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第41回人権交流京都市研究集会

  分科会

「共に生きることをめざして」

〜これからの人権教育の課題と展望を考える〜

                     大谷大学2号館2202教室

             

パネリスト

外国につながる生徒(特に中国帰国生徒)の実態から多文化共生教育を考える

                     土岐 文行(京都市嘉楽中学校)

 

 中国帰国生徒のひとりとして 〜いま私にできること〜

                藤田 陽子(宇治市南宇治中学校日本語教室)

 

 今,ここにいる自分

                   陳 太一(東九条マダン実行委員長)

 

T 土岐 文行さん

 

多文化教育とは

・多文化教育,多文化共生教育を進めるためにエンパワメントの視点なしにして取組は進められない。 自分が外国に関わる生徒を中心にしてクラス作りを進めていくと,その生徒から「私のことをわかろうとしてくれてうれしい。」と言葉をもらった。この言葉はマイノリティーにとって大切な視点になる。

・「多文化教育は…(中略)…マイノリティーを学校にあわせようをするように,マイノリティー自身に問題を見るのではなく,生徒の多様なニーズや利益に応えられるように,学校のいろいろな面を見直していこうとすること(中島智子)」である。

これからは“ルーツ”がキーワード

・在日コリアン,中国帰国者,ベトナム難民,ブラジル・ペルーの日系人など,多様な形で外国につながる児童・生徒がたくさんいる。国籍だけでは判断できず,なかなか見えにくい問題であるということを,学校教員は理解しておかなければならない。京都市教育委員会も,2009年3月に「外国人教育の充実に向けた取組の推進について」を通知し,「在日韓国・朝鮮人児童・生徒と同じ背景をもつ日本国籍の児童生徒や他の外国籍及び外国にルーツをもつ児童生徒に広げて取組を進めていく」と外国人教育の取組対象を拡大した。外国人教育を“ルーツ”という視点で捉えていて,京都市が外国人教育を今後ともしっかりと進めていこうとする姿勢の表れである。

京都地域の「中国帰国生徒」の実態から

・京都地域の日本語教室設置校に対する調査の結果,「中国帰国生徒」の教科指導上の具体的な課題では,大多数の教職員が「日本語の力」の不足を指摘していることがわかった。「教科指導上」の問題については,文化・習慣の違いを要因とするもの,教科内容や教育制度の違いを要因とするもの,家庭における学習支援の難しさを要因とするものがみられた。

・「中国帰国生徒」への「特別な」支援の有無について,校内体制としては「(有ると)思う」と回答している教職員が多かったものの,個人としては「していない」と回答している教職員は半数以上いた。「中国帰国生徒」に「違い」があっても,それは是正すべきでことであり,その是正の責任は生徒自身やその保護者にあるという考えが読みとれる。その結果として,特別な支援が日本語教室に一任される可能性がある。さまざまな外国籍・外国に関わる児童生徒がいる中で,学校として,教員として,どのような支援が可能なのかを考える場にしていきたい。

東京都新宿区立大久保小学校の先進的な実践

 ・東京新宿区の大久保小学校区には23.4%の外国籍市民が在住している。大久保小学校には14ヶ国の外国籍児童が通っていて,人数でみると全児童数の6〜7割(5年生においては9割)が何らかの形で外国につながる児童である。新宿区の校区の自由化により,日本人の子どもが他の学校に去るという現象が起こったが,最近では多文化共生教育という面で注目され再び地域の児童が戻って来ている。多文化共生教育の豊かさを象徴する事例である。

 

U 藤田 陽子さん

 

南宇治中学校について

・南宇治中学校の校区には,中国からの帰国者が多く住んでいる。その2世や3世にあたる生徒が南宇治中学校に通っているため,平成元年4月に日本語教室を開設された。

自分の生い立ち

・愛媛県松山市出身で看護士をしていた自分の祖母が,<満州国>に派遣され,56才まで中国で働いていた。その間に,中国人の男性と結婚し,自分の父親を生む。祖母は,56才のとき明石市で仕事を見つけて,家族を日本に呼び,私たちの家族は,自分が6才のときに日本に帰国した。日本に住めば幸せになれると思っていたが,実際は劣等感を感じてしまう毎日が待っていた。

・高校生の頃は,中国人ということを隠し続けていた。次第に「どうして自分は普通の日本人に生まれて来なかったのか。」という自分を受け入れることの難しさをいつも感じていた。19才まで,普通の日本人がいいと思っていたが,南宇治中学校に勤めてから,考え方が変わった。

