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第39回人権交流京都市研究集会

  分科会

教育保障の拠点《学習施設》のこれから

 

                       京都会館会議場   

  司  会   阿部 三郎(部落解放同盟京都市協議会)

 

 素材提起

コーディネーター  外川 正明(京都教育大学教員)

  パネリスト  小泉 繁雄(改進学習施設指導主事)

         熊本 孝彦(京都市小学校同和教育研究会)

         矢野 昭人(京都市中学校教育研究会人権教育部会)

         長谷川 良知(部落解放同盟京都市協議会)

  記  録   重田 耕成(京都市中学校教育研究会人権教育部会)

達富 裕司(京都市小学校同和教育研究会)

 

素材提起 補習学級開設から開かれた学習センターへの経過を振り返って

 

 3年間学校現場から離れていたので,センターをめぐる動きは理解しておりません。最近は,存在意義を失った学習センターは廃止してしまえなどといった声が聞こえてきます。しかし,まず,なぜ学習センターが始まったか,補習学級が始まったかを提起していきたいと思います。そして今後どうしていくのか考えていきたいと思います。

京都の同和教育(一人ひとりを徹底的に大切にする教育の根幹)はセンター学習だけで行われていたわけではないことは皆さんご承知の通りだと思います。資料の70ページ,平成155月に京都市教育委員会が『学校における人権教育を進めるにあたって』の資料集を出しているのですが,昭和26年から京都では様々な同和対策事業が開始されています。それは何よりもまず授業の改善,学校での教育活動全般を通して部落の子どもたちの学力や進路を保障していくために取り組まれてきたことは間違いありません。

今年で教職30年目になりますが,3年目に3年生を担任しました。中学年対策ということで,何とか読み書きの力を付けたいと考え,詩の指導を始めました。すると,地域の子どもが,「おにぎり」という詩を作りました。一つのおにぎりをめぐっていろんな表現をしてくれています。これが京都新聞に掲載されたのです。お母さんが喜ばれ,お父さんも喜ばれましたが,お父さんが,自分も詩で賞状をもらったことがあると言われ,びっくりして帰って図書室で見たら,理論社から出ている『キリンの本』にありました。「あそんで」という詩でした。この詩を読んだときに,体が震えました。ここには,悲しいも悔しいも辛いもなく,淡々と自分がおかれている現状が綴られていました。そして,おにぎりの詩を書いた子に,他に伝えたい思いがあったのではないか,そして,お父さんの担任の先生はどうしてお父さんの思いを引き出したのかと考えました。そのときに同和教育が大切にしてきたこと,地域の中に入っていって,子ども達の生活を守ることの大切さを教えられました。つまり本当の子ども達の思いを伝えていくためにはやはり地域に入っていかないとだめだと思いました。

1年後のお父さんの書かれた詩がありました。「死んだおかあちゃん」です。なぜお父さんがこの詩を書くような生活実態になったのかをレジュメに書きました。1952年に補習学級が開設されています。このお父さんは1955年に小学校3年生でした。つまりお父さんが入学されたときに補習学級というものが始まっていったのです。

では,始まっていった背景には何があったのかというと,補習学級の開設を地元の学校の先生方が教育委員会に申請書を出して始まっていったのです。先生方が子どもの実態を見て申請書を出していかれた,これが補習学級の出発です。

ではその背景にあった子ども達の生活実態はどうだったのか。当時の部落の被差別実態が数値で出ています。1950年の京都市の実態調査の報告書によると,大変劣悪な住環境で,学力以上に劣悪な状況であったことが分かります。そんな中で補習学級が開設されてきたのです。(資料参照)そのような形で子ども達を集めた学習会というのが背景にあったのです。私が教員になったときに,隣保館の2階の小さな学習室で学校と同じ机を置いて子ども達の勉強を見ていくということをしてきたのです。

1964年に京都市の補習学級への取組が大きく転換してきます。一つは,同和教育方針というものが策定されたこと,そして進学促進ホールというものが新たに開設されたことです。その背景には何があったかというと,まず,子どもの不就学率がかなり改善されました。1964年には不就学児童がようやくゼロになりました。この大きな転換をされていく背景には,1962年におこった,大倉酒造の就職差別事件というものがありました。ようやく学校に来れて学習をして,中学校を卒業していった,その子ども達を待ち受けていたのが就職差別事件であったのです。簡単に話をすると,1962年の11月に行われた伏見区の職業安定所主催の求人説明会がありました。そこへ中学校の先生方が来られ,その時にある教員が,「在日朝鮮人の子どもを採用してくれるのか?」と質問をしたところ,大倉酒造の労務担当者が,「今まで部落の人々も来ていないし,今後についても遠慮してほしい」と言い切りました。その後中学校の先生が,それはおかしいのではと,職業安定所に抗議に行きました。あからさまに,部落の子は採らないと言っている。その学校に通う部落の子ども達の進学状況は,卒業生60人のうち,高校進学は僅か10名,(京都市の平均の4分の1)職業安定所を通じて就職したのが34名(57%),残りの16名は就職が決まらないという厳しい状況,こうした状況を現実としている中で大きな抗議行動が行われていきます。それがこの後,就職差別に対する撤廃抗争になっていって,皆さんご存知のように,細かいことまで書かされていた社用紙が,ようやく統一応募用紙に変わっていったということがあります。これが1960年代から京都を中心として始まっていった同和教育の大きな成果になったわけです。

