お話願いますか。

山本:私は、自分が文字を持ててなかったという苦労は、本当に誰よりも泣きたいくらいの気持ちでしたから、学校教育にまず憧れたんですよね。学校に行きたいなと。で、ただ勉強するだけでしたら、今だったら、本屋さんに行けばいろんな本が出ています。だけど、私は学校生活そのものに憧れたから、給食調理員として採用されて、幸せでした。自分の学習の場が広がったなと、本当に学校の先生といつもいろんな先生と話ができて、ますます、私は文字に対して知りたい気持ちが強くなった。字を知らなかったら何もできないと思いました。だから、退職を待ちました。退職を待って、夜間中学に行きました。で、この夜間中学が本当にいろんな年代の人がいて、若い人もいて、在日コリアン、フィリピンや、中国の人も、そういう人たちと一緒に私は勉強をしていた。ありがたいな、と思ったのは、学習以外のところで、お国の話をいっぱいしてくれるんですよ。それは、よかったなと思う。いろんなことを教えてもらった中で、韓国の方は最初日本語でしゃべらはる。でも話がのってくると、お国の言葉になる。で、私にはわからないけど、側にいる友達が、山本さんわかるか、こんなん言ってるんやでといって通訳してくれた。その友達は今もお付き合いをしています。夜間中学から、そして西京の定時制高校へ。先生に背中押されていきました。夜間中学でも、定時制高校でも、通っている生徒はいろんな人生の問題を抱えて学校へ来ている。その中にあっても、やっぱり、哀しいことに差別がありましたね。その子たちとも、私は随分部落差別について話をしました。

 

村上:世界人権宣言から70年が経ちました。全ての人間は生まれながらにして自由平等にして平和に生きる権利があるということが明記されています。その精神を生かし、私たち一人一人が平和に生きる権利、それから、一人一人の努力であらゆる差別を撤廃していかなければならないということを、人権宣言の中で謳われている。さらに、192233日の全国水平社の創立からあと3年で100年の節目を迎えます。創立大会では、長きにわたる差別の歴史を告発しながら、部落大衆の決起と団結によって、部落の完全解放と全人類の解放を呼びかけて水平社宣言を高らかに掲げたものです。この水平社宣言こそ、日本で初めての人権宣言であるとともに、部落解放の原点であります。人間は尊敬されるものであるという自覚のもとに、部落民としての誇りと人間としての尊厳を貫かれた水平社精神は今もその輝きは失われておらず、多くの人々の心をとらえています。そこで、二つ目のキーワード「つなぐ」ということで、全国水平社100年を控えて、部落差別からの解放を願い全人類の平和を願い、運動をされてきたパネラーのみなさんから、運動の原点と、新たな運動につなげていくという視点で、コメント、メッセージをいただきたいと思います。

 

松井:難しい問題提起をいただいて、どのように答えるべきか。水平社100年、こんなに時間がかかるんかなという思いはある。しかし、山本さんの話にあったように、今になって3年前に、部落差別という呼称をつけた法律がやっとできた。これまた事実ですね。法律を作るには立法事実がいる。こういう事実があるから法律を作って解決をしていかなければならない。政府はじめ、議員は部落差別はなお存在するという立法事実に根差して、この法律ができたんだと思います。そういう意味では、100年たってもまだ、解決できていない。そういう意味で、諸君が諸先輩の思いを受け継いでもらって、どういう風に差別解消のための運動、闘いを、日常不断に続けていけばいいのか。考えてほしいと思います。

 

小笹:「つなぐ」という意味では、やはり私は地域の人たちと仲良くしたいという思いが強くあって、京都市で初めて高齢の人たちへの給食サービスというのをはじめました。月に1回でしたが、高齢者に来ていただいて、食事を提供して、何か困った事ないか?体は大丈夫か?例えば、地域の人って、鶏肉が嫌いな人が多いんですね。で、何とか鶏肉を食べさそうと思って、鶏は体にいいんやで、と伝えて作りました。そんな中で私自身も元気になって、楽しくなりました。また、子ども食堂の事業も始めまして、小学校、中学校の児童生徒に夕食を提供しています。そんなふうに、身近なところでできることを少しずつやることが、第1歩かなと思って、がんばっています。

 