南宇治中学校の現状と課題および取組

・南宇治中学校では,帰国生徒理解学習と位置づけて,1年生では日本語教室で学ぶ生徒の存在と思いを知る学習を,2年生では日中の歴史的背景と帰国生徒をとりまく集団の力について学ぶ学習を,3年生では中国帰国者が抱える課題を知ると共に将来について考える学習を行っている。この取組の結果,帰国生徒が自分の思いを堂々と話せたり,「中国帰れ!」ということを口にする日本人生徒がいなくなったりという成果が見られた。

・在日コリアンの老人ホームでのボランティア体験では,日本で住み続けることの苦労を知り,それを両親の姿と重ねてしまい,中国人であることを隠し続けてきた自分に,さらに中国語を話す両親を恥ずかしく思っていた自分を改め,もっと自分のことを多くの人に知ってもらおうと思うようになった生徒もいた。

 ・帰国する年齢によって課題が異なる。高学年で帰国する生徒は,言葉が通じず,日本語の言い回しや,文法が理解できない。文化や習慣の違いにもなかなか馴染めず,何よりも隠しようのない中国帰国者という生い立ちに悩んでしまう。一方で,低学年で帰国したり,日本生まれの生徒は,日本語は話せるが,両親との会話が通じなかったり,ふるさとと思える場所がなかったりすることに悩みを抱えてしまい,いずれの場合もいつかは将来のビジョンが見えなくなり,自分は何人なのかわからなくなってしまう。

 ・今,彼らに必要なことは,「生い立ちを知る」「生い立ちに誇りをもつ」「たくさんの人に出会う」「違いを認める(文化の共有)」「自分に自信をもてることを見つける」こと,つまり確実に未来へつなげていける力を育てることである。

生徒から学んだこと

 ・帰国生徒林間学習の中で,帰国生徒だけで本音をさらけ出して話し合う場を設けているが,そこで「何人と聞かれても,この地球に生まれた人だと答えたい。」と言った生徒がいた。この言葉から,自分に誇りをもてた姿勢や思いを感じ取ることができた。

・生徒から「先生,中国語しゃべられへんようになったん?ださいなぁ〜。」と言われた。自分を中国人としても認めている生徒の姿であり,中国人ということを隠してきた過去がある自分にとって意外な一言であり,自分が変わるきっかけとなった一言でもあった。

・自分の目の前にいる子どもにとって,何が一番輝けるものになり,自分に自信をもてるものになるのかをいっしょに探し出していきたい。

 

V 陳 太一さん

 

在日の呼称について

・自分は,「在日韓国・朝鮮人」という呼称ではなく,朝鮮はもともとひとつの国なので「在日朝鮮人」という呼び方にこだわってきたい。自分は,両親ともに朝鮮人で,17才のときに帰化をしている在日3世である。

小学校のときに自覚

・小学生のころ大阪の今里に住んでいて,近所にも在日の方がたくさん住んでいた。小学校4年生の頃,親の保険証に“陳”という名前が書かれてあるのを見る。自分の名前は“福本”なので疑問をもち,親には何となく聞けなかったので,青少年センターの玄(ヒョン)先生に尋ねると,あっさりと在日朝鮮人であることを教えられた。玄先生は解放同盟で活動されていて,「アリランの会」でも在日の子どもを集めて取組をされていた。そこで,被差別部落出身の子どもといっしょに石川さん事件や安重根のことなどの学習をした。

本名宣言,そして帰化

・中学校のときに,生活体験作文の発表で,学年の中で本名宣言をした。最終的には,文化祭の大きな場でも本名宣言をした。一方で,弟のことが気になった。自分が本名宣言することで,弟がいじめられ,迷惑をかけるのではないかという心配があった。

・先生からの提案で,朝鮮文化研究会を立ち上げ,朝鮮半島の文化を教わったり,部落問題を研究したりもした。

 ・中学卒業のときに,親が仕事の都合で帰化申請をした。自分としては,本名宣言をして,これから朝鮮人として生きていこうとうしているときでもあったので,反対であったが諦めた。卒業証書には帰化の予定があるから日本名でもらった。しかし,後になぜ,自分の思いを貫いて“陳太一”でもらわなかったのかという悔いが残った。17才のときに帰化申請が下り,これを機に朝鮮人を捨てて,日本人として生きようと思った。

ハンマダンでの活動に至るまで

 ・京都で就いた不動産関係の職場での先輩の発言が差別発言であるとわかり反論したこともあった。しかし,周囲のそういう言動や雰囲気は続いたので,京都で運動することを思い立ち,幼少期にお世話になった玄先生に相談した。様々な団体や人を介して,ハンマダンを紹介され,朴実さんと出会う。そこでの活動は,自分にとって新たな立場の発見と驚きの場であった。