これはある会社の採用のときの採点表です。(資料参照)これを見ると,怒りを通り越して笑ってしまいそうですが,こんなものが公然として使われて,就職試験が行われてきたのです。これは1962年までは当然のようになっていた。中学校を卒業してもまともに就職への道を進んでくる部落の子ども達はいなかったのです。1952年からの補習学級を通して部落の子ども達が進もうとしている就職への道を真正面からふさいでいく,そういうことから差別事件が明らかになっていったわけです。それを私たちは忘れてはいけない。大事なことは,差別によって結局はその子達は就職されていない,そういう犠牲がある上で行われてきたことを伝えておきたいと思います。

しかし,京都市の場合はそれだけではありません。もちろん中学を卒業した部落の子どもを採用しないという会社も問題です。しかし部落の子ども達の高校進学率が,全市では70%の時代に,僅か17%しかない。そのことこそ問題なのです。しかもその多くは縁故就職です。そこから,子ども達への学力保障への動きが進められていき,進学促進ホールが設定されたのです。それと同時に京都市では全国に先駆けて,同和教育方針を1964年に策定し,今現在でも無くなっていません。それは学力向上を至上目標にしていて,そこには,簡明に要所だけを指摘して「学力を高める」ことに凝縮してやっていこうということを強調しています。そして,本来同和教育や人権教育は,差別を受けている人たち・子ども達がいるからその教育が必要なのであって,差別を受けている人たちがどうやって進路を切り開き,生きる力を保障していくのか,これが根幹なのです。それを京都市の場合はきちんと守ってきたのです。そして大切なのがその次です。(資料(ウ)参照)つまり,就職差別の撤廃も大切なのだけれど,まず生徒の学力をつけていくことが大事なんだと提起されています。それと,「非行問題もしかり」の部分も注目したいところです。進学できない,就職できない子ども達がいろいろな問題行動を起こしている。これに対してもまず生徒の学力を高めることが大事だということにつながります。  

このようにして,二つ目の段階として進学促進ホールが開設され,そして子ども達の高校進学という問題が大きな課題になってきました。そして次の段階,1978年の段階で,京都市教育委員会はさらに,「同和教育の概要」を提示し,その中で,このように課題を提起しています。(資料参照)文部省から新学習指導要領の案が示されました。知識理解と応用・活用,この両分野を同じように高めていかなければならないということを京都市は真っ先に,1978年の段階でそれを指摘していたのです。基礎基本と応用できる力をどのように高めていくかを提起しています。具体的には,小学校・中学校では,このように指摘されています。(資料参照)それはつまり,小学校の段階では,すその学習ということが言われます。様々な基本的な体験・経験をしっかり保障していこうということです。土台(すその)がしっかりあって,その上に子ども達の学力を積み上げていくことが出来る。それが文化資本です。中学校ではそれを広げることによって夢を持たせていこうということを提起しているのです。ふり返って言えば,補習学級の開設から努力して,何とか学校の授業についていけるようにがんばってきた。しかし世の中は,それだけでは高校進学ということでは,社会が要求している水準にはまだ達していない。そこで高校進学というのを目標に進学促進ホールをやってきた。しかしそれだけでは主体的に学ぶ力がつかず,大学進学につながっていかない。だからやはり子ども達がもっている学力のすそのを広げないといけないのではないか。そのためには,あの子ども達の生活実態の中で培われてきた文化資本のき弱さを直したいという活動が展開されてきたのです。そしてそのために学習センターが建設されていきました。(資料参照)学習条件を整備するというのは,ただ単に今のこの家庭の条件ではしっかり学習できないからというだけでなく,様々な体験や経験をこの場で展開していきましょうという意図で造られたのです。その過程には多くの地域や教師の要請のもと,そのあり方を検討して進められてきたのです。そして子ども達が主体で学習センターで話し合い,学習を進めていったのです。単なるドリル・スキルの学習から大きく広がる活動を子ども達が展開していくようになりました。今まで,旅行に行くにしても,車で目的地に着いて楽しむだけだった子ども達に,もっともっといろんなことが出来るということを学習センターで伝えてきました。中学生には,部落問題解決の主体者としての能力を高めるためにこういうことをしていこうという気持ちで関わってきました。ですから一方で地域学習というものもやってきました。改進では鹿の子絞りについて学習をしてきました。その感想があります。(資料参照)このようにして,子ども達のすそのを広げていく,そして,こういう活動を通して,自分達で調べていく,同時に自分たちの生き方を探求していく。そういう学習が各地でなされていったのです。

ところが,1996年以降,次第に大きな転換をしていくことになりました。(資料参照)今まで同和教育が培ってきたものをどのようにしていくのかが大きく論議されて,2002年の法切れに向けて京都市では各市に先駆けて着実に検討されてきたのです。つまり一人ひとりを徹底的に大切にするという精神を途絶えることなく継続し,さらにそれを普遍化していくことが言われ,1996年から2002年に向けて検討されてきたのです。ゆとり教育の名の下,教育格差が広がっていく年でした。そんなときだからこそ,同和地区の子ども達,最もしんどい立場におかれた子ども達にやってきた教育のあり方というものを,全ての子ども達に届けることこそ大切だという京都のスタンスがあったのだと思います。そして,その結果として,2002年に,「特別施策としての同和対策事業の終結とその後の取組」が出されます。(資料参照)残念ながら,2002年3月をもって施策を打ち切られたところで,なおかつ被差別部落の中にはいろんな条件の子ども達が残っている。その上に立って学習センターについては児童生徒の積極的な交流などに使用して,地域に開かれた教育センターとして活用していきましょう。今まで同和地区の子ども達に進められてきたこの施設の使用を,広く地域の教育センターとして,こうした一人親家庭や経済的支援を受けざるをえない家庭などの子ども達を中心として展開していくべきだということで方針が出てきました。そしてそれを受けて京都市教育委員会も2002年5月に「学校における人権教育を進めるにあたって」を出して結論に至っています。つまり2002年の段階で,学習センターはもう同和施策ではありません。2002年4月で,学習センターは,学習施設という形で名称が変更され,同和施策ではなくなったのです。そもそも学習センターは,子ども達が学校へ行けない状態,十分家庭で学習できない状態,そして,つけられていくべき学力が本当に基盤になる部分で,き弱なものでしかありえない実態,家庭の文化資本が十分育っていない状態の中で,それを解消していくためにこの施設を立ち上げて,確かな学力を育てていこうとしてやってきたのですから,その過去に遡った実態が本当に解消されたかどうかが一つの判断基準になるでしょうし,子ども達の今の現状がどういう状態になるのかということを出発点にしてこれから学習施設のあり方,と同時に学校では教育のあり方を検討されていくべきではないかと思っています。