山本:水平社の100年が目の前です。朝田善之助委員長、私は、おっちゃん、おっちゃんと言ってたから、朝善さんのことをそう呼んでいます。朝善さんは水平社50年の記念集会のときに、夜、ご苦労さん会がありました。私は「朝善さんおっちゃん、50年でこんなにりっぱな式典をやるのに、100年のときにはどうするの?」と思わず聞いたんです。そうしたら「何ていうことを言うんだろう、この子は。100年も差別を引きずってどうするんだ」と言われたことが、すごく印象に残っています。忘れられません。あと3年で来るんですよね。おっちゃんが生きていたらどう言ったかと思っています。

それと、私は定時制高校から立命館大学に行きました。立命に行って、経済学の先生に授業が終わってから、「山本さん、あんた、どこのお国の言葉で話できる?」と言われたんですよ。「先生、私は、日本語もあぶないのに」と言ったら、「何を言ってるの」と。「それじゃ困りますよ」で、他の学生に「お前らしっかりと英語習えよ。いろんなお国の言葉を習えよ」と「それでなかったら、どこにも行けないよ。日本語しか話してへんかったら、日本にしか住めないし、日本でしか仕事ができないぞ」ということを言われたんです。私は「大学ってすごいなー」と「これが大学か!」と思ったんです。確かに、語学は大事です。本当に語学を学んでほしいし、世界に羽ばたいてほしいな。うちの地域の子がそうなってほしいな、と、私自身はそう思っています。だから教育、やっぱり教育なんです。学校何てなんやと思う日後もあるかもしれない、けどやっぱり教育なんです。私はいろんなところで、いろんな人の話を聞き、いろんな集会へも連れて行ってもらいます。だけど、私の持っている知識なんてバラバラなんですよ。でも行くことで先生に歴史を教えてもらう、その中で自分の持っている知識がつながっていくんです。だから、学校はやはり大事で、私は地域の子どもたちも頑張って、学校へ行ってほしいと思うんです。

 

村上:ありがとうございます。時間の関係もありますので、次のキーワードに移っていきたいと思います。私たちの運動にとって、全国に結集する解放同盟員の性別と年齢の内訳をみると、3分の2が男性、で、年齢が61歳から70歳までが一番多い。で、全体の5分の2がその方々であるということになっています。いわば、全国の部落解放同盟をこの世代が支えているという状況です。そのような中で、部落差別解消、人権確立の闘いでは、先ほどもお話があった、憲政史上初めて、部落差別解消という用語を使った、画期的な法律が制定され、部落差別の存在を国が認めて、部落差別のない社会を求めて取り組みがスタートして、2年以上が経過していると。こうした、新しい闘いを構築していくなかで、新たな部落解放運動の実践が求められています。同時に支部の青年の独自のアンテナを活用した部落解放運動が、これまで以上に求められていることもあきらかです。そこで、3つ目のキーワードとして、「歩む」次世代が進む方向についてメッセージをお願いしたい。

 

山本:人間関係が大事です。どんな人にも、必ずいいところがあります。ですから、そういう人との話ができる、人の話が聞ける、そういう人になってほしいなと思います。年なんて考えずに、それがチャンスだと、そしてやはり、学んでほしい。そういうことが、自分たちの運棒につながっていくんだと思います。それと、今便利な世の中になってます。ボタン人靴押せば、それこそ、いろんなことがわかりますし。でも私はやはり、文字は知ってほしい。ボタン一つでわかる字というのは、やはり、自分の頭にのこらないんじゃないか。自分の手で書くことが、文字が残ると思うんです。気が付いた時には、いろんなところに出かけて行くことが大事じゃないかと思います。

 

小笹:部落差別ってなんで起こるの?と言ったら、答えられない自分がいっつもあるんですね。やはり、それでなさけないと思うし、自分自身が今の現状を理解して、言葉を発していくこと。一つ一つ具体的に声をかけながら、つなげていくということがまず、一番これからしていくことなのかと思います。

 

松井:本当に難しい問題提起です。私は、発信していくことが大事だと思っています。山本栄子さんは、何年か前に「歩」という本を出しましたね。で、今度またクラウドファンディングで、この夏には次の本を発刊されるということ。いろんな、識字のことも含めて発信されていますね。それが、新聞にも大きく載せられました。その意味でも発信することが大事だなと。他の地域でも、七条でも発信しておられるし、あるいは、竹田の子守歌の改進の取り組みも、そういう意味で大きく記事になっています。