今の自分の生き方

 ・今は京都市バスで運転士をしている。仕事場では“福本泰一”と日本名を,ハンマダンでは“陳太一”と朝鮮名を名乗っている。これは,中途半端と言われるかもしれないが,どちらの名前も大切にしていきたいという自分の立場を明確にするひとつの姿勢である。

 ・ハンマダンでの活動を通して,いきなり「差別は反対」ではなくて,朝鮮の文化を少しずつ知らせていきたい。何かをきっかけにして,お互いの文化を知り合う,お互いの立場を話し合うところが相互理解のスタートと思う。

 

〜意見交流〜

1.意見

  出会いは大事。自分が育ってきたアイデンティティをどう表現していくのかいうエンパワメントにつながる話だと思った。自分は教員だが,その人の人生を否定しない取組をしたい。

近年は,フィリピン,インドネシアの介護士の子どもたちが京都市でも増えてきている。その子どもたちへの関わり方が,今後の課題となるのではないか。

2.意見

  3人の方の話を聞いて,自分がこだわったことがある。それは,「何人かと問いかけることの意味」と「外国人であることを隠すことの問題」である。陳さんは,高いアイデンティティをもっていると思った。

まだまだ,教育現場では自分の国籍を隠す子どもは多いので,昔とあまり変わっていないように感じる。小学校で教員をしているが,外国籍という理由で,婚約破棄をされた教え子がいる。これは明らかにお

互いの認識不足が原因。お互いの立場を正しく知ってしていないし,きちんと学ぶ機会がなかった。その部分を補っていくことが教師の役目ではないか。自分のルーツを堂々と言えるクラス作りが大切である。

3.意見

  自分は12〜13年間,東九条地域にある中学校で勤務している。今の東九条は,在日朝鮮人だけではなく,中国籍,フィリピン籍,タイ籍など民族が多様化しており,つまり多国籍化している地域であることをみなさんに知ってほしい。南宇治中学校の話でもあったように,将来のビジョンが見えない,親との会話ができないという課題は,同じように見られる。自分たちが成長していきたいときに,モデルとなるものがないというのが現状であり,最大の課題である。

 〈司会より〉

   ニューカマーと呼ばれる人たちは,衣食住が足りたら,生活が安定するというのは間違いである。将来に向かって,一歩一歩確実に歩んでいけるビジョンがないと,子どもたちにとっては,生活が安定しているとは言えないのではないか。

 4.意見および質問

   同じ日本人でも,それぞれでルーツが違うことが多々あることを改めて認識できる話であった。国籍

というひとつの枠で,子どもを捉えるのはナンセンスであると感じた。自分は京都市立小学校で教員を

しているが,自分の国のルーツをひとつの個性として輝かさせたり,本名や国籍を明らかにしてもいい

と思えたりできるような取組をしていきたい。

 土岐先生に質問だが,大久保小学校のお話の中で,多国籍の子どもが多い現場にも関わらず,笑顔で

明るい雰囲気が常にあるということだったが,そのための具体的な取組とはどのようなものか。

〈パネリスト 土岐さんより〉

 例えば,校内には6ヶ国語の学校だよりが掲示してある。これは,地域の人が翻訳するなどの協力が

あってできること。また,チャンゴなどの,それぞれの国や民族の文化に関わるさまざまモノが,普段

から置いてある。一般の小学校では,トピック的な学習として一時的に取り入れるだけだが,大久保小

学校では,子どもたちがいつでも気軽に触れることができる環境が設定されている。つまり,いろいろ

な国の文化が共有していることが当たり前と思えるような雰囲気作りを,さまざまな形で意図的にして

いる。

5.質問

  自分は京都市立中学校で教員をしており,台湾籍の生徒をもっている。家庭訪問で保護者と話す機会があるが,勉強についての話はしてくれるものの,地域の行事についての話は乗り気ではない。その家庭と地域に住んでいる台湾人1世,2世とのつなぎ方がわからないので,実践があれば教えてほしい。

 〈パネリスト 土岐さんより〉

  いろいろなところで横のつながりを支援する取組があるのでひとつだけ紹介する。今,その取組をしておられる京都教育大学の浜田先生から説明していただく。

 〈京都教育大学 浜田先生より〉

  学生主体で取組をしている。何らかの形で外国にルーツをもつ子どもが,いろいろな国の言葉で話をしたり,悩みを語ったりする場になっている。

 〈パネリスト 藤田さんより〉

  南宇治中学校では,周囲の生徒から変えていくことに視点をおき,“水餃子作り”という魅力的な場を用意して,みんなで交流したことがあった。外国籍の生徒が作り方をよく知っているので,活躍できる場になる。中国籍の地域の方々にも手伝ってもらうことにより,子どもたちは目を輝かせて料理の過程に触れることができた。つまり,お互いが喜べるようなひとつの教材を見つけて,それを中心にした交流や取組をすることがひとつの手段ではないか。