 

【シンポジウム】

コーディネーター:外川 正明(京都教育大学教員)

これから,「学習センターと子どもたちの今」というテーマで,シンポジウムをはじめます。このシンポジウムは,学習施設,小学校,中学校それぞれにお勤めの方,中学生の子どもを持つ保護者の方,それぞれの立場で率直な意見を出して頂き,今何がおきているのかを明らかにし,今何が課題でどう解決していくのかを考えていく素材を提起していくものです。ぜひみなさんから忌憚のない意見を出して頂けたらと思います。

 

パネリスト:小泉 繁雄(改進学習施設指導主事)

これから,改進学習施設の06年・07年度の利用状況の比較と現在の取り組みのようすについてお話しします。学力保障の取り組みはすべて学校で完結させるという方針のもと,学習相談事業はなくなりました。それに伴い,利用者数にも変化が見られます。自習室の利用状況(4〜12月)は,06年度11,432人,07年度7,146人でした。小・中学校では06年度は学習相談事業があった関係で多くなっていますし,高校生には直接の影響はないのですが,若干06年度の方が多いです。改進学習施設では,留学生の利用がありますが,昨年までの規制をなくし誰でも利用できるようにしており,利用数を促進しています。次に,図書室は07年度の方が利用者数が増えています。これは,児童館の低学年学童の積極的な利用を図ったためです。また,中学生がテスト前勉強や,小学校の調べ学習なども徐々に増えています。さらにここ数年,高校生や予備校生,一般の方の利用も広まってきています。次に,今年度の事業のようすです。今年から保護者と一緒に作業している「菜園活動」,週2回60人ほどが利用しコミュニティセンターで発表もしている「小学生音楽教室」,親子一緒に書道の楽しさを味わってもらう「書道教室」,読み聞かせや人形劇などを通じてお話や読書に興味を持ってもらう「お話ワンダーワールド」,低学年児童を対象に英語だけで進める「お話ワンダーワールド英語体験」などさまざまな取り組みを進めています。また,昨年のセンター学習として,竹田・藤ノ森両小学校が一緒になって体験的な活動をいろいろとやりました。今も,たくさんの児童・生徒が改進学習施設を利用し,学校の先生も子どもたちの顔を見に来て下さっているので,ありがたく思っています。

 

外川:ありがとうございました。2002年度から同和施策としてではなく,地域外の人にも利用してもらえる施設に転換してきました。改進学習施設は他県からたくさん施設に来られています。その中の声を紹介してもらいます。

 

@「法切れ後,組織としては人権教育センターになりましたが,改進学習施設と同じように,多くの子どもたちが利用しています。最近は,特別支援の視点からも,家から出にくい子どもやその親などの利用も広がってきています。学びたいものが学べる場としての学習施設は守らなければならないと思います。」

A「私が小学校1年生の頃,学校の教室を借りたオルガン教室に申し込みました。1回目のレッスンの時,月謝が払えないため入会を取り消したことがありました。独学で採用試験には合格しましたが,あの時月謝が払えたらと思う時があります。」

B「子どもの力を伸ばすための施設がありうらやましく思いました。学力保障だけでなく,子どもたちが自分の地域の歴史や現実,そしてそこにくらす人の思いを学び感じ取ることにより,子どもたちは地域に誇りを持ちしっかりと人生を歩んでいけるのだと思います。」

 

外川:ありがとうございました。続いて,中学校の教員の立場で矢野さん,お願いします。

 

パネリスト:矢野 昭人(京都市中学校教育研究会人権教育部会,弥栄中学校)