もう一つは、運動をやってきたもの、あるいは行政に努めさせてもらった者として、今まで一緒に闘ってきた仲間もかなり亡くなってきている。寂しくなっていくけれども、やっぱり、健康に生きるようにして、しっかりやってほしいし、それから、辛抱が大事ですね。私は行政マンを40何年やりましたけど、いっぱい嫌な思いも、哀しい思いもありましたけど、しかし、辛抱することによって家族も養ってきた。みなさんも、辛抱して頑張ってほしいな。それから、3つ目に、やはり政治が大切。部落差別解消法も、いろんな政治に関わる人の努力によってできたんですね。今、京都府連では、平井くんが府会議員として活躍している。4月に統一地方選挙があるが、野党が分裂した状況で彼は今回は無所属で立候補し、非常に真摯に活動していると思っている。立憲と国民の接着剤になりたいということで、あえて無所属を選んだ。解放同盟にとっても、京都にとっても大事な議席です。

 

 

 

 

 

村上:せっかくですので、何か会場からありますでしょうか。

 

会場:本日はありがとうございました。兵庫県から来ました。先ほど山本さんの話にもあったと思いますが、朝田善之助さんという方、「差別と闘い続けて」という有名な本とか、全集もあるとおもいますが、人間朝田の魅力、どんな方だったかということを少し、教えていただければありがたいと思います。

 

松井:朝田学校と言われている、山本栄子さんはその中でも優等生だった。僕が、劣等生でお叱りばっかり受けて、去年の4月に朝田善之助記念館というのが初めてできました。一度、時間があれば見学をしてください。初代館長に、井本武美さん。この人は兵庫県出身です。彼も浅田学校の優等生でした。朝田委員長の人となりですが、この間田中角栄の生誕100年でテレビでやっていた。いかに魅力的な人だったかということがわかったんですが、ああいう人間朝善がわかるような、そういう物語というか、そういうのを作ろうじゃないかと、議論しているんですが、朝善については、非常に立派な人だったという人と、いや、あんな〇〇な人はいないよという人と、相半ばするんですね。しかし、ここまで部落解放理論を構築してきた人だから、その人間性がわかるような資料館ということでね。「優等生」の栄子ちゃんからも一言。

 

山本:何も、優等生でもなんでもありませんでしたが(笑)、私はおっちゃんには、本当にいろんなことを教えてもらいました。人を変えるより、まず自分を変えよと、自分が変わらなければ人を変えることはできない。で、人の話を聞け。自分の言いたいことは後から言え、それでも遅くはないはずだ。まず、人の話をきけということを常に言われましたね。私は、朝善さんがどんなに立派な人であっても、神様じゃないので、さっき松井さんが言われたように、いいという人も、悪いという人もあると思う。だけど、もし、その人が悪いと言うなら、批判する人が同じことをしたらダメだと思います。それは、いつも思います。だから、朝善さんのいいところを見習ったらいいと。私はそう思いました。いいとこ取りをしたらいい。それと、特措法は10年の時限立法であって、それから名称を変えながら33年続きました。その間に、私たちがどれだけ変わったのかということを、私はこれからの課題じゃないかと思うんです。33年間、私たちだけじゃなく、行政そのものもどれだけ地域に関しての施策ができたのか、当たらせた人たちの反省もほしい。一番変わらなければならないのは私たちなんですよ。

 

宮崎:水平社100年、どういう100年を迎えるか。100年は迎えるが101年目は100年のことをしていてはあかんので、101年からのことをしっかり考えていかないといけない。

 

松井:宮崎さんは、今議長としてやってもらっているが、成長したなと思います。その前は市役所の部長職までやって、やはり、これも運動と教育のおかげだなと、非常にうれしいという思いを改めて思いました。

 

村上:そろそろまとめに入らせていただきたいと思います。現在、人権侵害、ヘイトスピーチが横行しています。私たちは差別撤廃を希求する多くの仲間たちとの連帯、協働を深め、取り組みのなかで大きな役割を果たすように奮闘しなければなりません。どんなに厳しい状況の中でも、地域に戻れば地元では様々な場所で、女性や青年が活躍をしています。青年部と女性部が連帯し、子どもや高齢者、周辺地域との橋渡しとしての機能を果たし、人権の町づくり運動を推し進めながら、全国水平社創立100周年に向けて、本日の分科会で、諸先輩方からいただいた貴重な討議を胸に刻みながら、部落解放運動の展望を大きく切り開いていきたいと思います。これを持ちまして、第1分科会を終わります。長時間ありがとうございました。最後にパネラーの皆さんに大きな拍手をもってお礼に変えたいと思います。

 

 

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