最後に…

〈パネリスト 土岐さんより〉

  外国にルーツをもつ児童生徒は,大学まで行ってみたいという思いをもっているものの,そこに至るまでの過程がわからない。モデルの提示,ビジョンをもたせる,将来に向かうプロセスをはっきりと支援してあげることが大切である。

〈パネリスト 藤田さんより〉

  自分を受け入れられずに,話をすることも嫌という生徒がいる。この生徒は,今までに原因となる体験をたくさんしてきていることと思う。時間はかかるかもしれないが,学校で過ごす時間が,その子にとって少しでも何かを捉えられる時間となれば嬉しい。今は,高校進学に向けて頑張っていることがひとつの可能性である。

〈パネリスト 陳さんより〉

  朴実さんは,自分の民族名を取り戻してくれた第一人者である。東九条マダンは今年で18年目を迎えるが,ここに至るまでにたくさんの苦労があったが,多文化共生を目指して歩んできた。今の東九条はたくさんの国籍の人が住んでいる。これからも,いろいろな衝突があるだろうが,東九条マダンを続けていく中で,これからもお互いが少しずつ歩み寄れたらいいと思う。

〈司会より〉

  ここにいる大人が,何らかの形で子どもたちにとって,たくさんの出会いの主体者になることで,多文化共生の意味を知る力をつけてほしい。

 

まとめ

 土岐先生は教師の立場から,様々な外国にルーツをもつ人が在日となった歴史的経緯と,アンケートや調査の結果をもとにして,中国帰国生徒にどのような支援が必要かについて話された。特に,日本語教室の担当者だけが特別な支援を行うのではなく,教員一人一人が個人として,何ができるか考え,取り組んでいくことが必要なのではないかと感じた。

 藤田先生は帰国者として,指導者として両方の立場からのお話をされた。自分のルーツに自信をもつことができなかった経験が帰国生徒の理解につながっていることや,生徒の姿から藤田先生ご自身が学び成長していることがよくわかるお話だった。また,“水餃子づくり”など周囲の生徒の意識を帰国生徒にむけさせ,理解を深めるための実践もわかりやすく示していただいた。

 陳さんの生い立ちや人との出会いについてのお話を伺う中で,「日本名と朝鮮名どちらも大切にしたい」という思いが,自然なこととして受けとめられた。また,小学校・中学校時代の解放教育,外国人教育に影響を大きく受けたことが「反差別」の人間形成につながっていると感じた。ハンマダンの活動が陳さんにとって反差別の運動であることもよくわかるお話だった。

 パネリストのそれぞれのお話のつながりがあり,人の生き方に関わる問題として「自分のルーツを受け入れ,他者に認められること」がどれだけ重要な問題か確認できた。そして,何よりもそれぞれの立場で多文化共生という視点で前向きに取り組んでいきたいと思えた話し合いだった。

 

アンケートより

       お話を聞いて,非常に熱い気持ちになりました。教師として今後の教育活動に生かしていきたいと思います。

・ 人として,魅力ある方たちのお話が聞けて,とても自分のためになった。これが,出会いと思った。

     藤田先生の生徒作文は,外国人,部落,帰国子女など全ての根本的なもの,感動的な話でした。

     藤田さんのお話は,とても興味深い上に,元気を頂ける話でした。

     陳さんは,ご自身で悩んでいるというお話が,とても身近に自分の問題として考えられました。

     自分に自信を持つこと,誇りを持てること。…学力向上のみに目を向ける大人が多い中,心の居場所が持てるような人権意識の強い集団になれば,子どもも大人にも暮らしやすい環境になっていくと思う。

     藤田さんのお話の一つ一つが未来を向いていたこと,陳さんの二つの名前を使っておられる説明にみえた正直なお気持ちが心を打ちました。今の自分が未来へ向かって努力しているか恥ずかしい気持ちになりました。

     この分科会に初めて参加し,視野を広げ,認識を深められたと思います。

     外国籍,外国にルーツを持つ,帰国生徒,在日の児童生徒が抱える問題に共通する取組が見えてきます。自らをさらけ出し,胸を張って生きていける社会を築かなければなりません。

     体験談は,説得力があります。自分に輝くものが見つかった時,自分に誇りを持ち,堂々と「地球人」と言えた生徒の話が印象的です。

     自分のルーツを隠さない,逃げないことを通して,自分の新しいアイデンティティを創り出す生き方を陳さんから学んだ。そのきっかけを,学校で創り出すことが,とても大切だと思う。

 

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