最初に確認したいのは,学習施設があるから何かするのではなく,課題があるからいろんな取り組みをしているのだということです。部落の子どもだけではなく,すべての生徒に課題があります。弥栄中学校には80数名の生徒がいます。学力的や意識的が高まっている子を伸ばしていくことも大切ですが,ここでは学校になかなか来れない,学習が定着しない,生活習慣が身に付いていないといった子どもの課題について考えていきたいと思います。本校の生徒の課題としては,大きく三つのものがあります。一つ目は,基本的生活習慣が身に付いていないことです。先ほども文化資本という言い方をされていましたが,マナーや規則を守ることなども含め,微妙な感覚の違いがあるように感じます。二つ目は,同和問題認識です。自分の立場を含めしっかりと認識が持てていない生徒が多いと思います。三つ目は,学力の問題です。生活の問題も認識の問題も学力に関わることですが,狭義の学力,つまり国語や数学,英語の学力に課題があると思います。中学校で義務教育が終わり進路を考える時,本校生徒の中にはフリーターの道を選ぶという生徒も多くいます。その時に私達教員は,生徒個々にしっかりと学力を付けて行かなくてはならないと思うわけです。なかなか狭義の学力がつかない,そこに何が原因としてあるのか。勉強がする気がない,何で勉強せなあかんのやと,そういうことをいう生徒がいます。座って鉛筆を持ってノートをとる,プリントがあれば真剣に取り組む,それができない子には何があるのかというと,先ほどの生活や意識や認識に大きな問題があるのです。目標や夢がなかったりする,そしてその背景には部落差別があるなどさまざまな背景があります。また,こういう子どももいます。学力的にはしんどい子なのですが,黒板にポイントを書いて練習問題をすると結構できたり,ヒントを与えるとすらすらと答えも書けます。ところが,次の日あるいは一週間後に同じ問題をやらせるとできない。一生懸命やってるけど定着していない。正直に言うと学校では定着のための時間がなかなか取れないのが現実です。では,どうするのかというと,それは家庭でやってくるものです。ところが,学力的にしんどい子は,家庭の中にそういう時間や場所がないのです。では,家で学習をやっていない子に,学習する時間や場所をどうやって確保していくのか,今まではそれを学習施設でやっていました。今まで同和施策でやってきたことをそのままやることは必要だとは思っていませんが,必要な子には必要なことをしなければならないと思っています。今,本校では学校の中でどのようなことができるのか模索しています。7時間目の授業や放課後の補習をやっている学校の先生からも話を聞いています。弥栄中学校は繁華街の中にあり,夜の8時,9時まで学校で補習をやって,その繁華街の中を生徒に帰らせるのはどうかと思います。生徒の中にはセンター自主的に利用している子もいます。これはこれでいいと思いますが,生徒の自主性に任せるだけでは定着が進まないと感じています。

 

外川:去年,大阪市の調査で,小学校6年生の国語の平均で13%,中学校3年生の国語・数学・英語3教科の平均で18%の差があり,しかも無答率が小学校で2.6倍,中学校で2.2倍もある。大阪の先生方は,しんどい子が,地区の子も含めて学力を引き下げてしまっているのではないかとおっしゃっていました。また,今年4月に全国一斉学力調査が行われたが,この結果を見ても就学援助率が高い学校ほど平均が低かったり,OEDの調査では,日本は高いレベルの子も多いが,低いレベルの子が圧倒的に多いという結果が報告されています。

 

矢野:本校生徒は非常に少ないのですが,それでも非常にしんどい子がいます。テストでも,名前を書いて出すだけの子や,一生懸命やっているけれどなかなか点数が取れない子もいます。二極化に近い形になっていると思います。

外川:矢野さんからは中学校の立場で,子どもたちには必要な時に勉強ができる場所が場所が必要なんだというお話を頂きました。今度は,小学校の立場で,竹田小学校の熊本さんからお願いします。

 

パネリスト:熊本 孝彦(京都市小学校同和教育研究会,竹田小学校)

中学校では進路に向け,学力の充実について指導されているとのお話がありました。小学校でしっかりした学力を付ければ,中学校ではそういう心配はないのでしょうが,現実にはできているとは言えません。特に地区に住む子どもたちの学力実態は,まだまだ低いものがあります。以前はプリントや問題集をしていましたが,進学率あるいは中退率を見た時に,もっと基本的な力を身に付けさせるために「すそ野を耕す」学習に切り替えてきました。以前の家庭の状況は,教育的刺激を求めて外出するとか,動物を飼ったり植物を育てているといった所は,かなり少なかったです。新聞をとっていないなど文字文化から遠ざかっている現状もありました。そういう中で育つ子どもには,様々な経験が不足していると考え,学習センターでいろいろな取り組みをしました。菜園で野菜などを育てたり,泊を伴う校外活動をしました。家で歯磨きしているか聞くと「歯磨きしてないよ」と言う子どもがいました。家には歯を磨く場所がないのです。そういう基本的生活習慣を家庭で定着しきれない子どもがたくさんいたので,泊を伴う取り組み等も実施したのです。将来展望を持たせる取り組みも行いました。センターの一室で仕事の本を読んだり,大学見学にも行きました。また,自分のまちに誇りを持たせるため,地域のことを教材化しました。生まれてすぐ亡くなる子が多く地域にたくさんお地蔵様があること,大きな川が合流する改進地区には水害が多かったこと,差別から祭りから除外された人々の思いも学習する中で,子どもたちの人権意識を高め,自分のまちを誇りに思う,祖先を大事にする思いを育む学習をしました。これらは,2002年以降センターでは実施していません。学校でもこの問題については実施できないと思っています。まだまだ20年前と変わっていない状況があるのも事実です。学校では,どの子にもわかる授業の創造,放課後の個別指導,経験拡充のふくらませるための部活動等,さまざまな取り組みを進めていますが,センターでやってきているものですべて学校でというのは無理があると思います。学習施設の活用についてはこれからも論議して行かなくてはならないと思います。

 

外川:先日,京都市から2000年の同和地区の実態調査報告書が出ました。教育の分野で,20〜29歳で同和地区に住んでいる方の18.5%,30〜39歳の27.6%,40〜49歳の32.1%が中卒であるとの統計があります。20〜30代といえば,ほぼ高校進学率が100%だったはずです。高校や大学に進学した世代が部落外に流出し,生活が困難な人たちが部落の中に戻ってくる。まだまだこういった支援を必要とする家庭が地域の中にあるのでしょうか。

 

熊本:今や高卒当たり前,大学全入といわれているが,竹田小学校を卒業した子の中に,姉は高校を中退,両親も中学卒で終わっており,親戚の中に高校を卒業した人がいないという家庭で育っている子がいます。本校の子どもの中にも学習施設を自主利用している子どもがいます。家に学習するスペースがないのです。先ほど話したかつての状況と何ら変わらない家庭環境もあります。

 

外川:次に,その地区の保護者の一人として,地域の教育活動に取り組んでおられる,長谷川さんからご意見を頂きたいと思います。

 

パネリスト:長谷川 良知(部落解放同盟京都市協議会)

私には今でも忘れられない言葉があります。1974年,私が小学校2年生の頃母が私に言った「小学校2年からの勉強はよう見てやれん。そやから,学校の先生の言うことをよく聞いてしっかり教えてもらうんやで」という言葉です。そして,当時行われていた補習学級を休むことは許してもらえず,私の母にとっては補習学級に行かせることでしか,子どもの勉強には関わってやれなかったのです。同じ時期に私のおばさんが,隣保館の識字学級の帰りに私の家に立ち寄り,こんな話をしていました。「今日はひらがなを習った。こんなひらがな習ったで」。その姿が,今までも目に焼き付いています。このように文字や教育を奪われてきた環境は,けして私の家だけの特別なことではありませんでした。家の中で活字といえば教科書ぐらい,一間に家族4人が暮らしていましたから,家庭で勉強が定着できる環境はほとんどありませんでした。その後,小学校4年の時に改良住宅へ移り住みました。その改良住宅ですら教育条件が整ってはおらず,親の実態があって,朝の歯磨きや洗面,また家庭学習を取り入れた生活習慣は確立できないままでした。そして,高学年になると地区外の友だちの家にも遊びに行くようになりました。そこで驚いたのが,新聞があって友だちのお父さんがその新聞を読んでいる,家の中に百科事典が並んでいる。他の友だちの家には自分の部屋があって机の上には地球儀がある。その時僕は,こんなに条件が違うのかと,子供心に感じたことを思い出します。私にとっての勉強する時間といえば,当時は隣保館での補習学級だけでした。その後1980年,改進学習センターが開設され,私は中学2年と3年の2年間通うことになりました。まわりの友だちが高校進学に向け勉強していることの刺激を受け,ようやく自分も高校進学を意識するようになりました。そんな私達が,今親となり子育てに取り組んでいます。私自身は解放運動を通して,子どもの教育の大切さや,学校・家庭・地域の連携が重要であることを学びました。そして,親として家庭で教育の実践をしようとした時に,本当に辛いものがありました。新聞や本を読むこと,絵本の読み語り,今までに私にはそういった経験がありません。私の子どもたちも,勉強を中心とした生活習慣を確立できない,しにくい状況にあると思っています。解放運動の先輩から学び,乗り越えようとしていますが,そこには決定的な差があると思っています。もう一つ,いくらがんばっても無理なものがあります。それは,世代間に渡って積み上げられてきた教育,文化資本です。蓄積された知識や教養,感性などを親から子へと資産として受け継ぐことが,私にとっては乏しく感じています。動物園や植物園に子どもを連れて行くことはあるが,子どもが動物などをじっと見ていると,親のペースで行動してしまい,子どもが何かを発見しようとしているチャンスを奪っているかも知れないなと思っています。このような親の実態から,学習センターでは,文化的なすそ野を広げる学習が行われてきました。私達は,学習も含め文化資本を,学習センターにしか託せないと感じています。06年までは週3回,3時間の学習の機会があったのですが,07年度からそれが廃止されました。子どもたちは学習に興味を持ちとても喜んでいました。多くの親たちも学習施設に足を運んでいたし,関心は非常に高かったと思っています。この3時間の学習時間が家庭の中で確保できていません。さらに,地域に活動の場所があってこそ,学校・家庭・地域の連携が成り立つと思うし,その場所がセンターであると思います。保護者同士のつながりもなくなって,子どものことや教育環境の情報交換が少なくなってきましたし,地区の子どもたちを町内の大人が見守るということも,非常に難しくなってきていると思います。学習相談事業が廃止されるにあたっての説明会で,いろいろな保護者の意見が出ました。「学習施設の自主活用といわれますが,低学年の子どもたちには難しいのではないですか。先生の後ろ盾があって行けるのではないのですか」「先生の後押しは必要だし,学習施設に先生がいないという不安があります」「なぜ,学習相談事業をやめるのかくわしく教えて欲しい」「相談に来て欲しいと先生は言うが,実際は難しいと思います。置き去りにされていくように感じます」「高校に進学する時に不安があります。学校だけでは無理じゃないんですか」親の不安や不信の声がたくさん,あがっていました。

 

外川:みなさんにもいろいろな思いがあったと思います。確認ですが,参加された保護者の方はかつてのように同和施策をやってくれとおっしゃった訳ではないですよね。

 

長谷川:それは違います。僕らの子どもたちは地区外の友だちを誘って一緒にセンターに行っていますし,それはお互いの刺激になっていいと思います。今のこの状況の中で,地区内,地区外に関わらず,しんどい子どもたちを公教育の中で教育の保障をしていく,そういった学習施設でなければならないと思います。

 

外川:4人のパネラーのみなさんからは,それぞれの思いを語ってもらいました。ここで会場のみなさんからも「学習センターと子どもたちの今」ということについて,お話を伺いたいと思います。

 

 

 

【討論】

昨年,学校完結型とする委員会からの提案がありました。かつては,なぜ学校で完結できないのかということに対し,学校で完結できないから外でやると説明されてきました。いろいろと学ぶ中で,その説明に納得したところもありました。昨年から方向が変わったことに対し,今できる条件は整ったのか,これからのビジョンはあるのか聞きました。それは何もない,無理だというのが,現場の意見でした。これは,今の潮流に乗って同和施策,同和教育をやめていこうという政治的な意図でやられていることなんです。できる条件がないのにやっていこう,やりながら考えていきますと言うのは無責任で,それが教育委員会,学校の姿勢でした。では,なぜ学校完結型でできないのか,これには歴史があるのです。昭和27年の同和教育施策が始まるまでは,部落は教育から除外されていました。また戦前は仕事を奪われ,納税兵役の義務は負わされ,なおかつ差別から仕事に就けない。部落の貧困下にあえぐ中で,部落差別を途絶えさせるすべは何もなかった。その結果,昭和25年の調査では,中学校で4人に1人が不就学生徒である現状が生まれてきました。そして,文字の読み書きができない,履歴書が書けない,仕事に就けない,限られた肉体労働や日雇い労働しかできない,収入は少ない。当時は,8割以上が平均収入以下であるという現状がありました。改進地区の状況も,非常に劣悪な住環境でした。一部屋5〜6人で住むのが当たり前,勉強机など置けない状況でやってきました。運動の中で求めたのは,家庭に勉強する部屋が作れないから,学習センターを作って子どもたちの勉強する場所を確保したいということです。それに親の学歴,中卒,それも4人に1人が中学にすらまともに行けていない。教育力がない。自立ということがよく言われますが,一番大事なことは自分の能力で食べていけるということです。自分の能力を高める場は学校であり家庭でしょう。家庭に条件がなく学校でも見放されたら,自立のための能力をどこで付けるのか。このことが今,公教育で問われているのではないでしょうか。学習施設も,従来のままでよいとは思っていませんが,かといって打ち切ってよいとも思いません。今こそ学習施設の中で,体験や経験を重視した取り組みが必要何じゃないかなと思います。単純労働や肉体労働が8割を占める中で,部落の中では,文字を必要としない,生活経験が少ない,それを広げていく場所として学習施設はあるんじゃないかと思います。それは,最近地区外の子どもにも見られます。デジタル時計が普及して時間の感覚が少なくなったり,カードで買い物をしてお釣りなどお金の計算ができなかったりしています。全体に体験・経験が少なくなっている中で,それを学校だけでやるのは難しい,まして経済力の弱い家庭の子どもほど,体験・経験が少ないので,今まで培ってきた学習施設の役割が必要なのではないかと考えています。もう一つ,地域の子育て共同体としての役割があります。私がまだ子どもの頃までは,同世代の親たちがたくさん住んでいました。子どもたちの名前と顔もある程度一致し,みんなで情報交換や相談もやって来れました。しかし今,部落の中から安定収入層がどんどん出て行き,地域の子育ての共同体が崩壊してきている。これを持ち直すためにも,もちろん学校・PTAも大事でしょうが,地域の大人と一緒になって子どもに関われる学習施設が必要ではないかと思います。家庭がみられない時,家庭の責任だと言うのは簡単です。だけど。家庭がみられない時,きちんと子どもたちをみてやれる場所が必要なのではないでしょうか。それがまさしく,これからの学習施設のあり方だと思います。

 

養正小学校,高野中学校と子供がお世話になりました部落出身の保護者です。一番上が24歳,一番下が12歳で,子どもの成長の中で,学習施設の変遷を目の当たりにしてきました。学習施設は,箱だけではなく人づくり,人を育てる場所だと思います。わが子は生きる力を,学習施設で育んでもらったと思います。学習施設に行って,自分のおじいちゃん,おばあちゃんをゲストティーチャーによんで,その時代のことを勉強する中で,上の子はいろんなことを学んできました。上の子が高3の時に友だちから,「同和地区の人がいるところで働くのかといわれた。私も同和地区やでと言い返した。他の人は同和地区のことをそんな風に思ってるんや。でも私は保育士になって働いていこうと思ってる」と言っていたんです。そういう娘の姿を見た時に,学習施設で先生たちに支えてもらい教えてもらったことが基礎になって,今のわが子はあるのだと思いました。これからの学習施設を考えた時に,いろいろな目にあった部落の子を支えていくのは,親だけでいいのかと思います。私が学校の先生になりたいと思った時に支えて下さったのは,小学校の先生であり中学校の先生でした。私も親から「学校の先生の言うこと聞きや」と耳にたこができるくらい言われて育ちました。熱い思いを持った先生であったり先輩が私を支えてくれた。これからの学習施設を考えることが大切だと思います。

 

外川:今こそ,学習施設が,しんどい子どもたちの体験を保障していく場として,また保護者のつながるコミュニティの場として大切である,子どもたちのよりどころであるという意見が続きました。会場からもう少し,ご意見をお聞かせいただきたいと思います。

 

崇仁学習施設も活発に利用があります。今日も主事の先生に来てもらえたらよかったのですが,センターに一人しかいないのに,人手が足りないので行けないとのことでした。このような状況に対して,PTAや地域でも,必要なことについてはきちんと申し入れていこうと計画をしています。崇仁でも説明会はありましたが,同じような発言でした。建物はあっても,主事が引きあげられればどうにもならない。もうすぐ3月だというのに,人事については何も決まっていない。このことについても,PTAだけではなく地域をあげて自治会も含め,きちんと話を持っていきたいと思っています。改進では,保護者も巻き込んでやっておられることは大変いいことだと思っています。崇仁は,PTAと言わずPTCAとよんでいます。CはコミュニティのCで,地域も関わっていくようにしています。ぜひ改進でも,必要であるというアクションをおこしていただき,先生方にも一緒に発言して頂けるとありがたいと思います。文化資本についてもまだまだ弱く,これから3小学校が統合していくのですが,それを前にして,いかに私達ががんばるかが大切だと思っています。わたしたちの地域でも,学習施設が教育センター的な役割を果たしています。人と人がつながる中心となっており,文化資本を高めていく大事なものと思っています。

 

今回初めて参加させて頂きました。私の娘はとても勉強ができません。今日出席させて頂いて,同和地区の子どもは幸せだなと感じました。うちの子は小学校から中学校に上がる時に,心理テストを受け育成の判断がでました。子どもは聞いていないとは思うけど,なぜか学習障害とか知的障害という言葉を知っていました。あなたは障害児ではないよ,と言ったのですけど,勉強ができない自分に苦しみ,朝になると学校に行けない状態でした。ある日,自分の娘が私に向かって「お母さん,殺して」と言ったんです。学校に行けない子をいかに行かせるということに,すごく悩みました。それが娘の心には負担だったと思います。病院の先生からも,なぜ高校に行かせる必要があるのか問われて,その通りだと思えるまでに,私も1〜2年かかりました。今日,初めて同和問題の現状を知りました。こんなことは言ってはいけないかも知れないけれど,母から,ひどい言葉でけなされたり何かされたということを聞かされると,何でなんだろうと思っていました。私の韓国の友だちはすごく温かい人で,韓国の人も大好きです。同和地区では,学校にも行けるし部屋がなければ施設で勉強できるし,うらやましいと思います。私も家が商売をしていたので受験の時にも勉強できなかったから資料館や図書館で勉強していました。だから,同和地区の人だからとか,そうでないとか,差別というか人を分けてはいけないと思います。

 

外川:ここに来られて,同和地区に思ってこられたことは,解決しましたか。

 

なぜ同和地区のことを言われるのか,言わなければわからないし,私自身はそのようなことを言われなければ何も思いません。なぜ,部落出身であることを言うのか,子どもだって何も思ってないと思います。

 

外川:自ら差別があることを明らかにして,その事をふまえて生きていかないといけない。差別は私にあるのではなく,社会にあるのです。社会にあるから,隠して生きるのではなく,その中でどう自己実現をしていくのか,そういうことを避けては通れないことを,ご理解いただきただければ。ご自身が苦労して図書館や資料館で学ばれてきた。その図書館や資料館があることさえ知らされていない生活環境,学ぶ場があることさえ受け止められない文化が,差別によって在日コリアンや被差別部落の中にあったのです。

 

私の小さい頃から,母は絵が好きだし美術館に連れて行ってもらったりしていました。先ほど,長谷川さんは博物館や美術館は無縁ですと仰っていましたが,そうじゃないと思います。ぜひ行って下さい。

 

外川:それを奪われてきたということを,ご理解頂きたいと思います。また,改進学習センターをめぐって問題であるのは,今確実に社会の中で学習の機会を奪われたり,学校で十分学習が保障されなかった子どもたちがいる。そんな子どもたちが集う場としての,最後の砦である学習施設が今後どうなっていくのかを議論していることをご理解頂きたいと思います。

 

私達が目指しているのは,努力したら報われる社会です。私の父親は,学校の先生に勉強できるから上の学校に行くように勧められました。定時制の学校に通って,昼間は働いて家にお金を入れて,アルバイトをしながら学費を作っていました。それが母親に,そんな金があるなら家に入れるように言われ,学校に行く夢を絶たれました。貧乏なため,また親も教育の価値がわからず,いくら努力してもそれ以上進めない。晩年父親は京都市の現業職に就きましたが。いつも,学校さえ行かしてくれたら,後から来る者が自分を追い越して出世していくのを見送る必要はない,と言っていました。努力できる社会,自己実現ができる社会にしていかなくてはならない。それと,なぜ部落のことを言うのか,黙っていればわからないのに,と言われるが,黙っていてはなくならないのです。先般の結婚差別事件でも,司法書士を使って戸籍を調べ,相手は部落の者だからあきらめなさい,といわれる。部落であっても差別されない社会なら,私は何も言いません。お互いが理解することが大事だし,こうやって率直な意見をいえる,こういう場所を増やしていけたらいいと思います。そういう問題を一緒に協議し,悩める親が集える場としての学習施設にしていくべきだと思います。

 

教育保障,学力保障をどうするのか,子どもの将来に心を悩ませる親という同じ立場で,自分自身の問題であると気付かされました。学習施設の内容やどのような取り組みをされてきたか,改めて知るよい機会になりました。学習施設に恵まれた子どもはうらやましいというのが本音です。私の学校にも,全く学習が身に付いていない子どもがたくさんいますが,そういった子どもたちはほったらかしです。学習施設を作るのがいいとは思いますが,まずは,学級の人数を少なく,小中学校すべてで30人学級を実施して欲しいと思います。40人学級では,先生もすべての子どもの学習や生活に関わりたくても関われないと思います。保護者の願いとしては,一人一人の子どもに目の行き届く教育をお願いしたいと思います。

 

外川:02年に,学習施設を一般開放した時に,行ける範囲は限られているという話はしてきました。一方では,さまざまな条件で家庭で学習しにくい子どもたちには施設が必要だということ,同和地区から作られてきた施設はもっと全市に広がっていくべきものだということも話をしてきましたが,そうはなってきていません。学力保障がすべて学校の中ではやりきれない時,経済力があれば塾などに行かせることができても,そうではない子どもたちの行く場所がない。そのために,広く社会的にしんどい子どもたちに,また保護者が集まれる場所にしようとしてきたのだと思います。

 

私もセンター学習に通っていました。今の状況を考えると,地域の子どもの学力を保障することは,とても大切なことだと思います。そして,学習施設は,社会に出た時にそこで生きていく力,人間関係力,忍耐力等なども付けていく場であったと思います。学校や家庭でそういう力を付けにくい家庭があるのが現実なので,子どもに一番近い教師がそれをどうにかやっていくのだと思います。私も教師をしているのですが,毎日時間との戦いで,学校のなかだけではしんどい子に深く関われていません。将来は関係校に勤務をしたいし,地域に入って親とも触れ信頼関係を築き,子どものためにがんばりたいです。地域の子は世界が狭いところがあり,生きていく上で大切なことをもっともっと知ればいいのですが,それができない状況や環境もるので,そういった子どもの生きていく道の幅を広げていきたいと思います。

 

外川:ありがとうございました。最後に,パネラーのみなさんに,一言ずつお願いします。

 

小泉:学習施設に来ている子どもたちは,自分で勉強できない子が多いです。子どもたちは職員と話しながら,確認をしながら勉強を進めています。センター学習のあるなしではなく,小学生が図書室に来て,大人とコミュニケーションをとりながら学習を進めています。イベントも何回かやっていますが,これは生活経験を広げるものだと考えています。自由に参加できるので,もっと多くの人に利用して欲しいと思います。学習施設について,いろいろ提案していただきながら,地域で活用して頂けるとありがたいと思っています。

 

矢野:弥栄中学校は,3年後に統合でなくなってしまいます。次の学校はどうしていくのか,次の学校に向けて今目の前にいる子どもたちをどうしていくのか,しっかり考えて行かなくてはならないと思います。今日,いろいろな方の意見を聞かせてもらえて,いい勉強をさせていただきました。これを生かして,新たな道を考えていきたいと思います。

 

熊本:今本校では,夏休みに校庭にテントをたてて,全校児童が泊まるという取り組みをしています。ある子どもは偏食がとても強かったのですが「4年生やし手伝うわ」といって,じゃがいもを切ったり洗ったりしました。そして,できたカレーを自分で作ったらおいしいと,肉や野菜も食べていました。その子の目は輝いていました。学校の中で,家庭で,また地域で,子どもたちが目を輝かせる場所が必要だと感じています。

 

長谷川:地区内,地区外関係なしに,しんどい子どもを,今どうやって学校教育のなかで救っていくのか,一緒になって考えていく必要があると感じました。学習施設では1999年に共同利用が開始されています。子ども同士のつながり,交流を通して,勉強への意欲を高めたり,先輩を目標にがんばったり,そういうことができる学習施設になったらなと思います。現場から,これからどういう施設にしていくのか,論議していく必要があると思います。

 

外川:「存在意義をなくした学習施設は即刻廃止せよ」「民間委託するばもっと利益が上がるのではないか」「取り組みは学校のなかで完結して,教員の組織的な取り組みはやめろ」といった意見が出てきているけれども,それぞれが考え広く論議していくことが,今こそ必要なことと感じました。京都の教育が全国に誇りうるもの「一人一人を徹底的に大切にする教育」です。これが京都の教育の根幹であり,それを作ってきたのが同和教育です。この言葉の意味は,必要な子どもたちには必要なことを行政の責任においてやるということです。ここにいらっしゃる,今まで一人一人を徹底的に大切にする教育に携わってこられた教員のみなさん,また,そういう教育の中で育ってこられた保護者や若い人たちが,しんどい状況の子どもたちを目の前にして,誰が何と言おうと,やるんだという雰囲気を強く感じました。問われているのは,一人一人が,目の前にいるしんどい子どもに対して,あなたは何ができるのか,ということだと思います。どうもありがとうございました。

 

司会:先生方の意見が多いかと予想していましたが,今日は保護者の方の意見,特に地区外の方の率直な意見を聞けたのは,大変意義があったと思います。先日,大阪の中学校の給食が廃止になったというニュースを目にしました。行政側は「全生徒にまんべんなくいかないから」と言っていました。ある方にあわすことはできないのかとの問いには,「予算がないから」との答えでした。必要なことはわかっていても,予算がないから切っていくというのが,今の世の中の流れです。今日の意見の中にもあったようにしんどい子どもや地域はいっぱいあるのに,学習施設を広げようという意見は出ずに,部落にあるから切りましょう,これはまさに差別的な考え方だと思います。教育保障の拠点は学校です。けれど,学校だけで充分に子どもたちに教育を保障していけない現実があるからこそ,家庭や地域で,大人が子どもたちに関わることが大事だと思います。子どもは社会の宝です。これはけして一人の保護者の責任だけですむものではありません。保護者や先生,地域の人など,すべての大人が子どもを大事に育てていく,見守っていくことがこれから求められていくと思います。これから学習施設が,心豊かな,感性豊かな,そして自分の夢を実現できる子どもたちを育てていくために,これからそれぞれの立場で何ができるだろうか,みなさんと意見交換をしていき,すばらしい教育を作っていきたいと思います。

  

  

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